53. 好きな人
「────はぁ、今日も色々あったなぁ」
帰宅し、ひと息ついたところで司はソファで結衣里と隣同士に座って、そうこぼした。
晩ご飯も済ませ、交代でお風呂も入って、ミルクココアを淹れて心と体を落ちつけた頃合い。
大雨に打たれた上にあんな騒ぎまであったのだから、落ち着くにも時間が必要だったのだ。
今日は結衣里とのお出かけ、もといデートだった。
それも、練習の名目でデートした時は司が途中ですっぽかした挙句、小鬼騒ぎもあって散々なことになった前回のリベンジの意味もあったのだ。
今回は誰が悪かったわけでもなく、強いて言うならば勝手に出てきて瑞希の商店街の近くで暴れた邪気が悪いと言えるのだろうが、あれは災害みたいなものなので文句を言ったところでどうにもならない。
ついでに言えば、そいつらはキッチリと結衣里から物理的に雷を落とされている。
「なんていうか、こう……前回もそうだったけど、結衣里とのデートってなんでこうも邪魔が入るんだろうな。せっかくの兄妹水入らずってときに限って」
「……そう、だよね……」
「……結衣里?」
結衣里としても楽しみにしてくれていたらしいせっかくデートを二度も台無しにされてさぞご立腹だろうと思っていたのだが、思ったような反応が返ってこなくて拍子抜けする。
「……やっぱり、バチが当たったのかな……」
「何のことだよ。結衣里が何か罰当たりなことなんてしたか?」
バチが当たった、 などという言葉にギョッとする。
結衣里が何やら落ち込んでいるのは間違いないが、司が予想していたのとはずいぶん方向性の違う落ち込み方だったらしい。
「……結衣里。何か相談したいことがあるなら、聞くよ? そういや瑞希の電話があるちょっと前から様子が変だったし」
あれは公園でお昼を食べて、話をしている最中だった。
あのときは確か、結衣里の頭を撫でた司を、妹扱いだと言って不満を漏らしていた。
それから、“好きな人”がどうのこうのという話になって、突然結衣里が泣き始めて……
そういえば、「いつか結衣里にも好きな人ができる」とか、そういう風なことを言った気がする。
「もしかして…………結衣里。好きな人、いる?」
何かが、ストンと腑に落ちた気がした。
悪魔の姿になったことはさて置くとしても、最近の結衣里は急に以前とは違う一面を見せるようになったと思う。
無意識ながら誘惑するような色気を見せたり、自分を実験台にデートの練習をさせてみたり。
かと思えば妙に司に甘えてきたり、逆に司に彼女を作らせようとしてきたり。
そうした一連の言動を俯瞰して見てみると、一つの答えに辿り着く。
つまり、結衣里に好きな人ができたのだという答えに。
今日見せてくれた普段とは違う大人びた服装だったり、デートという行為そのものに対する興味も、そして司にも彼女を作らせようとしていることも、そう考えると説明がつく。
結衣里は司から「お兄ちゃん離れ」しないといけないと言っていた。
傍から見ると恋人のように見えてしまう司たちの兄妹仲は、本当に恋人を作りたいときには邪魔でしかない。
もし結衣里に本当に好きな相手が現れたのだとしたら、恋人みたいな距離感の兄など近くにいてもらっては困るし、早々に妹離れしてもらわないといけないはずなのだから。
「────うん。……いるよ、好きな人」
大切な秘密を、そっと打ち明けるように。
愛おしげで、でもどこか悲しそうで。
まるで眩しいものを見るような綺麗な顔で、結衣里はそう呟いた。
「そう……か」
司はほぅ、っと大きくため息をつく。
「そっかぁ。ついに結衣里にも好きな人ができたのかぁ。いつから?」
「……自覚したのは、つい最近かな。でも、ホントはずっと前から好きだったの」
「そっか」
マグカップをテーブルに置いて、小さく俯く結衣里。
可愛く、愛おしくてたまらない妹の姿に、思わず頭を撫でてしまう。
