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許された人(後編)

異世界もの、転生ものなど、キラキラする物語の多い中で、本作は地味です。

非常に、地味、地味、地味です。

でも、たまには、じみいいいいいいな純文学的な作品でも読んでみたい方、どうぞ。

少し長いので、前編と後編に分けます。

6.


 翌日、超弩級の二日酔いで目が覚めた。

 ベッドの中で、目を覚ます。ちゃんと寝間着に着替えている。

 しかし、記憶がない。思い出そうと努めるが、昨夜、ベッドに寝るまでの経緯が全然思い出せない。

 かろうじて記憶があるのは、カウンターに座ってワインを飲みながら、仔羊を食べていたことだ。仔羊を食べている最中から、後の記憶がない。どうにも思い出せない。

 むくっと起き上がる。思い出せないものは、仕方がない。アルコールの影響で記憶がないのは、どうしてか。その原因について、以前、テレビで見たことを思い出す。アルコールの作用で、忘れるのではなく、もともと記憶していないのだ、という説明だった。人の脳は、コンピューターと同様、短期記憶をする部分と、長期記憶をする部分に分かれている。短期記憶の部分は、思考するのに必要だ。アルコールの影響を受けても、この部分は健在のままだ。ひどく酔っていても、まともに話したり、普通に会話が成立するのはそのためだ。他方、記憶というのは、そうして処理した情報を長期記憶の部分に順次書き込むことで蓄積される。通常、忘れるというのは、その情報をどこに書き込んだのか分からなくなって、取り出せなくなくなる現象なのだそうな。それに対し、アルコールの作用で記憶がないのは、そもそも長期記憶の部分への書込みに失敗するのだそうな。つまり、もともと脳の中に情報が残っていないのだ。だから、酔って記憶のない場合は、思い出そうと努力しても無駄、というわけ。無い情報は、取り出しようがないわけだ。

 しかし、分からないのは、私自身がどうしてこんなに酔ったのか、ということだ。確か、ひとつ健人氏を酔わせてやろうと目論んで、ワインをボトルで注文したことは覚えている。そうして、健人氏に、ワインを飲むように勧めたことも覚えている。それが、どうしてこうなった?

 飲ませているうちに、自分で飲んで、こっちが酔っぱらった、ということか。

 これでは、昨夜、健人氏との会見を持った意味がない。腐り切って、そのままふて寝した。


 夕方、スペイン・バルの開店を待つ。午後4時ころには始まる。

 4時10分前ころから起きて、身支度をして窓の外を見る。店は私の部屋から見える位置にある。店の灯りが点いている。出発。

 

 「こんちは」と、扉を開ける。

 「いらっしゃ?い」と、店長に陽気に迎えられる。

 当たり前の顔をしてカウンターに座る。適当な赤ワインを出すように頼んでから、「あのね、私、昨夜、ひどく酔ってませんでした?」

 すると、店長、「いや、そんなんでも、ないですよ。」

 「そうかな。ちゃんとしてたかな。いや、そんなはず、ないんだが。」

 既に栓の抜かれたボトルから、赤ワインがグラスに注がれる。それを見ながら、「実は、覚えてないんだ。ほとんど覚えてない。仔羊の炭火焼を食べ始めたところまでは覚えているんだが、その後の記憶がね、ないんだな、これが。あたしゃ、大丈夫だったかな。」

 「そんなに酔っていたようには見えませんでしたけどね。普通に話してましたよ。」

 「あ、そう? 何を話してた?」

 「好きな人がいないなんて、あり得ない、とか。わたしらの世代では、考えられない、などなどです。」

 「そんな話してた? で、健人氏は?」

 「ごにょごにょ答えていましたけど。なにしろ、ああいう人ですから。なんか良く分かんないこと言ってました。まあ、大したことは、言ってませんでしたけどね。あ、あと、お二人で、世界情勢について話してましたね。」

 「世界情勢?」

 「ええ、中東とか、東欧とか、あっちこっちの紛争地域について、戦争とか、民族がどうの、宗教がどうのという話です。」

 「そう。全然覚えていない。んな話をしていたのか。話の中身は? なんか、変なこと言ってなかったか?」

 「別に、変じゃないですよ。ま、ありがちな話じゃないですか。」

 「激しく論争してたのかな。激論してた?」

 「いえ、激論というほどじゃなくって。そこそこ話は合ってましたね。」

 「ふううん。あ、そう。で、健人氏はどうやって帰った?」

 「さあ、お二人で店を出られて、店前で別れました。おそらく、地下鉄にでも乗られたのでしょう。」

 「それは、何時ごろ?」

 「9時を少し過ぎてましたかね。」

 「ふ?ん。で、結局、私は昨日の会見の目的を果たしたのかな。」

 「微妙ですね。具体的なことは、なにも聞き出せませんでしたよ。」

 「あほくさ。」ワインをたっぷりと口に含んで飲み込む。「で、どう思う? あの男。」

 「どうもこうもないですよ。それはともかく、お父さんには報告したんですか。」

 「いや、まだしていない。」

 「そろそろ電話かかってきますよ。」

 「うん、どうしよう。」ふと、女の子を見て、「なんて名前だったっけ。」

 「私ですか?」女の子は、きょとんとする。

 「うん。」

 「覚えてないんですか」と、彼女。

 「いや、知らない。」

 すると、店長が、「今まで、何回も訊いてますよ。少なくとも5回、彼女の名前きいてます。」

 「え、そう。あらためて教えてくれる?」

 「順子です。」

 「えらい古風な名前だね。」

 「古風ですかね。」

 「お歳は、おいくつ?」

 「24です。」

 「その名前は、誰が付けた?」

 「父だそうです。」

 「お父さん、おいくつ?」

 「52です。」

 「私と、そう違わないな。私らの若いころ、淳子という名のアイドルがいたな。でも、24年前に、自分の娘に『じゅんこ』という名前を付けるのは、少し変わっているかも。一度、お会いしたいな、お父様に。ところで、『じゅんこ』はどう書くの? じゅんの字は、なに?」

 「順序の順です。」

 「あ、そう。純粋の純とか、桜田淳子の淳子さんじゃ、ベタに過ぎる。順序の順は、文字通り順当だ。」

 「なに、訳の分からんことを言ってるんです。」店長が横から口を出す。

 「いや、今どき、若いのに順子さんて、珍しいよね。」

 「最近、子供に奇妙な名前を付けるのが流行ってるんで、まともな普通の名前に違和感を感じるんじゃないですか。『じゅんこ』なんて、いまでも割といますよ。そんなに古い名前でもないでしょう。」

 「そうかね。20年ほど前なら、20歳前後の女の子で『じゅんこ』はありふれた名前だったろうがね。いや、んなこた、どうだっていいんだ。ねえ、順子さん。ひとつ、頼みがあるんだが。」

 「なんでしょう。」

 「健人君の彼女になってやってくれないか。」

 「はあ?」順子氏、素っ頓狂な声を出す。

 「だめかね。」

 「なんで、私があの人の彼女にならなきゃいけないんです。」

 「ああいうの、嫌い?」

 「いえ、別に嫌いってことでは。」

 「んなら、いいじゃない。見合いでもしたつもりになって、ねえ。」

 「だから、なんで私があの人の彼女にならなきゃいけないんです?」

 「彼に、生きる歓びってものを知って欲しいんだ。」

 「で、どうして、私がその役をやらなきゃならないんですか。」

 「いやかね。健人君のこと、どう思う?」

 「暗いですよ。あの人。」

 「そうだよ。暗い。暗いからこそ、明るくしてやって欲しい、というわけでね。」

 「暗い人を明るくすることなんて、できませんよ。」

 「ダメかね?」

 「無理。」

 「そう言わんと。君は、適任だと思うんだけど。」

 「でも、あの人は学生さんですよね。だとすると、私の方が年上になるから、もっと若い子に頼んだら、どうですか。」

 「いや、年上だからこそ、いい。うまくリードしてやってよ。どうせ、あの性格だから、自分から女性にアプローチすることなんて、できやしない。君がうまく乗せてね、彼の生き甲斐になってやってよ。」

 「なんで、私があの人の生き甲斐になってあげなきゃいけないんです。」

 「いいじゃないか。君、彼氏はいる?」

 「今は、いません。」

 「今は、てことは、前はいたんだ。」

 「別れましたよ。」

 「じゃあ、丁度いい。彼を新しい彼氏にする。」

 「私にも選ぶ権利はありますよ。」

 「駄目かね? あの男も、ルックスはそんなに悪くないし、性格だって、ちょっと変わっているけど、悪い人間ではなさそうだし。」

 「楽しくないですよ、あの人と一緒にいても。なんか、暗いし。」

 「君と付き合うようになれば、明るくなる。そんなもんだよ、男って。単純なもんさ。」

 「無理があるんじゃないですか」と、また店長が横から口を出す。

 「でも、彼女ができたら、あの男も変わるんじゃないかな。」

 「そりゃ、そうかもしれませんけど、順ちゃんに彼女になってやれってのが、無理じゃないですか」と、店長。

 「人を助けると思えば、できないことじゃないでしょ。」

 「だから、私には、あの人を助けなきゃならない義理はないって言ってんです。」順子が言い放つ。

 「そこを、なんとかさあ。」

 「はい、はい。考えときましょ。」

 これ以上言うと嫌われる。この話題は切り上げて、ワインを堪能することに集中した。してるうちに、夜となり、夜更けとなる。

 

