51. 天使と悪魔
雨を避けて木陰に隠れながら、司は結衣里の身体を見やる。
頭には角、背中には羽。
どちらも今までよりも大きくなっていて、またしても消せなくなっているらしい。
隠していたしっぽも司の腕に巻き付いてきていて、結衣里の不安を表しているように見えた。
「…………。この雨も、さっきの雷もわたしのせいなんだよね、きっと」
「バカ言え、そんなワケ」
「あるよ、そんなワケ。なんとなく感覚分かったもん。もしかしたら、もう一回同じことできるかも」
「…………マジかよ」
神社の時も、ショッピングモールの時も、急な大雨や落雷があった。
あの小鬼に天気を操る類のチカラがあるのは見当がついていたけれども、まさか結衣里にもその手のチカラがあるとは。
いよいよ例の邪気騒ぎと、結衣里の身に起きた異変との関係が疑わしくなってきた。
「これは、本格的に羽畑さんに相談してみないと────っと」
再び、司のスマホが鳴る。
掛けてきたのはもちろん瑞希だ。
『っ! よかった繋がったっ……!』
「瑞希! そっちは大丈夫か?」
『はい、ボクは…………じゃなくて、先輩たちは大丈夫ですか!?』
「ああ。結衣里のアレがまた出たんだが、これといって他に異常は────」
『その、先輩っ! 結衣里ちゃんっ! いま結衣里ちゃんの友達のあの子が、そっちに飛んでいったんですっ!!』
「あぁ……あの子も大概、結衣里のこと大好きだもんなぁ……」
結衣里に対して、親友というだけに留まらない愛情や執着を見せている早川さん。
友情もさることながら、言うなれば「推し」とでも言うべき愛でっぷり。
そんな彼女のことだから、結衣里に何かあったと知ったら真っ先に駆けつけたがることも容易に想像できる。
結衣里も同じ考えらしく、司は結衣里と苦笑いを交わした。
だが、そんな弛んだ空気を、瑞希の声が一変させる。
『そうじゃなくて、文字通り飛んでいったんです! 背中に天使みたいな羽が生えて、「まさか結衣里ちゃんたちが……」って呟いて……!』
「へっ……?」
司たちが気の抜けた返事を返したのと、もう一つの“声”が響いたのはほぼ同時だった。
「────見つけたっ!」
清らかで鋭い声が上空から聞こえた。
咄嗟に振り向くと、そこにはよく見知った顔の“天使”が浮かんでいた。
「き……桐枝ちゃん……!?」
「結衣里ちゃん…………まさかあなたがそうだったなんて……」
鳥のように大きな純白の翼に、ドレスと鎧兜を合わせたような装束を身に纏い、正しく“天使”、いや戦乙女といった姿をした結衣里の親友。
信じられないような、いや信じたくなかったと言わんばかりの顔で彼女は呟き、そしてそのまま結衣里の方に降りてくる。
司は反射的に結衣里を自分の後ろに庇った。
「安心してください、お兄さん。私は結衣里ちゃんに憑いた悪魔を祓いに来たんです」
「……」
「き、桐枝ちゃん…………その姿って」
「私は“御使い”としての力を授けられた……言わば、“天使”です。内藤先生の指示で、この街に顕れたという悪魔を探していたんですが…………まさか、よりによって結衣里ちゃんに憑いてたなんて」
警戒を解くためか、司たちの目の前に降り立ち語りかける早川さん。
司は依然険しい顔をしたまま、結衣里を一歩下がらせた。
「その様子だと、お兄さんも知ってたみたいですが……結衣里ちゃんは、いつからそんなことに?」
「……1ヶ月前くらいから。わたしの身体にある日突然角とか羽が生えて、一日経ったら消せるようになったんだけど、しっぽだけは消せなくて……」
「1ヶ月前…………あ! もしかして、結衣里ちゃんが早退した日」
「うん、そう。あの日はなんとか服と帽子で隠して登校したんだけど、教室だと隠しようがなかったから」
「なるほど、それで……」
納得したように深く頷き、早川さんは少し寂しそうな顔をした。
「相談してくれたらよかったのに。天使としての役目を抜きにしても、結衣里ちゃんのためなら私、何だってするのに」