「複雑な気分だよ。恋をすると女の子は綺麗になるって言うけど、本当なんだな。最近の結衣里、ホントに可愛かったし」
「っ……お兄ちゃんは平気なの? わたしに、好きな人がいるって聞いて」
「そりゃ、寂しい気持ちはあるかな。結衣里と一緒にいるのは心地良いし、こういう可愛い一面を見れる機会も減っていくんだろうから。まだまだ独り占めしておきたい気持ちは正直ある」
普段なかなか言えない本心を吐き出し、照れくささを隠すようにわしわしと頭を撫で続ける。
「でもそれが、妹離れするってことだろうから。結衣里には幸せになってほしいし、そのためなら俺は全力で協力するよ。前に結衣里がそう言ってくれたように……それが、家族ってものだろう?」
手放したくない気持ちが無いと言ったらウソになる。
それでも、結衣里を幸せにすることは、司にとっての絶対命題だ。
あの日濁流に飲まれながら必死に守り抜いた、世界で一番大切な妹。
だからこそ、何としても結衣里には幸せになってもらわないといけない。
そうでなくては、命がけで守り抜き、こうして一緒に生き永らえた甲斐がない。
「にしても、結衣里に好きな人かぁ。ははっ、友達から結衣里のこと紹介してくれって頼まれたりもしてたけど。残念だったなヒカルのヤツ」
「そ、そんなこと言ってる人いるんだ……」
「写真なら見せたことあるからな。女っ気のないヤツで、こないだも女の子にデートを申し込んで玉砕してたけど……。というか結衣里も男子と知り合う機会ってそんなに無いような。女子校だし、バイトもしてないってなると他に可能性は…………あ、もしかして早川さんが言ってた例のイケメン先生」
「人の恋愛対象を勝手に想像しないでっ!? ていうか桐枝ちゃんの好きな人を盗るつもりなんてさらさら無いし」
「あだっ」
思いっきりぶっ叩かれた。
結衣里の手が出るのも珍しいが、それだけ心外だったのだろう。
「むぅ……」
「ごめんって。まあ結衣里が親友相手にそんなことするとは俺も思ってはいないけどさ。それでも、恋って理屈じゃないだろ? 悩んでるっぽいし、何か普通じゃない問題があるのかと思って」
「な、悩んでるのは事実だけど……そんなんじゃないもん」
「そうか? 歳の差があって、親友の想い人で、しかも教師と生徒の禁断の関係~なんてなったら、悩んで当然だろ。むしろ、それだけ突っ切ってたら面白……応援したくなるし」
「面白いって! いま面白いって言った! 面白いって言ったよね!? 人が真剣に悩んでるのに……ばか!!」
ぺちぺちと叩かれ続ける司。
からかい半分でふざけてしまったが、おかげで落ち込んでいた結衣里もだいぶいつもの調子を取り戻してきたようだ。
「まったくもう…………でも考えたら、そっか。みんな、普通じゃない恋のことで悩んでるんだ。桐枝ちゃんも、四乃葉さんも……」
「そういうことになるのか。羽畑さんも修一さんにはもう既に恋人がいる上に、そもそも従兄だもんな。それに神社の跡継ぎの問題もあるし……大変だなあの子たちも」
どうにも困難な恋路を辿っている知り合いのなんと多いことか。
彼女たちの前途多難な恋の行方に想いを馳せる。
「…………わたしも」
とすん、と、不意に肩に重さを感じる。
結衣里が背中を向けて、頭を預けてきていた。
「わたしも……ね。悩んでる。好きな人のこと」
「……結衣里?」
「お兄ちゃんの言ったとおり、わたしって男の人と知り合う機会なんて全然ないし……でも、その人がいてくれたら他に誰もいらないから。ずっとずっと好きで、毎日一緒に過ごしてても全然気持ち収まんなくて。美味しそうにご飯を食べてくれたり、一緒にゲームしたり、たまにはデートなんかもしてくれちゃったりして……こんな気持ち、ずっと心の中にしまっておくなんてできないからっ」
次の刹那────振り返った結衣里に唇を奪われた。
「…………これが、わたしの好きな人。あの日から……ううん、もっと小さい頃から、ずっと。思い知った?」