 翌日。午前11時。ベッド脇に置いた携帯が振動する。

 健人氏からの電話。横になったまま、慌てて出る。

 「あなたは、もと不動産業者でしたよね。」出し抜けに訊かれる。

 「え、ああ、不動産会社に勤めてました。」

 「ちょっと、相談なんですが。」

 なにかと思えば、古民家を借りて住みたい、という。今の賃貸マンションを引き払って、一軒家の、それも古民家に転居したいというのだ。

 「どうして、また?」

 「古い家が好きなので。それだけの理由ですが。」

 「しかし、古民家の空き家は、賃貸の情報に出ませんよ。業者を当たっても無駄ですね。」

 「いや、物件は、もう見つけたんです。瑞穂区の方に、空き家になっている古い民家を見つけました。」

 「なら、あとは所有者と掛け合って、契約を交わすだけですね。」

 「そこで、相談なんです。交渉ごとには慣れてませんし、契約書だって、どういう内容にしたらいいのか、分かりません。ここはひとつ慣れておられる人に依頼した方がいいかなと思いまして。」

 「そういうことですか。」少し考える。「では、お引き受けしましょう。所有者との交渉と、契約書の作成、契約締結の立会いまで、しましょうか。」

 「お願いします。」

 妙なことを言い出したもんだ。しかし、転居は良いことだ。気分が変わるかもしれない。

 「所有者の連絡先とか、分かりますか?」

 「いえ、まだ何も判っていません。」

 「では、その物件の所在地の正確な地番は、分かりますか?」

 「いえ、それも。ただ、現地まで案内はできます。」

 しんどい話だな。「んじゃ、一度、現地に行きましょう。」

 

 午後1時30分。

 濃い灰色の暗雲が頭上に広がる。一雨来そうだ。

 健人氏が指定した待ち合わせ場所は、病院の1階ロビー。地下鉄を降りて、桜山にある名古屋市立大学病院の巨大な建物へと向かう。病院に用がないのに待ち合わせ目的でエントランスを通るのは気が引けるが、健人氏がどうしてもここが良いというのだから、仕方がない。玄関を通ると、病棟までの間に広大なスペースがあり、奥にスターバックスがある。開放的な雰囲気のロビー内に空間を仕切る壁に沿って長いベンチがあるので、とりあえず空いているスペースに座る。

 うとうとし掛けたころ、「ご案内します」と言う健人氏の声で目を覚ます。咄嗟に立ち上がり、軽い立ちくらみによろける。

 「大丈夫ですか?」と、健人氏。

 「ええ、大丈夫です。で、物件の場所は?」

 「こっちです。」と、健人氏はさっさと歩いて行く。


 数分後、私たちは古い民家の前に立つ。威風堂々とした昔の豪邸、というのではなく、なんの変哲もない、平々凡々な単なる在来工法の2階建ての木造の家。

 「これですか?」私はいささか期待はずれの感で尋ねる。

 「ええ、なにか?」

 「これって、ただの古い民家ですよね。」

 「そうですよ。ですから、古民家と申し上げたのです。古民家といえば、古い民家ですよ。まさか、古民家が『古い民家』以上の何かであるなどと、期待なさったんですか?」

 「あ、いや、確かにおっしゃる通りですが。しかし、いったいどうして、こんな古い家に住みたいなどと考えたんです? 冬は寒いし、夏は暑いし、雨だって漏るかもしれないし、およそ快適な住居とはいえないと思いますよ。コンクリート製のマンションに住んでいた方が、はるかに楽ですよ。」

 「そうでしょうが、一軒家に住みたいのです。住みづらいことは、覚悟の上です。」

 こう言われると、どうしようもない。一応、表札を確認したうえで、建物とその周辺の写真を撮る。持参した地図帳の該当頁を開いて、現在地の印を付ける。そして、メモ帳を取り出し、目的の建物を含む区画の絵を描いて、建物の区画内での相対的な位置をできる限り正確に記入する。

 そして、健人氏に、仮に所有者が貸すことに同意する場合、家賃をいくらまでなら払う意思があるか尋ねる。「相場どおりで、いいですよ」と健人氏は素っ気なく答える。そうはいっても、一応、上限は知っておかなくては、と言ってみたが、「客観的に適正な家賃なら、いいです」としか言わない。

 「では、持ち主を調べて交渉してみましょう」と、後日の連絡を約して健人氏と別れた。その足で法務局へ。公図を見て地番を確認し、不動産登記事項の証明書をもらう。

 これだけの仕事で疲れ切った。登記上の所有者は、2年前に土地と建物を相続した人で、守山区に住んでいる。体力旺盛なころなら今日のうちにその住所を尋ねるのだが、そんな元気はない。今日は所有者が分かったことで良しとして、帰宅して仮眠を取り、夕方、スペイン・バルへ。

 「一軒家に住みたいんだってさ。」店長に言うと、

 「よう分からん人ですね。」

 「持ち主が分かったから、交渉するけど、うまく行ったら、順子さん、彼と一緒に住みません?」

 無視された。「ねえ、ねえ。どう? 一軒家だよ。古いけど。」しつこく言うと、

 「あなたが住めば、いいじゃないですか?」と、順子氏。

 「男どうしで同棲して、どうすんの。」

 「どうして、私とあの人と、引っ付けたがるんです?」

 「暗い若者を、明るくしてほしいの。ボランティア精神で、どう?」

 「そんなの、あの人に失礼じゃないですか。好きで一緒になるんならいいけど、助けるつもりで彼女になってあげるなんて、そんな理由で付き合うのは、かえって相手を侮辱することになりませんか。」

 ぐうの音も出ない。最近の若い人は本当にまっとうなことを言う。

 「んなら、彼がこの店に来た時は、せめて明るく接してあげて。」

 「してますよ。」

 「ん?」

 「してるじゃないですか。よほど嫌なお客じゃないかぎり、お客様みなさんと明るくお話させていただいております。」

 「あ、そうね。ありがと。」

 今日は何を言っても言い負けそうだから、食事に専念することにしよう。

 「なんか、美味しいもの、ない?」尋ねると、

 「青首、ありますよ。」と、店長。

 「青首?」

 「真鴨です。」

 「鴨か。葱しょってる?」

 「こんなんです」と、私の戯れ言は受けもせず、店長は奥から大きめのシャンパンを入れる木の箱を持って来た。中を覗くと、まったく生前の姿のままの頭の青い美しい鴨が眠っている。

 「これを、これから捌くの?」

 「これとは別に、既に毛をむしったのがありますから、焼きましょう。胸肉ともも肉を炭火で焼くと、うまいですよ。」

 「うん、ワインが進みそうだね」などと言っていると、携帯がぶるぶると震えた。「あ。」見ると、島崎父から。「無視しようかな。」

 「お父さんから、電話ですか?」

 「ん? うん。そうなんだけど。出たくない。」

 「出た方が、いいでしょう。今出ないと、うるさく何度も掛かって来ますよ。鬱陶しいことは、早めに処理しといた方が、後が楽ですって。」

 「あんたも正論吐くね。出る方の私の身にもなってよ。」

 「まあ、ここは、えいやっと。思い切って出る。」

 「でも、なんて言や、いいんだろうね。どうやって、ごまかそう。」

 「そこは、うまくやってください。」

 やむを得ない。ここまで煽られたら、出ざるを得ない。「もしもし。」

 「どうなってる?」明らかに声に怒気が含まれている。

 「あ、ああ。そう、悲観せんでもない。一応、順調に行っている。」

 「息子の居所は、分かったのか。」

 「いや、あの、彼はね、しょっちゅう移転してるもんだからね。あちこち転々としていて。だから時間が掛かっているけど。大丈夫、ちゃんと追っているから。そのうち見つける。」

 「そうか。そっちから何も連絡がないから、心配だ。情勢に変化があったら、逐一報告してくれ。」

 「あ、ああ、うん。そうする。」

 「では、よろしく。」

 ふ?いっと、大きく溜息をつく。「ちょっと、どう思う?」

 「どうもこうも、ないです。」店長は、調理に取り掛かる。若干、話しの方は上の空だ。

 「なんとかせんとな。いつまでも、ごまかせまい。」

 などと言いつつ、例によって酔っぱらった。



7.


 翌日、軽い頭痛を抱えながら、例の古民家の所有者に手紙を書こうかで悩む。あまり悠長なことはしたくない。ままよ、住所は分かっているのだから、事前の連絡なしに突撃しよう。

 長時間の外出に堪えられるだけの体調が整ったと思われるころ、いざ出陣。

 既に午後2時を過ぎている。薄曇り。所有者は在宅だろうか。もし不在なら、名刺を置いて来よう。

 マンションから栄まで、ちかごろの体力では、少しきついが、タクシーに乗る距離じゃない。歩いて瀬戸線の駅まで行き、電車に乗って守山区へ。

 例によって事前にパソコンから出力した地図を頼りに行く。精度は高いから、見つけ損なう気遣いはない。目的の家は、瀬戸線の駅を降りて数分歩いたあたりの住宅街のただ中にある。

 見つけた。外観デザインは洋風の一軒家だが、健人氏が借りたいと言っている古民家と良い勝負の古い家だ。ささやかな庭と、それを囲む生け垣、所々に錆の浮かぶ鉄の門扉がある。庭には低木、庭石があり、花壇もあるが、手入れはなされず荒れている。

 門扉を支える門柱にインターホン。ボタンを押す。しばらくして、「どなた?」と、不快そうな低い女性の声がする。

 「不動産業の者です。瑞穂区の空家の件で、少しお話したいことがありまして参りました。」営業用の声を出す。現役時代を思い出す。

 「瑞穂区の空家?」怪訝な声。

 「一昨年、瑞穂区にある家を相続なさいましたね。現在、空家と思われますが、あそこを借りたいという人がいまして。その件で、お話させていただきたいのです。」

 沈黙。このまま無視されるかな、と心配になったころ、玄関の扉が開いて、初老の女性が姿を現した。実に不愉快そうな顔をしているが、話は意外に早く進んだ。瑞穂区の家屋を相続したのは彼女の夫で、今は外出しているが、人に貸すのはやぶさかではないと思うと言う。丁重にお願いして、連絡先を名刺の裏に書いて手渡して帰った。

