人生引き継ぎ日記を見つけた
訳がわからない。眼が覚めたら、私は他人になっていた。
前日の疲労が抜けずに足元がふらついて、歩道橋の階段を転がり落ちた。事故である。打ち所が悪く、おそらく即死。暗転して、先ずは空が見えた。朝の喧騒は嘘のように静まり、あの世にやって来たかと思った。頭はズキズキと痛み、起き上がろうとしても手足に激痛が走るばかり。
「誰かーっ、痛い、誰かいませんかぁーイタタ」
叫んで見れば、知らない声で。眼を動かすと生垣が見える。どうやら迷路園に倒れているようだ。声は弱々しく、ちっとも響かない。きっと誰も来ないだろう。晴れているのがせめてもの救いだ。
ぶわりと地面に広がった焦茶のロングウェーヴは、私の頭に続いているに違いない。明るめの茶色に染めたショートだった筈なのだが。首を動かそうとすると、全身が痛むのでそれ以外は分からない。首自体は無事だ。言葉も弱々しいものの、はっきりと発音出来ている。
どうにもならないので、ただ仰向けで空を見上げる。青い空に白い雲が流れてゆく。暖かな太陽が呑気に浮かんでいた。小鳥の声、虫が下草を這う音。どこかで犬が吠えている。
このまま誰も来なかったら、いずれ衰弱して儚くなるだろう。脳の誤作動なのかな。でも、最期に見える情景が、倒れた人への苛立ちや怒号でなくて良かった。のどかな迷路園で、草木や芳しい花の香りに囲まれて逝く。なんと贅沢なのだろうか。
享年20歳。誕生日を数日前に迎えたばかりだった。お祝いしてくれる人もなく、両親は既に他界していた。兄弟はいなくて。ペットもなし。地味な庶民の生活だったけど、そこそこ平穏な日々だった。
重たい足音が近づいて来た。拍車がガチャガチャなっている。
「ライラーッ!」
規則正しい足音が、突然乱れて大きくなった。何か必死な叫びも聞こえる。美声でもなく悪声でもない。しかし張りのある声だ。拍車なんてつけてるくらいだし、軍人だろうか。この場所は、私専用ではなかったみたいだ。ちょっと残念。
それより静かにしてほしい。頭に声が響き、身体には地面の振動が辛い。端的に言って、痛い。酷く痛む。
「どうしたんですか!大丈夫ですか!」
頼むから声を小さく。覗き込む顔は厳しく、きりりと太い金の眉が心配そうに寄っている。真夏に見上げる青空の色を移した瞳には、真心が込められていた。
「動けません。救急車をお願いします」
途端に金眉の人の眉間に深く縦皺が寄る。怖い。凹凸の激しい外人である。流暢な日本語を話しているから、ハーフかも知れないけど。
「きゅー、きゅー、しゃ?」
金眉さんが困っているようだ。顔が怖いのは彫りが深く顎が張っているから。
「ライラ、可哀想に。呂律が回らないんだね?早く!医者を呼べ!」
また叫ぶし。やめてよ。
バタバタと人が集まって来た。勿論音が聞こえるだけだ。
「閣下、ご令嬢のご様態はっ!」
やだわ。この人も叫ぶよ。
「それを調べるのがお前の仕事だろう!」
だから!叫ぶな。
「あの、申し訳がないのですが、全身が痛むので、もう少し、小さな声にしていただけませんか」
耐えかねて申し出る。金眉さんは、悲痛な顔になって押し黙った。ちょっと可愛い。
なんだろう?身体がポカポカしてきた。温風を感じる。痛みが少しずつ和らいでゆく。
「グリナウェイさま、お首を動かすことはできますか?」
声だけ聞こえる老紳士らしき人が言った。状況からして私に言っているらしい。栗毛のこの身体は、ライラ・グリナウェイと言うのだろう。痛みは引いたので言う通りにした。
「ふむ。お手は如何です?」
首は問題なく動いた。金眉さんの隣、倒れた私の足側に、きっちりとした襟高の青い上衣を着込んだ白髪の紳士がいた。