「だ、だってこんなこと言えるわけないしっ! まさか桐枝ちゃんが天使? だったなんて思わなかったもん。……あ、もしかして。内藤先生のことを……っていうのも?」
「ふえっ!? せ、先生は私に天使としてのチカラと役目をくれただけで、他には何もないっていうか…………!」
ふと結衣里が疑問を口にすると、早川さんは顔を赤らめて口ごもった。
「内藤先生って?」
「うちの学校の先生。教会の神父さんもやってて、イケメンで人気あるの」
「ああ、そういう……」
端的な説明だったが、それで凡そ把握した。
舞月神社に邪気を祓う役目があるように、教会にもそういったオカルトチックな役割があってもおかしくはない。
それこそ、悪魔祓いのような。
その先生とやらの素性はともかく、なにやら彼女は彼女で色々と訳アリらしい。
それも、悪魔とか天使とかの眉唾なモノではなく、ごく普通の女の子らしい事情が。
その姿も相まって、天使と呼ぶに相応しい愛らしさが垣間見えた。
「ま、それはそれとして。早川さんは、結衣里に何の用があって来たんだ?」
なんだか一瞬のほほんとしてしまったが、改めて表情を険しくして司は問いかける。
「! はい……結衣里ちゃん、見ての通りあなたは悪魔に取り憑かれてます。その姿に加えて、天候すら操り雷まで落とせる異能…………さすがに、全部が全部結衣里ちゃんの意思じゃなくて、不安定な悪魔のチカラが暴走したんだと思いますが……」
「それは……」
彼女に問い返されて、結衣里は答えに窮する。
「やっぱりあれは、結衣里が起こしたのか」
「はい。あの雷は霊力によって引き起こされたもので、近くにいた私には、この記念公園から放たれたものだってハッキリ分かりました。他に邪気や霊気も感じませんし……状況的に、結衣里ちゃん以外あり得ないんです」
司としても、あれは結衣里がやったとしか考えられなかった。
なにせ、結衣里本人がそう言っているのだから。
「私は、人を導き邪悪を正す御使いとして、悪魔を祓わないといけないんです」
「……結衣里が、邪悪だと?」
「そうは言ってません。結衣里ちゃんが良い子なのは私もよく知ってます! 結衣里ちゃんに取り憑いてる、悪魔のことを言ってるんです」
司はじっと早川さんを見つめる。
曇りのない瞳からは、嘘を言っている様子は窺えない。
彼女が結衣里の親友として、心から結衣里のことを大事に思ってくれていることは司も知っていた。
「…………わかった。そこまで言うなら、早川さんを信じるよ。結衣里?」
「うん、わたしも。だって、桐枝ちゃんは親友だもん。一番の!」
「結衣里ちゃん……」
結衣里はそう言って、早川さんと抱き合った。
「桐枝ちゃん。わたし、どうしたらいい?」
「結衣里ちゃんの中の悪魔を、この場で祓います。そこに跪いて、お祈りの姿勢を取ってもらえますか? お兄さんは離れてください」
「わかった」
「……よろしく頼むよ」
結衣里は頷いて、その場に膝をついて俯き、小さく手を握り合わせた。
教会系の学校に通うだけに、その姿勢は慣れたもので堂々としている。
司は不安を振り払って結衣里から離れ、見守る。
「私が祈りと法術で祓います。そのまま、動かないでください────私は神の御使いを任じられた者。汝、神の名の下において、自らの罪を懺悔なさい」
「…………わたしの……罪…………」
結衣里が、苦しそうな表情で顔を伏せた。
「…………わたしは……お兄ちゃんを…………」
「結衣里……」
結衣里はこれまで何度も、「悪魔としてお兄ちゃんを誘惑しようとしてしまっている」と言っていた。
結衣里の、そして早川さんの言うことを信じるならば、それらは結衣里に取り憑いた“悪魔”による影響であって、それが取り除けるのならそれに越したことはない。
「神の子山羊、世の罪を取り払いたもう主よ。敬虔なるこの者から、我らが父に抗し伏したる悪を除きたまえ」
結衣里と同じく手を握り合わせ、祈りの姿勢を取った早川さん。
彼女の背の翼がひらめき、次の瞬間、結衣里を中心とした円陣が一瞬で地面に描かれ、輝きはじめた。
「あ……」
「まさに奇跡というか、魔法そのものだな……」