 その夕、さっそく相続人本人から電話があった。私は、ある若者が古民家を借りたいと言っていると告げると、「それは、何者ですか?」と問われる。

 はたと困る。引き蘢りの学生だ、とはいえない。そんな者には貸せない、と言われるだろう。

 まだ学生だが、親は固い事業を営んでいて、経済的には保証付きだ、と述べる。そのうえで希望の家賃の額などを尋ねると、「こっちは素人だから、相場を知らない。こういう場合、世間じゃいくらくらいで貸すもんかね?」と逆に問われる。私はプロだが、古民家など扱ったことはない。そもそも古民家の賃貸料に相場なんかないだろう。適当な金額を言うと、相手は少し考えてから、「その2割増の賃料なら、貸す」と言う。したたかな奴だ。私はいったん電話を切って、健人氏に電話し、相手の言った希望の賃料の額を伝える。健人氏、「思ったより、ちょっと高いですね」と、不満そうに言うが、すぐに「いいでしょう。決めてください」と言う。そこで、私は直ちに物件の所有者に了解する旨を伝え、契約書の作成を約束した。

 その後は円滑に進んだ。私は、賃料の支払い方法など詳細について双方に意向を確認して、ごく標準的な契約書案を作成し、翌々日には調印にこぎ着けた。あとは、ガス、水道、電気の供給の手配をすれば、健人氏は念願の古民家の居住を始められる。もっとも、実際に住めるようにするための掃除や改修は大変だろうが。

 契約の締結には骨折った。当事者の双方とも、外に出掛けることを嫌がるので、なぜか私が双方の住居を行き来して契約書に署名と押印をさせなければならなかった。そんな私の労苦をよそに、健人氏は上機嫌だ。私は健人氏に、これまで住んでいたマンションの解約の意思表示をするアドバイスをして、その後の手続は全部自分でするように強くお願いした。たぶん、ちゃんとやったのだろう。私は疲れた身体と神経を休めてから、数日後、健人氏の新しい住居を訪ねた。それは平日の晴れた午後だった。

 晴天の日中は、健人氏は家にいるはず。予告なく訪ね、呼び鈴を押すが、返事がない。おかしいな、と思いつつ、古くて薄汚いボタンを押す。返事がないので、携帯を取り出して電話してみる。健人氏は、すぐに出た。

 「あの、お出かけですか?」

 「いえ、家にいますよ。」

 「え? 今、呼び鈴を鳴らしましたが?」

 「ああ、あなたでしたか」と言って、電話が切れる。

 ?と思っていると、玄関の格子戸が、ガラガラっという古風な音をたてて開かれ、健人氏が現れた。

 「ども」と、健人氏。

 「新しいすみかは、どうですか?」

 「まあ、お上がりください。」

 というわけで、古民家に入る。狭い玄関で靴を脱ぎ、ぎしぎしと軋む廊下を歩いて玄関脇の部屋に通された。

 「うわっ。黴くさっ。」思わず出た言葉だ。

 六畳の間だが、洋風の間取りを見慣れている目には、ひどく狭く見える。

 それはいいが、部屋の中は決して整理されているとはいえない状況にあった。元の持ち主が死んだ後、遺品の全部を処分することなく放置してあったのだろう。一見して健人氏のものではあり得ない種々の物どもが部屋中に散乱している。小さな木のちゃぶ台、古い扇風機、箪笥が2棹、食器戸棚、金魚鉢、固定電話の置台、電話帳、ブラウン管のテレビ、布が破れて綿が見えている座布団等々。どれもが埃を被っている。

 見た目のきたなさもさることながら、臭いが厳しい。どんより湿った室内の空気に、濃厚な黴の臭いが漂う。

 「よく、こんな環境で、生息できますね。」

 「慣れれば、どうってことはないですよ。」健人氏は、平然と言ってのける。

 「ほかの部屋は? ほかも、こんなんですか?」

 「ええ、まあ、似たようなもんですね。2階に2室ありますが、そこもいろいろ置いてあって。」

 「片付けましょう。そして、空気を通しましょう。一度、大掃除をした方がいいです。」

 「そうかもしれませんがね。しかし」と言いながら、健人氏は湿った畳の上にあぐらをかいて座る。乗り気で無さそうな、暗い顔だ。

 「ごめんなさい。帰ります。ここにいると,気分が悪くなる。あなたにやる気が起きないなら、誰かに頼んでやってもらいます。大勢でやれば、こんなん、すぐできます。」

 「はあ。」健人氏は、気のない返事をしている。私は早々に退散した。


 夕方。4時。

 私は例のスペイン・バルのカウンターに座り、白ワインの入ったグラスを舐めていた。

 「悪いけど、頼みごとがあるんだ」と、私。

 「あの人の彼女には、なりませんよ」と、順子氏。

 「いや、別の頼みでね。ねえ、店長。」

 「私ですか? ホモだちには、なれませんよ。」

 「いや、そうじゃなくって。掃除を手伝って欲しいんだ。」

 「掃除?」店長と順子氏が同時に言う。

 「うん」と、私は状況を説明する。すると、

 「なんで、私らが、あのボンクラのために、家の掃除をせにゃならんのです」と、店長。

 「ボンクラ?」

 「いえ、言い間違えました。ボンクラ様。」

 「同じだ。」

 「とにかく、意味わかりません。」

 「そんなん、言わんと。お礼はするから。」

 「結構、忙しいんですよ。昼は仕込みがあるし。」

 「早く終わる日もあるでしょ。その翌日なんか、どう?」

 どうの、こうのと言いながら、結局、店長らは了承した。

 「広いんですか? その家」と、店長。

 「大して広くない。それから、古民家といっても、いいもんじゃない。期待しないでね。ただの古い民家だから。」

 「そういえば、あの付近に古民家を改装したフレンチレストランがありますよね」と、店長。「あんな感じじゃないんですか。」

 「ああ、あの店なら行ったことがある。」瑞穂区の有名な店だ。外観は古民家だが、内装をリニューアルして高級路線を行っている。「あれとは、ほど遠いね。ああいう由緒ある贅沢な民家じゃなくって、ほんとに、ただの古い民家だ。」

 「なんで、そんな家に住みたがるんでしょうね。」

 「さあ。あの男が何を考えているか、分からんね。」

 私たちは、勝手に日時を定めて、健人氏に大掃除に行く旨を一方的に通告した。


 大掃除当日。

 うまいことに日が照っている。健人氏はご在宅だ。

 私と店長、順子氏は、大車輪で働いた。建物のすべての窓を開け放ち、不要なものを全部外に運び出す。寒風の吹きすさぶ中、健人氏には厚着をして堪えてもらって、私たちは汗を流して動き回った。順子氏は、はたきを振り回して、あらゆる所に積もり積もった埃を巻き上げる。店長は、「これ、要りませんよね」、「これ、捨てますよ」と言いながら、粗大ゴミの類いを門前に止めた2トントラックの荷台に運び込む。私は、とりあえず建物内のあちこちを見て回り、残すものと捨てるものの選別を手伝う。箪笥のような大きな物は、店長と順子氏が二人で運んだ。途中、健人氏が、旧式のブラウン管のテレビを持とうとすると、「あ、いいです。私がやります」と、順子氏が飛んで来て、身体で健人氏を押し除け、よっと持ち上げた。約2時間後、ほとんどの家財道具が撤去され、堆積した埃が拭い取られた。

 すっかり風通しの良くなった家屋を、冬の風が通り抜ける。これで染み付いた黴の匂いは、かなり減少するだろう。少なくとも人間が生息し易い環境となることは間違いない。

 健人氏は、私たちの仕事ぶりを茫然と見ていたが、作業完了時には素直に感謝の意を示した。そこで、私は、健人氏に、「これから、店長のお店で、飲みましょう」と、提案。

 「すぐって訳にはいきませんよ。準備がありますから」と、店長。

 では、日没後に集合、と決まった。


 カウンターに座り、軽めの赤ワインを飲んでいると、ドアが開き、健人氏が姿を現した。敷居に立ったまま、じっと店内の様子を窺っている。相変わらず、ウールのセーターの襟首からカッターシャツの襟を出して、その上にくすんだ色のブルゾンを着ている。

 「どうぞ、こちらへ」と、手招きすると、彼は恐る恐る入って来た。初めての来店でもないのに、不思議な人だ。

 順子氏が、ブルゾンを脱ぐのを手伝う。健人氏は、私の隣に座り、「今日は、どうも。」

 「どうです、新居は少しは快適になったでしょう。」私が言うと、健人氏、「ええ」と素っ気ない返事。

 「また、鴨、焼きましょうか」と、店長。

 「ああ、お願い。」そして、私は健人氏に、「鴨、うまいですよ。」

 健人氏は、鴨には興味を示さず、おずおずとした調子で、「今日は、本当に、どうも、ありがとうございます」と、あらたまって言う。

 順子氏は、健人氏の視線が自分に注がれているのに気付いて、「え? ああ、いえ、どういたしまして。」

 健人氏は、そのままうつむき加減になる。

 「お飲物は、何にしましょう?」順子氏が、健人氏に優しく尋ねる。

 「ビ、ビールをお願いします。」

 順子氏、サーバーでビアグラスに生ビールを満たして、カウンターの脇をまわって健人氏の背後に行き、両手でグラスを捧げ持って「どうぞ」と、置く。順子氏の腕が、健人氏の肩に軽く触れた。