「動くようになりました」
「ふむ。起き上がれますか?」
起きあがろうとすると、金眉さんが慌てて支えてくれる。
「ライラ、まだ立たないほうがいいんじゃないか?」
心配そうで優しい声音だ。
「ごめんなさい。何故かは分かりませんが、私、ライラさんではないんです」
周囲に集まっている人々が息を呑む。声を忍ばせて泣き出す人もいた。皆彫りが深い。頭がカラフルだ。紫の人、緑の人、水色の人。まつ毛も眉毛も、それぞれに同じ色である。
「閣下、一時的な混乱でしょう。まずは安全な環境で横になっていただきましょう」
「客間に運ぼう。誰か、グリナウェイ邸に知らせを頼む」
説明は無理だ。分かるように話すなんて出来ない。夢であれ現実であれ、何が起きているのか私にも理解できていないのだ。しかし、金眉さんはライラさんのことが余程大事なのだろう。慎重に手を取って、そろそろと移動してくれる。
身体の痛みはなくなったし、頭もはっきりしている。だが、医者らしき人の指示なので、提供された寝床で横になる。大きくてふかふかで、とても寝心地が良い。気がついたら眠ってしまっていた。
次に目が覚めると、ベッドの周りには人だかりができていた。半分くらいの人は、日本の漫画やゲームで良く登場するメイドさんや男性使用人のような服装だ。庭園に駆けつけた顔もちらほら見える。
あとの半分は高級な生地の仕立ての良い服を着ている。スカートが長いロングドレス等、やや古風ではあるものの、動きやすく合理的なデザインだ。
「おおライラ!良かった、目が覚めたんだね」
「知らせを聞いて、生きた心地がしなかったわよ」
「ジェフ君には感謝するんだよ?」
「ライラ!うわあああん!よかったああああ!」
ライラさんの家族に違いない。全員栗毛に菫色の瞳だ。号泣しているのは、幼い少女だ。恐らくはライラさんの妹である。外人だから名前で呼ぶのか、この子が独特なのかは分からない。それはともかく、どの人も流暢な日本語を話す。
流石にそろそろ、ここが現実とは違うルールで動いていることは分かった。夢なのか、創作物みたいに、異世界の人に憑依しちゃったのか。それは判断しかねるのだが。
医師のお許しが出て、豪華なお馬車でライラさんのご自宅へと移動する。心配症の閣下が同乗した。黒に近い深緑色の上衣には、どこかのサイボーグみたいに大きな金ボタンが2列になって胸に並んでいた。揃いのズボンはぴたりと細身で、バックル付きの膝まで覆ういかついブーツまでが同じ色をしていた。
ぴたりと付き添われて、ライラさんの部屋まで送られる。部屋まで迷わずたどり着いた閣下は、ライラさんの家族同然にまでなっている仲なのだろう。かいがいしく補助されながら、ライラさんの寝台に上がる。閣下の客間にあったものよりは小ぶりだが、天蓋付きの高級寝台である。
医師の意見に従って、またしばらくは安静に過ごす。常に数人の女性が室内に控え、扉が開けば2人組の護衛が見える。毎日医師の診察を受け、花束を携えた閣下の訪問にも応える。
「ライラ」
優しく甘く、囁きながら、閣下はライラさんの手や髪に唇を触れる。
「本当に申し訳ないのですが」
私はその度に説明を試みる。
「焦らなくていいんだ。思い出してくれなくても、また始めたらいいんだし」
可哀想な閣下。あなたのライラさんは、きっともういない。最初は、身体の中で眠っているんじゃないかと期待した。しかし、私の呼びかけに応える元の精神は居なかった。
ひと月が経ち、進展のなさに私は苛立ちを感じていた。何でもいい。起きている事態に関する手がかりはないのか。ライラさんが家族や友人、婚約者だと判明したジェフ閣下たちと穏やかで幸せな日々を送っていたらしいことは分かる。みな細やかな心遣いを見せてくれていた。