前に羽畑さんが小鬼を封じる場面は目にしていたけれど、その時にも増して神々しく清冽な雰囲気を感じる。
これで、ようやくカタが付くのだろうか。
結衣里がいきなり“悪魔”になってから、ひと月。
ひたすら戸惑い、何の手掛かりも無い中で、なんとかする方法を模索してきた。
これで結衣里が“悪魔の誘惑”に悩まされることもなくなるのであれば、喜ばしいことのはずだ。
「────世界を乱す“悪魔”…………結衣里ちゃんの、私の親友の中から消え去りなさいっ────!!」
早川さんの声が、一転して感情的なものに変わる。
彼女としても、悪魔がよりにもよって親友に取り憑いているということに憤りを覚えていたらしい。
結衣里も親友のその気持ちを嬉しいと思ったのか、照れたような少し困った苦笑いを浮かべ……
「…………っ…………!? あっ、ああ……っ…………!?」
「結衣里っ!?」
急に、結衣里が地面に手をついて苦しみだした。
「近寄らないで! 結衣里ちゃんの中の悪魔が苦しみ始めたんです。このまま、完膚なきまで浄化します!」
結衣里を包む光がいっそう強さを増し、悪魔を消し去ろうとする。
「あ……あぁ…………っ…………おにい、ちゃん……っ」
結衣里が苦しんでいるのは見ていられないし、助けていいのならすぐにでも駆け寄りたいのだが……
この身を刺すような熱さを感じる浄化の光は、人間に対しても害になり得るものだと直感的に理解できる。
薬も過ぎれば毒となるように、これは相当な荒療治なのだ。
司はグッと拳を握りしめながら、苦しむ結衣里の悲鳴を聞いて歯噛みしていた。
「…………おにいちゃん…………たすけ、て」
結衣里が喘ぎながら縋るようにこちらを見て、手を伸ばすのが見えた。
それは、あの日。
大雨の中、崩れ落ちる川岸に飲み込まれながら、必死に手を伸ばしてきたあの時の顔と同じもので。
「っ、結衣里っ!!!」
「お兄さんっ!!? ダメっ!!!」
慌てた早川さんの静止も構わず、司は結衣里に駆け寄り抱きしめた。
「おにい、ちゃん……っ」
「結衣里っ! ……大丈夫、絶対に放さないから。おい、早川さん! 止めてくれっ!」
身を焼くような熱さに驚くものの、不思議と苦しさは感じない。
害のあるものではないのかもしれない。
結衣里のためを思えば、止めない方が良いのかもしれない。
それでも、結衣里のあの顔を、あの手を見てしまっては。
司には、黙って見ていることなど出来はしないのだ。
「結衣里ちゃんっ! お兄さんっ! 大丈夫ですかっ!!?」
早川さんが術を止め、心配そうに近寄ってくる。
「なんで、こんな無茶を……!」
「悪いな、早川さん。…………それでも、俺は止めなきゃいけなかったんだ。結衣里が、『助けて』って言ったからな」
「それは、結衣里ちゃんの中の“悪魔”が…………」
「知るかっ!! 結衣里が『助けて』と言った、俺にはそれが全てだ。天使だろうが神様だろうが、それ以上に信じられることなんてあるか!」
「ひっ……!」
もの凄い剣幕で怒鳴りつける司。
早川さんは怯えて翼をのけ反らせ、縮こまってしまう。
ハッと我に返ると、司はあわてて謝った。
「……あ、ご、ごめん」
「い、いえ…………私も、無理やり進めてしまいましたし……」
「…………ごめんね、桐枝ちゃん。あの光に包まれたとき、わたし、怖くなって…………このまま、永久にお兄ちゃんに会えなくなる気がして…………」
「……っ……!!」
弱々しく不安を吐露する結衣里の言葉に、司は強く強く、結衣里の体を抱きしめた。
「いたっ!? 痛いっ、痛いってお兄ちゃんっ……!」
「…………我慢しろ。そんなの、絶対させないからな」
「っ……わ、私だって絶対そんなのイヤですっ……!」
司と早川さんで、二人で挟み込むように結衣里を抱きしめ続ける。
「えへへ…………ありがと。うん、わたしもイヤだもん。そんなことになるくらいなら、今のままでいいや」
結衣里はもぞもぞと窮屈そうに羽としっぽを動かすと、目に小さな雫を浮かべつつ、兄と親友に抱きついていた。