 私は、わざと陽気に健人氏の背中を、ぽんと掌で叩き、「さて、これで転居は終えたし、心機一転、なんかやらかそうじゃないですか。」

 「やらかすって、何を?」健人氏は、暗い顔で尋ねる。

 「あなただって、何か、やりたいこと、なりたいもんがあるでしょう。なんでもいい。挑戦してみましょうよ。」意識的に明るい口調で言う。

 「実を言いますとね」と、健人氏は、ビールの泡を上唇に付けて言う。「もし、私になんらかの才能があるのなら、本当は、芸術家になりたいんですよね。そんな才能があれば、の話ですがね。でも、ないもんですから、なれないんです。」

 そこで、私は、「人間は、誰でも芸術家ですよ。人間としての肉体を持っている以上、みんな芸術家なのです。」

 「どうしてです?」と、健人氏。

 「人間の肉体というものは、精緻なものです。だから、人は誰でも芸術家の名に値するというものです。なぜなら人は自らの意識を中心に、分子をかき集めて精緻な肉体を創っているんですからね。」

 「いえ、あの、そういうことではなく、私がなりたいのは、世に認められた芸術家です。それが無理なので、無害な閑職に就きたいのです。例えば、いつか新聞で読んだんですが、どこかの田舎の湖畔では、車で行けない湖の対岸にある人家まで、ボートで郵便物を配達するだけの仕事があるそうです。郵便物はそんなにあるわけじゃないですが、わずか数軒の家のためだけに1人の人間が雇用されているんです。そんな職業があるのなら、私も是非やってみたい。人の役に立ってはいるが、人の話題になることはない、そんな平和で無害な閑職があるなら、やりたいものです。」

 「鴨が焼けるまでの間、これでもつまんでいてください」と、店長が色々なチーズとナッツ類を盛った皿をカウンター越しに寄越す。

 「でもね」私は言う。「仮に本当にそんな職業があるとしても、たとえばその湖畔の郵便配達員にしても、全く話題にならないとは限りませんよ。コストの問題ってものがあるんですから。彼自身は良い人でも、そんなヒマな仕事のために1人の人員を雇用するのはどうかって、議論になっているかもしれないですよ。だとしたら、その人だって論争の種になってるんです。」

 「そうかもしれませんが、だからこそ、あなたが羨ましいのです。あなたこそ、『許された人』だから。」

 また、訳の分からんことを。

 ともあれ、このような会話を交わしている間にも、健人氏は、心ここにあらずの態で、そっと順子氏の挙動を見守っている様子が薄々窺われた。順子氏は、せっせと食器を洗ったり、調理の準備に勤しんでいる。そこで、私は、今日はあまり健人氏に構わないことにして、鴨とワインを楽しむことに専念することにした。


 散々飲み食いして疲れたころ、健人氏が、だしぬけに、「では、そろそろ帰ります」と、席を立ち、「いくらです?」

 「今日は、私のおごりですよ。」私が言うと、健人氏は、それなりに恐縮した態度を見せて、帰りかけた。順子氏が急いで健人氏のブルゾンを持って来て、着せてあげる。

 健人氏がおずおずとした様子で出て行くのを見て、私は、「いい流れですよね。」

 「何がです?」と、店長。

 「健人君、順子さんに気があるみたい。」

 「ああいう人はね」順子氏が、カウンター裏に戻りながら、しらけ切った顔で言う。「ちょっと優しくされると、すぐ勘違いするんです。」

 「それは残酷な言いよう。」私は順子氏の言葉にいささか驚いた。「もう少し、優しくしてあげて。」

 「優しくしてますよ」と、順子氏。

 「いや、表面的にでなくって、心から優しくしてあげてよ。」

 「だから、優しくしてますって。」

 「でも、たった今、冷たい言い方したじゃん。」

 「優しくされると勘違いする人だって、言っただけです。そういう人、多いですよね。さっき、大掃除を終えた時、私の携帯の番号訊かれたから、教えましたけど、教えない方が良かったかな、と思ってます。」

 「ますます勘違いさせましたよね」と、店長。

 「携帯の番号を教えたら、電話かかってくるよね」と、私。「そん時は、優しく接してあげてね。」

 「冷たくは、しませんよ。失礼にならないようには気をつけます。」

 「会いたいと言われたら、会ってあげて。」

 「そうはいきません。」

 「どして?」

 「一緒にいて、楽しい人じゃないんで。時間の無駄ですよ。」

 「だから、そういう厳しいこと、言わずに。」

 「でも、あの人のために、時間を使う気になれませんから。」

 「ぶひっ」

 「なんです? ぶひって。」

 「ごめんなさい。」

 順子氏には勝てない。仕方なく、今夜も酔っぱらうことにした。



8.


 翌日、どうするべきか、一日中、悩んで過ごした。

 そろそろ島崎父に報告しなくてはなるまい。

 しかし、今、ありのままを報告して、どうなる?

 私の任務は、健人氏を探し出して、その消息を島崎父に伝えることだ。その観点からすれば、私は既に成果を上げたわけだから、島崎父に事実を伝えて、あとは野となれ山となれ、でいい訳だ。しかし、どうもそれでは私の気が収まらない。私の気なんか、どうでもいい、ともいえる訳だが、どうにも気持ちの収まりが悪く、そこが如何ともし難い。

 島崎父に伝える前に、なんとか健人氏に、人生の問題に取り組む気力を回復させたい。健人氏を、ある程度、健全な精神状態にしてから、島崎父に報告したい。そうはせずに、漫然、このまま島崎父を健人氏に会わせたなら、父と子の間に無用な軋轢が生じて、徒に健人氏を追い詰めるだけだろう。

 いかん、それはいかん。しかし、私に何ができる?

 私は、何をすべきなのか?

 この種の悩みにとらわれた時、私は寝ることにしている。とにかく寝て、目を覚ませば、休息を与えられた頭脳が良い考えを捻り出すであろう。という訳で、寝た。

 朝。

 携帯の振動で目を覚ます。

 起きて、携帯を取り上げる。その時には既に振動は止まっている。着信記録を見ると、健人氏からの着信が4個たまっている。知らずに眠っていたわけだ。

 こっちから掛けてみる。

 「もしもし」と、私。

 「おはようございます」と、健人氏。

 「すみません。寝てまして、電話に気付きませんでした。」

 「ちょっと、お訊きしたいことがありまして。」

 「なんでしょう?」

 「猫を拾ったら、どうすればいいのでしょう。」

 「は?」

 「あの、猫を拾ったら、どうすればいいのでしょう。」

 「猫を、拾ったんですか?」

 「猫を拾わなければ、こんなこと、訊きません。」

 「確かに。」私は困惑する。「子猫ですか?」

 「はあ。一応、成長した猫に見えますが。」

 「いずれにせよ、獣医に行って、アドバイスを求めたら、いいんじゃないでしょうか。獣医なら、その道の専門家ですから。」

 「この近くに、獣医はあるでしょうか。」

 「ネットで調べれば、いいんじゃないですか?」

 「ああ、そうですね。ご迷惑おかけしました。」

 電話が切れた。

 なんだ?

 猫を拾った?

 何を考えているんだ?

 ま、いいか。それで気持ちが切り替わるのなら。それが生きる気力に結びつくなら、何でもいいわけだ。

 しかし、私も猫は嫌いではない。どんな猫だろう。

 見に行こうか。

 今日の天候は? 曇天だと、健人氏は外出する可能性がある。

 薄曇り、というところか。午後には晴れるだろう。

 行ってみよう。


 午後3時半。

 いるかな? と、庭を覗くと、1階の居間の窓、閉め切ったカーテンを通して、うっすらと電燈の光が見える。健人氏が呼び鈴に反応しないことは実験済みだから、電話を掛けた。すぐ健人氏が出たので、今、家の前にいると告げると、「玄関の鍵は掛かってないので、勝手に上がってきてください」と言う。

 がらがらっという音は、懐かしい響きだ。こんなガラス扉を開けるのは何十年ぶりか。

 靴を脱いで上がり、廊下を通って部屋へ。磨りガラスの引戸を開けると、健人氏は小さな座卓に向かってあぐらをかいて座っている。ぶくぶくのセーターで厚着して手に何やら文庫本を持っている。

 「読書ですか?」

 「アラン・ロブ・グリエを。でも、退屈ですね。」

 部屋の中が寒いので、私はコートを脱がずに畳に座りながら「猫は、どこです?」言われるまでもなく、私は膝を崩す。

 「そこに居ますよ」と、健人氏は、部屋の隅を指差した。小さな電気ストーブが赤々と灯っている前に、丸くなって寝ている猫がいる。既に子猫ではなく、成猫だが、痩せて小柄に見える。暗い茶色の縞模様で覆われた、いわゆるキジトラという柄だ。

 「獣医には、連れて行きましたか?」

 「ええ、すぐ近くにありました。いろいろと、親切に教えてくれました。蚤取りもしてくれましたし。もう成長している猫なので、そう神経質にならなくてもいいと言われましたけどね。」

 「拾ったんですか?」

 「いや、正確に言うと、拾ったわけじゃありません。勝手に上がり込んで来たんです。玄関を開けたら、待ち構えていて、入り込んできました。」

 「以前、この家で飼われてたんじゃないでしょうかね。」

 「そうかもしれませんね。飼い主が居なくなって、野良猫に身をやつしていたところ、私がここに住むようになったんで、戻って来たのかも。」

 「既にくつろいでますよね。」私は、すっかり安心し切った様子で寝息を立てている猫を見ながら言う。

 「やたら人なつこいんです。警戒心がなくて、身を擦り付けて甘えるんですよ。初対面なのに。」

 「ふ?ん」と、感心する。「やはり、飼われていたんでしょうね。ようやく新しい飼い主にありついた、というところでしょう。」

 ふと、猫が頭を上げる。周囲を見回し、健人氏と私がいるのを見ると、ふわあっと欠伸をした。立ち上がり、しなやかな身体を前後に伸ばして伸びをする。そして、ゆっくりと健人氏の方に歩いて来て、あぐらをかいている脚の上に乗っかった。