司はしばらくの間、何が起こったのか分からなかった。
目の前の美少女にいきなりキスをされて、しかもそれは誰よりも大切な妹で……
突然すぎて思考がショートする司を、結衣里は顔を真っ赤にしながら満足げに見下ろした。
「ちょ……ま、ええ!? 結衣里、それ、って……」
「この期に及んで気付かないなんてこと、ないよね。わたしが今日どれだけドキドキしてたか、わかって」
「いや、だって」
「兄妹だから……なんて、そんなのわかってるもん! でも恋って理屈じゃないんだよ? なんなら、もっかいしてあげよっか?」
「……真っ赤になって俯きながら言うセリフかそれ」
謎テンションで無理矢理迫ってきていたのだろう。
再び背中を向けた結衣里と、背中を合わせあって気持ちを鎮める。
「…………ごめんね。わたし、妹なのに」
か細い声で、結衣里は恐る恐るそう零した。
「……まあ、ビックリしたのは確かだけど」
「兄妹でこんな気持ち、ダメだってわかってるけど……それでも、どうしても抑えられなくて……」
結衣里がギュッと身体を強張らせる。
結衣里の言うように、気持ちは理屈でどうにかできるものではなく、それが世間的に許されないものならば、打ち明けるのにも相当な覚悟が必要だったろう。
「…………俺も、ごめんな。結衣里の気持ちに気付かずに、デートだの好きな人はどうだの……」
「ホントだよ。わたしがどんな思いで……」
だから、そんな結衣里の想いを踏みにじるような真似をしていたことに罪悪感を覚えた。
口を尖らせているのが容易に想像できる、拗ねながらも甘えた口ぶりは、突然の告白のせいで距離感がギクシャクしていてもやっぱり愛おしい。
「よく考えたら、彼女作れって言い出した時にも言われてたんだよな。『お兄ちゃんを好きにさせようとしてる』とかなんとか」
「あれは、その。あれはあれで、本気で言ってるからね? わたしのこの気持ちも、結局は悪魔としての本能なんじゃないかって…………」
結衣里はそこで言葉を途切れさせ、しばしの無言の時間が流れた後に、再び口を開く。
「────お兄ちゃん。やっぱりお兄ちゃんは、カノジョつくって。他の人と、ちゃんと幸せになって」
少しだけ声を震えさせながら、それでもハッキリと、結衣里はそう言った。
「結衣里……でも」
「わたしは、お兄ちゃんが好き。兄妹としてじゃなくて、一人の女の子として…………。でも、やっぱりそれはいけないことだし、お兄ちゃんには幸せになってほしいから。悪魔がお兄ちゃんを不幸にさせようとしているのなら、わたしは悪魔を許せない。桐枝ちゃんに頼んで、わたしごと消してもらったって構わない」
「結衣里ごとって……そんなこと、俺が許さないぞ」
「うん。わかってる。だから、お兄ちゃんはちゃんと幸せになって? わたしを助けてくれたお兄ちゃんを、わたしが不幸にしちゃうなんて、そんなの絶対に許せないから。だから…………待ってる。お兄ちゃんにフラれる、その日が来るのを」
「結衣里……っ」
頬に雫を伝わせながら、にっこりと笑ってみせる結衣里の健気な笑顔に胸が苦しくなり、強く強く、妹を抱きしめた。
「あぁ……もう。こんなことされたら、余計に好きになっちゃうじゃん……!」
「黙ってろ……ホントにお前は出来た妹だよ。俺には勿体ない」
「えへへ、でしょ? だから、それまでは許してね。お兄ちゃんとの、恋人ごっこ」
「あぁ…………気が済むまで」
「……済むわけないじゃん。そんなこと言ってたら、一生離れられなくなっちゃうよ? お兄ちゃんは悪魔なんだから……」
「もうそれでいいよ。悪魔の兄妹でさ」
「…………ばか」
結衣里の悲壮で健気な想いを噛みしめつつ、愛おしい妹の身体を抱きしめながら、司は想う。
(────もし、神様がいるのなら。どうか、この優しい妹に、本当に幸せで報われた未来がありますように)




