婚約を単に破棄するだけならまだしも。契約を放棄、ともなればいろいろ問題があるのでは?
「おまえとの婚約など破棄してくれるわ!!」
衆人環視で大声を張り上げるなど、それだけで貴族としての教育を疑われるような無作法だ。
いくら学園の生徒、まだ成人前の令息令嬢を招いている場とはいえ、或いはそれ故に言ってしまえば無作法者の恥さらしだ。
そうして喚いているのは伯爵令息だ。中堅どころの、良くも悪くも目立たない家の次男坊。見た目は悪くないのだが、その振る舞いが子どもじみている。
「……わかりました、婚約破棄ですね。家から書類を送らせますので、サインか捺印をお願いします」
対して、怒鳴りつけられた方の令嬢は落ち着き払って切り返す。
こちらの令嬢の実家は、同じ伯爵家であっても毛色が違う。目立たないことは同じでも、堅実な領地運営と同様の流通を保ち、十分な経済的余裕と人脈を育てている。言ってしまえばこれからどんどん伸びていくことが期待されており、令息の家とは今は同じ爵位でもこれから差が開くことが見えている、ということだ。
その状況で良くも婚約破棄などと喚けたものだが、つまりそれがわからないような人物である。
その場は男が更にしつこく喚き立て、結局主催者につまみ出された。
本人的には、所謂『真実の愛』の相手を婚約者がいじめたのが悪いというが。その真実の愛とやらのお相手は略奪好きの性悪女として秘かに有名だった。婚約自体はあっさり男の有責で破棄され、多額の賠償金を払ったが、本人は喜んでいたそうだ。少なくとも最初のうちは。
「だって考えてもみてくださいな。一応、きちんと届けを出した婚約だったのですよ?それを一方的に騒ぎ立て、こちらへの誹謗中傷を喚いて無理矢理破棄しようなんて。……この様子では、他の契約を結ぶのは危ういと、そう思われたのではなくて?」
破棄された側の令嬢は、これで縁が切れてむしろ清々したと言わんばかりだ。実際婚約期間中も、身勝手な彼の振る舞いにはほとほと手を焼いていたらしい。
そして婚約破棄後の当人はと言えば。
「何でもあらゆる商会から縁を切られて、子飼いの商会も辞める人間が続出、とても運営が続けられる状態ではないらしいですよ」
「それはそうなりますわね……だって契約を結んでも、それを無視して良いと考える、少なくとも周りにそう思わせる態度をとったのですから。契約で動く商人が、関わり合いを避けるのは当然でしょう」
彼女の家に出入りの商人が告げる近況に頷く。ある意味で想像は容易い事態だ。
商人は利に敏いが、それ以上に契約を重視する。きちんと結んだ契約をいい加減な形で破棄するような人間、相手にしたくないのは当たり前だろう。
元々彼の家は、特に見るものもない平均的な伯爵家だ。良くも悪くも特色もなく、付き合う利点もない。歳の離れた兄が真面目に父を補佐しているそうで、そこそこまともに経営できているが、この次男のやらかしで他の貴族家から距離を置かれ始めているらしい。そうして付き合いを絶ったところで、大した問題はないと判断されている訳だ。
「そういえば、『真実の愛』のお相手はどうなさっているか、ご存知ですか」
「……確か男爵家のご令嬢でしたわね」
こちらは更に格が低い。もっといえば、確か彼女は庶子でそれもあって嫁ぎ先を探しているだのまともな嫁入り先がないだのと噂されていた。ただし他の庶子もそうという訳ではない。あくまで彼女個人の資質に加え、庶子では余計に使えない、という評価だった。
実は彼女、婚約破棄のその晩のうちに実家に呼び戻され学園も退学になっている。それきり姿を見た者はなく、噂では絶縁したうえで辺境の修道院に放り込まれたらしい。
当人は略奪好きのマウント女だが、その親は商人としてなかなかやり手という。やらかした娘を放置しておいては商売に差し支えると、さっさと損きりしたようだ。
元婚約者はその素早さについていけず、『真実の愛』の相手を失ってしまっているが、同情する者もいない。
「結局いったい何がしたかったのかしら。私との婚約を破棄して彼女との縁を結びたかったのなら、先に向こうの親に連絡しておけばよかったでしょうに」
それをしていなかったから、あれだけ派手に騒ぎ立てた挙句に相手を失う羽目になってしまった。もっとも先方が彼にそれを提案されたとしても、受け入れたかどうかは怪しい。この素早さを見るに、実にキレる判断力だ。いい加減な縁談が却って危険なことも理解しているのだろう。
「お嬢様は、どうなさるおつもりですか?」
問いに彼女はおっとりと微笑む。
「そうねぇ。婚約もなくなったことですし、しばらくは領地で休養させていただこうかと。お父様もお兄様も、そちらを勧めてくださいましたし」
「でしたら。向こうで何かありましたら、うちの者にお申しつけください。何かしら、お役に立てると思います」
「ええ、ありがとう。機会があれば是非お願いしたいわ」
令嬢の方は社交辞令と思ったかもしれないが。商人としては伯爵家と縁を繋げるなら、願ってもないことだったのだ。
商人の次男を婿に迎え、子爵位を得た令嬢はのんびりとしかし豊かな暮らしを得。
対照的に、婚約破棄した元婚約者は落ちぶれ、終いには実家から放逐されてその消息はしれないという。