 「なついてますね。」

 「ええ」と言いつつ、健人氏は、猫の背中を撫でてやる。「猫はいいですね。気ままで。欲求のままに生きている。」

 私が無言で、健人氏に撫でられながら目を細めている猫を見ていると、健人氏は、「それに引き換え、私たちは何でしょうね。私たちは、欲望までもコントロールされている。欲望なんて、本来、自らの内側から沸き上がるものでしょうに。それなのに、私たちは、どんな欲望を抱くべきか、ということまで、他から強制される。私たちにとって問題なのは、欲望を満たすことができないことじゃない。むしろ、欲望すら自由に抱けないことです。」

 「それは、どういうことです?」

 「私たちは、世間でいわゆる出世することを望むように強要されているわけです。資格を取ったり、優良企業に就職したりして、いっぱしの仕事をして、それなりの地位に付きたい、と思うように仕向けられるわけです。本当はそんなこと望んでいないのに、望まなければならない。そう望まない者は、情けない奴、と罵られる。存在価値を否定されるのです。ばかげたことと、思いませんか。何をしたいと思おうが、人の勝手でしょう。しかし、私たちの社会では、どんな欲望を持つべきか、ということまで規定されてしまうのです。規格外の欲望を抱くなら、社会的に失格なんです。」

 「そう、悲観的にならんでもいいでしょう。なにも出世せんでも、とりあえず生きていくことを考えんことには。」

 「そうは言いますがね。たとえ、生きていくためにどこかに就職したとしても、私なんぞ、何をしたところで、結局、『私は、こんなことのために生まれてきたんじゃない』と思うようになるでしょう。どんな仕事でも、しょせん企業の損益計算書の数値を上げるためのものでしかない。そんなことのために自らの時間と力の総てを捧げる意味を見出せるでしょうか。だから何をやっても、身を入れて働く気にならないことは明らかなんです。」

 「そこが分かりませんね。どんなことでも、やりがいを見出すことは可能ですよ。たとえば、あなたが、どこかの工場に勤めたとしましょう。単なる工場労働者だとしましょう。しかし、あなたが何か工夫して、そこで生産される製品の品質を改善したとします。仮にその工場で生産している製品が医療器具に使われているとします。すると、あなたの工夫によって製品の精度が上がり、それまでの機械では技術的にできなかったことができるようになったとします。すると、それによって、ある疾病に対する画期的な治療方法が開発されて、それまでは患者に大きな苦痛を強いていたものが、治療方法が改善されて、患者に苦痛を与えずに治療できるようになるかもしれない。もし、そうなったら、あなたの努力は、患者を苦痛から解放することになるのです。人の苦しみを軽減することは、大いに意味のあることでしょう。それに、直接、その製品の開発に携わる人だけではない。その工場に務める事務員でも、単に書類のコピーを取ったり、ホチキスで止めて所定の位置に仕舞ったりするだけの仕事をしている事務員にしても、その人がその仕事をすることによって、その工場で働く他のすべての人々の仕事が円滑に進むのなら、その事務員の日々の仕事も間接的に患者の苦痛の軽減に貢献したのです。それは立派なことでしょう。この社会は、そういう一つ一つの人の仕事が全体となって力となり、問題の解決に貢献しているわけで、そう考えれば、この世にやりがいのない仕事なんてない理屈です。」

 「いや、それは違いますよ。」健人氏は、あっさり否定する。「あなたの言うことは、部分的には正しい面も含まれてはいます。でも、あなたは、この世の肯定的な部分しか着目していない。この世には否定的な面もあるのです。確かに、ある労働者の工夫が他の人の苦痛を軽減することもあるでしょう。その限りで、その人の仕事は他者に貢献したといえるでしょう。しかし、人の仕事は、常に他者の苦痛を軽減するわけではない。逆に他者の苦痛をもたらすこともあるのです。それも、きわめてしばしばあるのです。かつて四日市で喘息の症状に苦しむ人々がいました。工場で働く労働者は生活のために働くのですが、その労働者たちの労働によって煤煙が発生し、喘息の患者が生まれるのです。水俣湾で工場が排水を海に流せば水俣病が生まれます。労働者も経営者も、せっせと働いてこの地上に病気をもたらしたのです。計り知れないほどの人の苦痛をもたらしたのです。これらは過去の話ですが、現在でも通用する話です。あなたは、医療器具に使われる製品を生産する工場の労働者の話をなさいました。それなら、私は別の工場に勤めていて、そこで生産される製品の精度を高めたとします。その結果、それまでにない優れた兵器が生まれるかもしれません。そうして、その兵器によって破壊された建物の下敷きになって、だれかが苦痛に苛まれながら死んで行くのです。それは罪のない子供かも知れません。ですから、その工場に勤めている事務員でも、子供の虐殺行為に加担していることに外ならないのです。これが、この世の否定的な面です。だから私は、無害な閑職に就きたいのです。」

 「無害な閑職なら、少なくとも人を傷付けてはいない、ということが目に見えて明らかだからですか?」

 「まあ、そういうことになりますね。売上の数値なんぞにも無関心でいられますからね。」

 「そういう考え方ができるなら、むしろあなたのような方こそが、社会に出るべきだ。引き蘢っているのは、もったいない。」

 「そうはおっしゃいますが」と、健人氏は、猫の頭を撫でる。「私には、もう気力がないのです。」

 猫は健人氏の膝の上で気楽に寛いでいる。

 「時に、話は変わりますが」と、健人氏。

 「なんでしょう?」

 「あの、ワインのお店ですが。」

 「ワインのお店?」

 「あの、この家の掃除をしてくれた店長のお店ですが。」

 「あ、ああ、あの店が、どうかしましたか?」

 「私、ひとりで行っても、よろしいでしょうか?」

 「ええ、もちろんです。結構です。どんどん行ってください。なんなら、全部、私の付けにしていただいて結構です。遠慮なく、やってください。」

 「いや、それは悪い。お金ぐらい、自分で払います。」

 「いや、私の付けにしてください。是非、そうしてください。そして、心おきなく飲んで、食ってください。お願いします。遠慮はいけません。毎日でも通っていただけたら、私も嬉しいのです。そうしてください。」

 「いいんですか?」

 「是非、是非」と言いつつ、猫の顔を見る。天下泰平という表情をしている。私は、そっと近付いて、「いいですか?」と、健人氏に言いながら、猫を撫でてみた。特に反応はない。

 そこで、猫の身体の下に手を差し入れて、抱き上げてみた。意外に猫は抵抗せず、おとなしく抱き上げられる。

 「猫の名前は?」私が訊くと、

 「まだ、名前はありません」と、健人氏。

 「ネコさん、ネコさん」と言いながら、私は猫の背中に頬ずりする。すると猫は、後足を私の手首に引っ掛けて、私の手の内からするりと抜け出てしまった。そして、部屋の中をあちこち見回すと、ふと思い付いたように、とっととガラス戸の方へ歩いて行く。健人氏が、気を利かして戸を開けてやると、猫は小さな隙間から素早く廊下に出た。健人氏も廊下に出て、玄関を開けてやっている。

 健人氏、戻って来て、「賢い猫でして。トイレがいらないんです。必ず外に出てするんです」と言う。

 「重宝な猫ですね。しかし、あまり外に出てばかりだと、また蚤を拾って来ませんかね。」

 「蚤も困りますが、足に泥を付けて来ますね。」

 猫が行ってしまったので、私はこの家に用は無くなった。「では、猫さんを大切にしてやってください」と言って、猫の如くとっとと辞去した。


 約1時間後、私はカウンター席に座って、チリワインの赤をぐいぐい飲んでいた。

 「で、どうするんです?」と、店長が訊く。

 「どうするって、なにが。」私はあまり愉快じゃない。

 「言うまでもなく、あの学生さんのことですよ。」

 「そりゃ、分かってるさ。何をどうしろってのさ。」

 「そろそろ親爺さんに報告しないと、いけないんじゃないですか?」

 「そうは言ってもね。あの状態で父親に会わせてもね。」

 「じゃあ、どうするんです?」

 「だから、考えてんじゃない。どうしようかなって。」

 「悩むこと、ないじゃないですか」と、順子氏が言う。「さっさと報告して、親に会わせて、後は親に任せる。」

 「そんなんで、いいのかね。」ぐいっと飲む。グラスが空になると、順子氏が、じょぼじょぼ、とワインを注ぐ。

 「何がいけないんです?」と、順子氏。「これ以上、あなたが、あの人の面倒を見なけりゃいけない義理もないでしょう。」

 「まあ、そうなんだけどね。乗りかかった舟だからね。なんとかしてやらにゃあ、と思うわけで。」

 「で、どうするんです?」と、店長。

 「要するに」と、私は考える。「あの男に、何か生き甲斐になるものを見つけてやりたいんだよ。これなら取り組む価値がある、と彼が思うようなものをね。」

 「そういえば、芸術家になりたい、なんて言ってましたね。」

 「だけど、才能がないから無理、と自分で決めてた。」

 「そこが変ですけどね。でも、自ら才能がない、と言うからには、やっぱり才能無いんじゃないですか?」

 「そう言っちゃあ、おしまいでしょ。彼に、ひょっとしたら、自分も何かできるんじゃないかって思わせられないかな。」

 「まあ、無理でしょうね。」

 「そう簡単に、絶望的なことを言いなさんな。」また、ぐいっと飲む。「なんか、刺激が必要だな。」

 「どんな刺激です?」

 「芸術方面だな。」

 「どんな芸術ですよ?」

 「映画なんか、どうかな。」

 「映画なら、あの人は既に散々見ているでしょう。」

 「ろくな映画見てないかも。」

 「いや、マニアックなのを沢山見ていそうですよ。」

 「最近のマニアックな映画ってのが、どういうものか、知らんのだ。ちょい昔の映画で、絶対お勧め、というのが、ないかな。」

 「例えば?」

 「私の趣味でいくなら、アンドレイ・タルコフスキーだな。」

 「どういう作品です?」

 「うん。最後から2番目の、『ノスタルジア』がいいな。あれは好きな作品だ。」

 「それは、どんなんです?」

 「ストーリーは、なきに等しい。ロシアからイタリアに来た詩人が、ひとりの精神を病んだ男に会う。ロシアの詩人は、その男から蝋燭を預かる。その蝋燭の火を消さずに、ある温泉の、巨大なプールみたいな浴槽を渡れば世界が救える、と言われる、そして、実行する。」