彼らの愛情を感じる度に、申し訳なさが募る。私は両親を早くに亡くした。頼れる親戚もなく大学を中退して、就職したのは小さな町工場であった。そこにはうまく馴染めず、少ない友達は愚痴っぽくなった私から離れて行った。
天涯孤独の身の上だ。突然連絡が途絶えても誰も心配などしないだろう。せいぜい無断欠勤の誹りを受けている程度に違いない。大きなトラブルはないものの、ライラさんとは正反対の日常だった。
ライラさんは、こんなにも愛してくれる人々を後に残して逝くなんて、さぞかし心残りであった事だろう。
「あ」
華やかな金属彫刻が施された小机には、薄い引き出しが付いている。何度も中を確認していたのだが、ひと月の間気が付かなかった。引き出しを開けると、ほんの僅かな出っ張りが天板の裏側に感じられたのだ。
カチリ。
微かな音がして、飾り彫刻の一部が回転する。鍵穴が現れた。再び部屋中を探し回る。また1週間が過ぎた。
クルリ。
ベッドの頭を飾る木彫りの小鳥が動いた。夢中で捻り続けると小鳥は抜けて、下の柱から空洞が現れた。中には小さな銀色の鍵が入っていた。
震える指先で鍵を摘み上げ、私は小机へと走る。仕掛けを動かし、鍵穴に銀の鍵を差し込む。はやる気持ちを抑えて、静かに鍵を回した。
金属飾りで巧みに隠されていた小引き出しが、少しだけ飛び出す。そっと引き出すと、中には美しい刺繍が施された手帳が入っていた。
小口のリボンを解く。濃紺の繻子に金色の小花が丁寧に刺繍された細いリボンだ。表紙も同じ色の繻子である。青い小鳥や黄色い蝶が舞い遊ぶ、金色の木が枝を広げた図案であった。
「閣下、これを」
その午後、いつものように訪れた閣下に、ライラさんの手帳を渡した。
「ライラが刺したのかい?相変わらず素晴らしい。ありがとう。とても嬉しいよ。記憶が無くても手が覚えているんだねえ」
「中を、中をご覧下さい」
「中?私に詩を書いてくれたのかい?」
ジェフ閣下はいそいそと、大きな指で繊細な表紙を開く。
「日記?読んでいいのかい?」
「ええ。ぜひ」
読み進める閣下の頬が緩む。青い瞳に愛情が溢れてゆく。時折り甘い眼差しを、ライラさんの瞳へと投げる。ごめんなさい。中にライラさんはいません。私は涙を滲ませる。
「どうしたんだい?」
閣下は読む手を止めて、そっと指先で目元を拭ってくれた。
「思い出せずに辛いのかい?」
「どうか、続きを」
涙声になってしまうが、私は閣下を促した。
薄い手帳だ。すぐと最後のページに辿り着く。閣下の瞳が大きく見開かれた。
「そんな」
「ごめんなさい、本当のことなんです」
閣下はページと私を見比べる。
「ライラ」
閣下はページに目を落とし、目を瞑り、大きく深呼吸をした。
まぶたを静かにあげ、ジェフ閣下は凪いだ瞳で私を見た。
「あなたには、すまないことを致しましたね」
「いいえ。どのみち私の身体は死んでいるのです。天涯孤独で悲しむ人もおりません」
閣下が穏やかに謝罪して下さったので、私は落ち着いて答えることができた。
「ライラさんの書き残された通りです」
「ライラの魔法は正確ですから」
この世界には、魔法があった。稀少な能力ではあるが、夢幻ではなく実在する力であった。ライラさんは、刺繍を通して魔法を使う人だった。手帳の刺繍にも魔法が込められている。この日記はライラさんの人生を引き継ぐ魂の持ち主と、彼女の愛するジェフ閣下だけが読めるようになっていた。
◆
長い時が経った。