 「その説明を聞いて、どんな映画か分かる人がいたら、天才ですよ。」

 「分かり難い説明で、ごめんね。見なきゃ分からんのよ、この映画は。終始一貫して、鬱々とした陰気な映画だけどね。」

 「陰気な人に、陰気な映画見せて、どうするんです。」

 「陰気な人に、陽気な映画を見せたら、ますます陰気になるよ。陰気は陰気をもって制する、といわんかね? 暑い時に熱いお茶を飲むと気分が良くなるのと同じ理屈で、陰気な時は、思いっきり陰気な映画を見ると、かえって生きる気力が湧いてくる、というもんだ。」

 「仮にそうだとして、そんなもん見せて、どうなるんです?」

 「世の中には、凄い映画もあるもんだ、と思ってくれたらね。悩んでいるのは自分だけじゃない。自分の悩みは広く共有されているんだと気付いてくれたらね。男の言う、『世界を救う』というのは妄想に過ぎないのに、そんな荒唐無稽な妄想に本気で付き合う人を描いた映画が存在する、というだけでも、心の支えになるんじゃないかね。」

 「ならなかったら?」

 「なると思うよ。」

 「でも、ならなかったら?」

 「また、考えますよ。」

 「でも、かなり前の映画なんですよね、それは。」

 「うん。」

 「どうやって、見せるんです?」

 「DVD借りて来よう。きっとあるだろう。」

 すると、店長は、調理場の奥に置いてあるパソコンに向かってキーを叩いた。そして、「『ノスタルジア』ですね。あ、ありますよ。DVD売ってます。」

 「あ、そ。じゃ、それ買って。」

 「は?」

 「買ってよ。」

 「なんか、言いました?」

 「お金は後で返すから、ネットで買ってよ。」

 店長は、少し考えてから、「じゃ、買っときます。」

 「頼むよ。」再び、チリワインをぐいっと飲む。


 数日後、店長からの電話。DVDが手に入ったとのこと。

 早速、受け取りに行く。

 しかし、実は心にひとつの憂鬱の種を抱えていた。島崎父からの電話だ。

 この数日間、特にこれと言って何もしていない。そのような状況で、度々島崎父から電話が掛かって来ていた。電話に出て話すのが鬱陶しいので、意識的に無視していた。携帯の着信履歴を見ると、毎日、1日に3、4回の着信がある。これ以上無視を続けると、激しい怒りをかうことは目に見えている。しかし、電話に出るのを延ばせば延ばすほど、どんどん出づらくなって、結局、出るタイミングを失って今日に至っている。そんな重荷を抱えて、私は、夜8時過ぎにスペイン・バルのドアを開けた。

 「いらっしゃい」という店長の声に答えず、黙ってカウンター席に座る。

 調理場の天井あたりを茫然と見上げながら、ぷは?っと溜息をつくと、店長が、「いらっしゃってますよ。」

 「誰が?」

 「あの方です」と、カウンターの奥の席を顎でしゃくる。見ると、健人氏が一番奥の席に座っている。

 「あ」と、私は言いながら、健人氏の隣の席に移った。「すみません。あなたがおられることに気付きませんでした」と言いつつ、健人氏がこんなにも存在感のない人だということに驚いた。「どうして、こんな隅っこに、座っておられるのです?」

 「いえ、別に意味はありません。奥から詰めて座るもんだと思ったので」と、健人氏。健人氏の前には、既に食事を終えてソースが残された皿が置かれている。

 この店の造りでは、カウンターの一番奥の席に座ると、目の前に壁が立ちはだかって、調理場が見えない。必然的に順子氏の姿も見えない。だから、どうしてそんな席に座るのかと不思議に思わざるを得ない。

 「こっちに移ったら、どうです?」と、私は、カウンター席に他に客がいないのを幸い、出入口付近の席に移って、健人氏に席を替わるように促す。健人氏、少し逡巡してから、もそもそっと私の隣の席に移る。

 店長が、「どうぞ」と、私にDVDを手渡す。

 私はそれを受け取ると、健人氏に、「これ、あなたに貸そうと思って、店長さんに買っていただいたんです。」そして、店長に、「いくら?」

 「7,480円です。」

 「じゃ、今日の代金に付けといて。」

 健人氏は、不思議そうにDVDケースを見て、「これ、なんです?」

 「私が大好きな映画です。アンドレイ・タルコフスキーは御存知で?」

 「名前だけは知ってます。確かソ連の映画監督でしたね。」

 「ええ、ソ連時代に映画を撮っていましたね。これが私の一番好きな作品です。」

 「ふ?ん」と、健人氏はケースの写真を見ている。「名前は知ってますけどね。ソ連の映画監督、というだけで、これまで拒絶反応があったので。」

 「見たことないですか?」

 「ありませんね。」

 「では、是非ご覧になってください。映画に対する認識が変わります。」

 すると、健人氏は、黙ってケースをカウンターの上に置いた。

 見てくれるかな?

 いささか気になるが、敢えて強く勧めないことにする。

 「それはそうと」と、私は心の重荷を思い出した。「お父様から電話が何度も掛かって来ているんですが。」

 そう言うと、健人氏は、目を見開いて私の顔を見た。

 「そろそろ、何らかの返事をしないといけないと思います。今のところ、電話に出ないようにしていますがね。もう限界だろうと。」

 「いや、しかし、父への連絡は控えていただきたいです。」

 「お気持ちは分かりますが、いつまでも黙っている訳にもいかんだろうと思うのです。あなたも、このまま延々と音信不通を続けるわけにもいかんでしょう。どこかで踏ん切りを付けないと。」

 「その、踏ん切りというのは、どうやって付けたらいいんでしょうね。」

 「そりゃ、あなたの問題だから。あなたが考えるべきことで」と言ってから、少し考えて、「いや、私だって闇雲にお父様にお会いすべきだとは思ってませんよ。なにか然るべき解決を経たうえでないと、会いづらい、というか、会っても意味がないということは分かります。」

 「なら、会わん方がいいでしょう。」

 「私が言いたいのは、いつまでもこのまま、という訳にはいかないでしょう、ということです。私としても、お父様に何と報告していいか。」

 すると、健人氏、「まだ見つかっていないことにしていただければ結構です。」

 「そろそろ限界です。未だに見つかっていない、というのは、無理があると思います。まあ、とにかく、お父様対策をどうするか、あなたの方でも考えておいてください。」

 健人氏は、不愉快そうだ。この話題は、このくらいにしよう。

 私は、意識的に陽気な態度で、店長に、「今日は、何かうまいものは?」

 「鴨はなくなっちゃいました。魚ですか? 肉ですか? 鳥がいいですか?」と、店長。

 「魚がいい。」

 「メカジキのソテーにしましょうか?」

 「それがいい」と言いつつ、そっと健人氏を見る。無関心を装って、ビールを飲んでいる。

 順子氏は、せっせと働いている。食器を洗う時の順子氏は、真剣そのものに見える。

 健人氏は、空になったビールグラスを置くと、「では、お借りします」と言ってDVDを持って立ち上がる。そのまま歩いて出口に向かうと、順子氏が急いで手を拭きながら出て来て、彼にブルゾンを着せてあげる。健人氏は、なぜか申し訳無さそうな顔で袖を通すと、悄然と外に出て行った。

 「あの人ね」調理場に戻りながら順子氏が言う。「今日、ちょっと変でした。」

 すると店長も笑いながら、「今日は、少し違和感モードでしたね。」

 「え?」私は気になる。「どうかしたの? 今日、ここに来てるなんて知らなかったけど、なんかあったの?」

 「いや、別に何もありませんけどね」と、店長。「あの人の言動に、ほんの微妙に、わずかに奇妙な味がありましたね。」

 「なにそれ? 何があったの?」

 順子氏も笑いながら、「何があったか、と訊かれると、答えづらい。特に何もないんですけど。とにかく微妙に変でした。」

 「具体的には? どんな変な言動をしたの?」

 「いえ、普通に挨拶されたんですけど」と、店長。「でも、なんて言ったらいいか、タイミングというか、雰囲気というか、絶妙に普通からはずれてました。」

 「へ? よう分からんね。どう変だったのさ。」

 「私も最初」と、順子氏が言う。「なんだろう、と思って。その時、私、背中向けてましたよね。背後から、なんか声がしたと思って、もにょもにょって、何か聞こえたけど、私への挨拶だなんて思わなくて。でも、何か私に話し掛けられている、という気がしたんで、振り向いたんです。そしたら、目が合って、何? と思って見ていたら、あの人もこっちじっと見ていて、しばらく見合って、どうしようって感じでした。」

 「端で見ていて、おかしかった」と、店長。「あの人、店に入って来るなり、まだ座る前に、立ったまま、なんか言ったんですよ。おそらく普通に挨拶したつもりなんでしょうが、そのタイミングというか、言い方というか、妙にはずしてましたね。背中向けて仕事してる順子に向かって、小声で、しかも聴き取りにくい発音で、なんか言ったんです。それだけのことなのに、すごい違和感が充満して。ああいうのって、ひとつの才能ですよね。たったそれだけで、あれだけの違和感を醸し出す人って、そうはいないと思いますよ。」

 「なにそれ? それだけのこと?」

 「いえ、それだけじゃないんです。あんまり違和感があるんで、なんかフォローしようとしたんでしょうね。さらに何か口の中でごにょごにょ言ったんですが、こっちは聴き取れなくって。順子、固まってました。」

 順子氏の顔を見ると、順子氏、「だって、なんだか分からなかったんですもの。どう反応していいか。」

 すると、店長、「それからというもの、ずっと違和感が拭えなくって。なんかいたたまれない雰囲気で、あの人、一番奥の席に座りましたけど、その後の飲物や料理のオーダーの時も、微妙な空気が流れて大変でした。」

 「あんたたちねえ」と、私はたしなめる。「あんまし彼をからかわないでよ。コミュニケーションがへたなんでしょう。まして女性相手に、うまく言葉が掛けられないんでしょうに。そういう人もいますって。優しくしてあげてよ。」

 「ですから、優しくしてますって。」順子氏は主張する。「別にからかったりしてません。笑うようなことしてませんよ。こっちこそ必死にフォローしようとしたんですから。」

 「そうですよ」と、店長が助ける。「順子は、違和感を消すために、一生懸命自然にふるまってました。でも、笑えましたけどね。」

 私は想像してみた。いまひとつ状況がよくつかめないが、とにかく健人氏は緊張しながら順子氏に声を掛けたに違いない。それが結果的に、ものすごく不自然で場違いだったというだけだろう。

 「彼はね」と、私は言う。「順子さんが好きなんでしょ。一生懸命、声を掛けたんですよ。分かってやってよ。」

 「でも、結局、その後、黙りこくって、全然話し掛けて来ないんですよ」と、順子氏。

 「そりゃ、失敗した、と思ったんでしょ。それで気が萎えてしまって、それ以上、声を掛けられなくなった。」

 「でもね」と店長が言う。「黙ってないで、もっと話し掛けりゃいいと思いますよ。普通に会話を交わせばいいのに。」

 「そういうことが、できない人もいるんです。」私は言う。「そういう人もいるんだよ。」

 メカジキのソテーはうまかった。味が濃いから敢えて赤ワインで合わせたが、飲みながら健人氏のことが気に掛かった。「ノスタルジア」でも見て、元気を回復してくれたら、いいのだが。



9.


 翌日は、相変わらず、午前を鬱々と過ごし、午後3時をまわったころに、ようやく起きて人間らしくしようという気力がかろうじて湧いてきた。ベッドの横っちょに座って、しばらく何もない壁を見つめる。

 テーブルの上で、携帯が妙なパターンで振動する。いつもの着信の振動とは違う。そういえば、ショートメールを受信した時は、着信とは違うパターンのバイブレーションに設定してあった。メールだから、慌てて出る必要はないが、久しくメールなんぞ受信したことがないから、少し気になる。よろよろっと立ち上がって携帯を取り上げ、開いて見てみる。

 健人氏から。「ノスタルジア、見ました。感動しました。」とある。ここで一旦切れて、もう一通。「ラスト前で、ドメニコが焼身自殺するシーンでは、全身が震えました。映画を見て、全身が震えたのは初めてです。」とある。

 わざわざ映画の感想をメールで送って寄越すとは、健人氏らしからぬ気遣いだな、と思いつつ、なにはともあれ気に入ってくれたのは結構なこと、と安心する。すると、さらに携帯が振動し、健人氏から追加のメールが送付されて来る。開けてみると、「猫をよろしく頼みます。」とある。

 はて、猫をよろしく頼むとは、なんのことやら。遠出をするとは聞いていないし、転居したばかりで、また転居するのでもあるまい、などと思いながら、ベッドに戻って寝転んだ。

 1時間半ほど、ごろごろしてから、簡単な身支度をして出掛ける。

 出掛ける、と言っても、道路1本渡っていつものスペイン・バルに行くだけだが。これから死ぬまでに、何回この店に通えるかな。そろそろ身体がしんどくなってきた。目の前に見える店に行くために、交差点まで迂回して大通りを横断する、それだけの運動がおっくうになってきた。

 「くんちはっ」と、店に入る。まだ早い時間帯だから、店内に他に客はいない。

 「いらっしゃい」と、店長が陽気に応える。意味ありげに、「順子が困ってますよ。」

 「どうしたの?」順子氏を見ると、憮然として食器を拭いている。「何か、問題でも?」

 「いえ、問題というほどのことではないんですけど」と、順子氏。「あの人、やっぱり勘違いしてる。」

 「はあ? なんぞあったの?」

 「あったという程じゃないんですけど」と言いつつ、「これ見て」と、自らのiPhoneを見せる。しかし、画面には吹き出しがあって、細かい字で書かれているので、よく見えない。

 「なんなの? 彼からメールが来たの?」

 「ええ」と、順子氏。「『今日、5時にロサンゼルス広場に来ていただけないでしょうか。是非、お願いします。』と来たんです。」

 「ふ?ん」と、私はiPhoneを見つめる順子氏を見ながら、「そのメールは、今日送られて来たの?」

 「そうです。ほんの1時間ほど前です」と、順子氏。

 「ロサンゼルス広場って、どこ?」私が言うと、店長が

 「確か、久屋大通公園にあるやつでしょう。テレビ塔の近くじゃないですか?」

 「あ、あのあたりね。そういえば、久屋大通公園って、なんとか広場ってのがいっぱいあるね。でも、5時って」と、私は腕時計を見る。4時40分ころを指している。「もうじきだ。」

 すると、順子氏、「行けませんよね、こんなこと言われても。こっちは仕事があるんですから。もう、なに言ってんだかって、呆れて」

 「そりゃ、無理な話だよね。今日の今日で、来いっていわれてもね。彼は、どうも、そういうことが分からないのかね。そんな非常識な人とも思えないのだが。」

 「実は、まだ返事していないんですよ。無視しようかと思って。」

 「ま、返す気にもならんよね、そりゃ。でも、返事しないと、向こうは待ちぼうけになるでしょう。行けないものは行けないと、答えてあげた方がいいんじゃないかな。」

 「じゃ、そうします」と言うや、順子氏はiPhoneの画面を親指で撫でるや、口の中で「すみません。仕事があるので、どうしても行けません。また、よろしくお願いします」と言いつつ指で打ち込む。そして、「はい、送っておきました。」

 私は、カウンターに肘をついて、今日は何を食べようかと考える。

 しばらく店内を沈黙が支配する。すると、だしぬけに素っ頓狂な音楽が鳴り出した。「あ、メールだ」と、順子氏。iPhoneを見つめる彼女の唇は、いわゆるへの字に歪んでいる。「ちょっと、どう思います。」

 「どしたの?」

 「あの人からなんですけど、どうしても来て欲しいみたいです。」

 「はあ、どう言って来てるの?」

 「『是非、お願いします。最後の頼みです。』ってさ。」

 「ほう、そんなこと言ってんの。それだけ?」

 「まだ、なんか。」

 「ちょっと、見せて」と、手を伸ばす。なぜか健人氏からのメールを直接見て確かめたくなった。順子氏からiPhoneを手渡されて見ると、交互に並ぶ吹き出しの最後に、「是非、お願いします。最後の頼みです。最後に大きなことをします。」とある。

 私は数秒間、そのメッセージを見つめた。そして、「いや、順子さん。申し訳ないが、今すぐ、私と一緒に出掛けてくれないか。」

 「え?」と、順子氏は目を丸くする。「いったい、何をおっしゃるんですか。」

 「冗談じゃない。彼は死ぬつもりだ」私は、「店長っ」と叫ぶ。

 「なんです?」

 「消火器ないか?」

 「消火器ですか?」と、店長は厨房の奥へ行き、「こんなんなら、ありますけど」と言いつつ、レバーとノズルの付いた長さ30センチくらいの赤い消火器を持ってくる。

 「そんな小さいやつじゃダメだ。もっと大きいのない?」

 「いや、ありませんね。ぜんたい、何に使うんです?」

 「あいつは、焼身自殺をするつもりなんだ。」

 「どうして、そんなことが、分かるんです?」

 「分かるんだったら、分かるの。確信があるの。説明は、後でする」と言い放って、「大きい消火器ないのか。どうしよう」と、時計を見る。もうじき4時45分になろうとしている。「間に合わない。とりあえず、行って止めよう。順子さん、すぐ出かける準備してよ。彼を止めなきゃ。」と言って席を立つと、壁に掛かった自分のコートを勝手に羽織る。