私の魂は、ライラさんの身体も離れて、ジェフ閣下と暮らした邸宅の樹下に立っている。もうすぐ消えて、次の人生へと旅立つだろう。
ライラさんの遺志を尊重して、予定通りに式を挙げた私たちは、5年後に本当の夫婦となった。ふたりで話し合い、私がライラさんとは別人である事実は、最期まで他の人たちには明かさなかった。子供にも孫にも恵まれた。
だが、ジェフ閣下の魂はこの世を去る時、とても複雑そうな顔をした。
「ええと、あなたを裏切るような気もしてしまうのですが」
閣下は、ライラさんの魂と寄り添っていたのだ。
「ふふ、そんなことはなくってよ?わたくしも、おふたりの元へ参りますわよ?集めて戻ったライラさんの魂は、次の人生で閣下とちゃんと添い遂げますわ。最初の娘がわたくしよ。おふたり、どうか次のわたくしに素敵なお名前つけて下さいましね?」
驚いたことに、異世界から呼ばれた私の魂にも魔法への適正があったのだ。ライラさんから貰った命である。彼女の魂を砕いた魔力枯渇病の研究に、私は一生を捧げた。そして、この奇病により砕けた魂が消えてしまうわけではないと突き止めた。
ジェフ閣下が息を引き取る直前に、とうとうライラさんの魂を修復することに成功したのだ。ライラさんの身体も、もうすぐ寿命を迎える。
「この身体は、最期までわたくしがお預かりいたしますから、おふたり仲良く、次の人生にいってらっしゃいましな」
「そういうことなら」
「あなたには頭が上がらないわね」
閣下とライラさんは困ったように微笑んで、薄くなり消えていった。閣下の横たわる窓辺には、在りし日のライラさんが刺した青い小鳥や黄色い蝶が現れた。小鳥は楽しそうに囀って、しばし私の心を慰めてくれたのである。
◆
日記は語る。
わたくしの金色さんへ。
この日記を読み終えたということは、人生引継ぎは無事成功したのですね。
わたくしの魂は、魔力枯渇病に侵されました。この奇病に治療法がないことは、ご存知よね?
もうすぐわたくしの魂は消えてしまいます。
愛し愛され、幸せな人生でした。
それでね、ジェフ。
わたくし、この人生を下さった魔法の神様に、何かお礼がしたかったのよ。
許してちょうだいね?
何処かで寂しく息を引き取る孤独な魂をひとつ、この身体に住んでいただけるようにしたの。
勿論、みんなと気の合う魂を呼ぶのよ?
ここで幸せになれる魂よ?
辛い思いなんかさせられませんもの。
見た目がわたくしだから、戸惑ってしまうわよね?
記憶を失ったように思われるでしょう?
わたくしの愛しい金色さん。
怖がらせてはダメよ?
ジェフは優しくて控えめだもの。
お兄様みたいに急にキスして、驚かせたりはしないでしょうけど。
見知らぬ魂さん、わたくしの大切な方々と仲良くしてね?
違う人間だもの。
家族になって欲しいとまではお願いしないわ。
でも、きっと仲良くなれるわよ。
気の合う魂を呼ぶのだもの。
きっと大丈夫。
お母様、お父様、お兄様と妹に、この日記を読み上げるかどうかは、あなたとジェフにお任せするわ。
話し合って決めてね。
もし、秘密にしておくなら式は挙げて欲しいけど。
お別れする形になってしまうと、皆が驚いてしまいますもの。
でも、そんなのわたくしの我儘よね?
気持ちだけ、わかってくだされば、本当はお別れしてもいいのよ。
知らない同士ですものね。
ジェフと魂さんを困らせるなんて。
ばかなわたくしね。
ごめんなさい。
おふたりとも、心のままに人生を送ってね?
ご無理なさらないで。
ジェフ。
魂さん。
勝手なお願いをして去ってしまうわたくしを許してね?
どうか、どうか、お幸せに。
さようなら。
ジェフの可愛い
ライラ・グリナウェイ
お読みくださりありがとうございます