 順子氏は、「いえ、そんなこと言われても」と、逡巡している。

 「ねえ、人の生き死にが掛かってるんだから。ねえ」私が言うと、店長が

 「順子さん、行ってやって。お店は俺がなんとかする」と言ってくれる。

 「じゃあ」と、順子氏は、おもむろに業務用の前掛けの紐をほどく。

 「もう、まだるっこしい」と、私は順子氏の手首を持って、引きずるようにして店外に出る。

 背後から店長が、「順子」と呼び、「これ持ってけ」と、コートを投げる。

 順子氏が、それを受け取って着ている間に、私はたまたま通りがかったタクシーを止めた。

 ふたり、タクシーに乗り込んで、運転手に「ロサンゼルス広場へ」と行き先を告げる。

 「ロサンゼルス広場?」と、運転手。「どこです?」いささか頼りない。

 「なんでも、久屋大通公園にあるそうだ。とにかく早く行ってくれ。」

 「でも、お客さん」と、運転手は車をゆっくり走らせながら、「久屋大通公園ってのは、南北にびろ?んと長いんですよ。どこらへんですか。」

 「おそらく、テレビ塔の近くだと思うよ。」と私は運転手に告げると、順子氏に、「あのメール、最後に大きなことをする、とあったでしょう。」

 「ええ。」

 「それで、彼は死ぬ気だな、と分かったわけです。私は、彼に映画のDVD貸しましたよね。あの映画、ラスト近くで、ドメニコという男が、広場で演説をぶって、自ら石油をかぶって焼身自殺をするシーンがあるんです。さっき私の携帯に、そのシーンを見て、感動で身体が震えた、と彼からメールがありました。それから、『猫をよろしく』とも。自分の死後、猫の面倒を見てくれ、という趣旨でしょう。そして、決定的なのは、さっきのあなた宛のメールです。実は、その映画で、ドメニコは、『大きなことをする』、と言って、その焼身自殺を実行したんです。その男、以前は、世界の終わりが来ると思って家族を家に閉じ込めたんです。その行為を反省して、前は自分と家族だけを守ろうとした、今度はもっと大きなことをする、と言って広場で演説して焼身自殺したんです。だから、健人君も同じことを考えているに違いないんです。」

 タクシーが止まる。順調に栄方向に向かって走っていたが、信号待ちは如何ともし難い。しかし、日本の信号の待ち時間の長いのは異常だ。こうして路上で静止している間に、健人氏は自らに火を付けるかもしれない。

 ようやく信号が青になり、そろそろと車は走り出す。私はイライラして前席の背面にあるグリップを握りしめる。さらに幾つかの信号待ちの後、テレビ塔の足元あたりにタクシーは止まり、「ここらへんでいいですか?」と、運転手。

 どうもロサンゼルス広場っぽくないようだが、位置を知らない運転手を相手にすったもんだするのは時間のロスだろう。料金を払ってさっさと降りた。

 さあ、健人君、どこにいる?

 私と順子氏、うろうろと探しまわる。

 テレビ塔の足元は、なにかイベントを開催しているようだ。頭にバンダナを巻いた怪しげなバンドが、奇妙な曲を奏でている。人はさほど多くはないが、既に日没が近づいており、遠くの人の顔がよく見えない。確かな宛もなく、ふたり、無言で探す。

 見るのは、人の顔、顔、顔。

 一向に健人氏らしき人物が見当たらない。

 しかし、そもそも、ここはロサンゼルス広場ではないんじゃないか?

 私は順子氏に駆け寄り、「ねえ、ここ違うんじゃない?」

 すると、順子氏、iPhoneを取り出し、「地図、出します。」

 「いや、ロサンゼルス広場でググった方が早いと思う。」

 「あ、そうですね」と、画面をタップしている。「出ました。」

 「ちょっと」と、iPhoneを預かる。「やっぱ、ここじゃない。もっと北だよ。あっちだ」と、北方を指差し、早足で行く。

 ロサンゼルス広場は、巨大な白い歩道橋を渡った先にある。

 その橋に差し掛かった時、背後から聞こえるバンドの音をはるかに上回る、凄まじい女性の悲鳴が聞こえてきた。

 「あの『キャー』は、なに? あの『キャー』は、なに?」順子氏がうろたえて言う。

 悪い予感がしながら橋の上を急ぐ。

 すると、夕方の青い空の中に一筋の黒い煙が立ち上っているのが見えてきた。

 私は、慌てて橋の欄干に寄って、煙の元を見る。

 対岸の、道路に近い低木の並木のあるあたり、少し広くなっている場所がある。そこに、ポリタンクが1個ころがっていて、その近く、東を向いて地面に胡坐しているような人の姿、とはいえ、既に人として識別できる状態ではなく、炎の中で炭のごとく黒く見えるものがある。それを包み込む炎の勢いは強く、周囲の大気を巻き込んで上昇気流を作っている。既に手が付けられない状況であることは明らかだ。

 「遅かった。」私が言うと、

 「あれは、なんなの? え? なんなんです?」と、順子氏が背後から叫ぶ。

 私は、足がもつれながらも、橋を渡りきり、現場に駆け付けた。追いついた順子氏に、「健人君だよ。」

 順子氏、しばらく立ち登る炎を茫然と見つめていたが、やがてその場にへたり込んで泣き崩れた。

 おそらく、健人氏の魂は既に肉体を離れ、私たちと一緒に自らの身体が焼けるのを見ているだろう。順子氏が泣き崩れた姿を見て、少しは慰められたかもしれない。

 

 健人氏の身体が燃え尽きるまで、私たちはその場にいたので、警察の事情聴取を受けることになった。それはいいのだが、帰宅後、私は極めて憂鬱な仕事を抱えることになった。

 島崎父に報告しなければならない。健人氏の自死については、報道によって早々に知ることになるであろうから、急いで事情を説明しなければならない。しかし、会って話をしたとしても、これまでの事実の経緯を順を追って冷静に話せるだろうか。それは、いささか疑問だ。ここはひとつ、具体的かつ詳細な経緯を記載した書面を作成して、早急に送付すべきだろう。それがせめてもの誠意の示し方というものだ。

 書面の作成は、心理的な難事業であった。生涯で行なった仕事のうちで、最も心的エネルギーを費やしたといえる。これまで健人氏との出会いを隠していたからなおさらだ。出会った日、その日の行動、その後のことを逐一思い出しながら、丁寧に書く。健人氏の言葉まで詳細には思い出せないが、彼が語ったことの趣旨はなるべく正確に、私の主観で歪曲することのないように細心の注意を払いながら作成する。

 一昼夜かけて書面を作成し、丁重なお悔やみの言葉と、これまで報告しなかったことの侘びの言葉、そして、健人氏を立ち直らせてから報告しようと思っていたことなどを書き添えて、手紙の体裁を整え、自筆で署名して島崎父に速達で送る。


 数日後、島崎父から携帯にメールが入った。健人氏の葬儀は身内だけで密葬で済ました旨の連絡と、日時を指定して、名古屋観光ホテルで会いたいとのこと。承知なら、「了解」と回答するようにと求めている。そこで、私は、了解のメールを送っておいた。



10.


 指定の日、名古屋観光ホテルに向かう。指定時刻は午後2時。

 ホテルのロビーに入ると、島崎から携帯に電話が入り、「1階のラウンジに居る」と言う。

 ラウンジの入り口で、係の者に、「既に来ている連れと待ち合わせだ」と告げると、案内された。

 奥の4人掛けのテーブルに、黒のスーツを着て、黒いネクタイを締めた島崎がこちらを向いて座っている。当然ながら憔悴しているように見える。

 私が対面の席に座ると、給仕は何も訊かずに立ち去った。島崎の前には白いコーヒーカップが置かれているが、全く口を付けていないようだ。

 島崎は、少しの間、無言で遠くを見つめていたが、私の顔に視線を移すや、「この人殺し」と、低い声で言った。「お前が息子を殺したんだ。」

 私が「何を言い出すのか」と言おうと息を吸うや、島崎は私を手で制止して、「お前は何も言うな。言い訳は聞かん。手紙は読ませてもらった。あの手紙に書かれたことは、全部ウソか? 本当か?」

 「手紙は全部真実だが」私は、島崎の畳み掛けるような訊き方に気圧されて、口籠もりながら答える。

 「それなら、事実は明らかだ。お前は息子に自殺を唆した。俺は息子の死の直後、混乱して何も手が付けられなかったが、お前の手紙を読んで、お前が息子に勧めた映画を俺も見てみた。あれは明らかに絶望した人間に自殺を促す内容だ。息子が立ち直るようにしていただと? 聞いて呆れる。お前のしたことは全く逆だ。そもそも息子を見つけた時に、なぜすぐに俺に知らせなかった。知らせてくれたなら、俺が飛んで行って、息子を連れ戻すこともできたはずだ。ところが、お前は息子に会ったことを隠し続けた。言い逃れはできないなずだ。息子の精神が純粋なのを良いことに、お前はそこに付け込んで自殺を唆した。お前の計算通りだ。まんまとやってのけたな。どうして、こんなことをした? ひとりで死ぬのは寂しかったか? 道連れが欲しかったか? 若い命に嫉妬したか?」島崎は、少し声を落とし、「弁護士に相談して、お前を自殺教唆で刑事告訴できないか検討した。難しいそうだ。そこで、民事訴訟の提起を、と考えたが、やめたよ。民事訴訟は時間がかかるからな。お前は死に掛けている。訴訟が終わるまでにお前は死んでしまう。そこまで計算済みだったんだろうな。お前が死んだら、祝杯を上げてやるよ。とっととくたばれ。この死に損ないの人間のクズ。」

 それだけ言うと、島崎は立ち上がって、足早に去った。

 おもむろに給仕がやって来て、「ご注文は?」と何度も繰り返したが、私は茫然自失していて答えられなかった。そのまま何も注文せずに外に出て、まっすぐ帰った。


 1週間後、私は食べたものを吐くようになり、身体の自由も効かなくなったので、自ら希望して入院した。医師のケアの下で死を迎えることにしたわけだ。その方が世間に迷惑にならないだろう。

 スペイン・バルの店長や順子、その他の知人が見舞いに来てくれるのだけが唯一の楽しみという静かな生活に入った。

 そんな訳なので、猫は、順子の友人で猫好きの女性が引き取って面倒をみることになった。

 近ごろは、死後の世界について考えるようになった。死後、先に死んだ者の魂に会うことはできるだろうか。もし、健人君に会えるなら、「許された人」という言葉の意味について、もう一度、じっくり聴いてみたいと思っている。

 (完)


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