6話
六
夫
数日後、仕事が終わった私は、加藤から教わった住所を頼りに、十五年ぶりの再会の舞台となる居酒屋を訪れた。どこの繁華街を歩いていても必ず目にするような有名なチェーン店で、カトウの名を告げると座敷席に通された。
呉谷と合流してから少し遅れて来ると加藤から連絡は受けていたが、あの二人の今の嗜好が一切分からないため、何を頼んでおけば良いのか分からない。メニュー片手に手持ち無沙汰で待っていると、ほどなくして加藤と呉谷が連れ立ってその座席に入ってきた。
加藤はこの前と同じく、快活に話しかけてきた。スーツのジャケットを小脇に抱え、袖をまくった腕にはうっすら汗をかいている。
久しぶりに会った呉谷は、あまり変わっていないように見えた。年相応のしわなどはあったが、私などよりはまだまだ若く見える。オフィスカジュアルの服装も、平均より少し低い自分の身長に合うものをしっかり選んでいるようだ。
加藤は私の向かい、呉谷は私の隣に座った。乾杯を終えると、加藤が率先して私と呉谷の近況を手短に話した。呉谷は今、経営コンサルタントをしているらしい。道理で良い時計をしている。
「さあ、久しぶりの再会だ。腰を入れて飲もうじゃないか」
加藤が私達の意向も聞かずに生ビールを人数分注文した。
私たちはその後しばらく、名物だという海鮮料理に舌鼓をうち、最近の時事問題について軽く意見を交わしていたが、時が経つにつれて、その話題は、自然と私たちの共通の記憶である学生時代の思い出話に移っていった。
「いやあ、それにしても憶えてるか? 引退前最後の大会のとき、俺達は誰一人上位トーナメントに上がれなかったよなあ」
加藤が言ったこの試合、これは全国レベル、都道府県レベルの話ではない。もっと小規模な地元地区の試合だった。
個人単位のリーグ戦の予選を経て、その勝ち数で上位トーナメントと下位トーナメントに分けられる。私たち五人の中の最高順位は、女子シングルス下位トーナメントで準優勝した沙月だ。
「俺は体育館の裏で他校のやつとふざけて話してた方が面白かったな」
私も段々、当時のことを思い出してきた。
「あったな、〝和平会談〟」
加藤が声を抑えながらも、腹を抱えて笑いだす。
近隣地域で弱い学校はほぼ固定されていたので、三年目には顔見知りになった者も多かった。
休憩時間や同期の試合がないとき、試合が開催されている学校の体育館裏で複数校の顔馴染みと男同士、座りこんで他愛もない話で盛り上がっており、私たちは密かにそれを〝和平会談〟と呼んでいた。
それほどゆるい部活だったのだ。顧問は試合の様子などは見ておらず、運営本部の奥でコーヒーを飲んでいた。
「お前は何か思い出に残ってることはあるか?」と加藤はさっきからあまり喋っていない呉谷に尋ねる。
「俺か。俺は沙月かな」
顔には出さなかったが、私の心臓の鼓動が少し速くなった。
「沙月? ああ、石倉沙月か。あいつがどうしたんだよ?」
何も知らない加藤はグラスを傾けたまま軽い口調でそう言った。
「しらばっくれるなよ、宮野」
呉谷は、ポーカーフェイスを維持しようと努めている私の方を見た。半笑いで顔を傾け、私を睨みつけるその顔は酔いで少し赤くなっている。
「お前は沙月と付き合ってたんだろ?」
「何だって? 本当なのか、宮野?」
「今だから言うけどな、俺はあの時から知ってたんだ。沙月から相談されてたんだぜ? お前から愛が感じられないってな。三年の頃には、どうすれば後腐れなくお前と別れられるか悩んでたよ」
妻
それは三回目の密会の時だった。指定されたホテルの部屋の扉の前に着くと、中から話し声がした。それも声のトーンからして、ただならぬ気配だ。沙月はしばらく扉の前で声を潜め、中の声が少しでも聞こえないかと扉に耳を近付けた。
「お前、ようもずっと電話無視しやがって、逃げられるとでも思っとんのか!」
知らない男の声がした。低く、ドスの効いた関西弁で怒鳴っているため、外からでもよく聞こえる。
「勘弁してくださいよ…… 今月の利息は払ったじゃないですか」
呉谷の声だ。いつもとは打って変わって弱々しい。
「最近は全然期日守ってへんやろが。この前なんか十日も遅れやがって。こういうのは信頼関係の問題やねんぞ」
「とりあえず今日はどうしても無理なんです。女が来るんですよ、こんなところを見られるわけには……」
「おお、ちょうどええがな。その人に残り払ってもらおうや、すぐ呼べや」
「冗談はやめてくださいよ、今月分は払ったんだからもう帰ってください」
「黙れ、お前がそんなん言えた立場かい。なめんなよ、こら!」
「お金は全部払いますから、心配しないでください。もう裏切るようなことはしませんから。何とか金策がうまくいきそうなんですよ」
そこで少し、間が空いた。うっすらと電子音が聞こえる。
「ちっ、呼び出しや。ほんまやったら一回捕まえたら簡単には離さへんねやけど。まあ今日はええわ」
足音が近づいてくる。沙月は急いで扉から離れて、廊下の曲がり角の向こうまで走った。素知らぬ顔をして再び扉の方に歩いていくと、呉谷と話していたであろう男が歩いてきた。
すれ違いざまにじろじろとこちらを見てくる。身長も高く、それでいて熊のように太っているので、まるで巨人のようだった。丸坊主で薄い色のサングラス、趣味の悪い派手なジャケットをはおり、指にはいくつかの金の指輪という、典型的なやくざだった。今時こんなに分かりやすい格好をしているものなのかと思う。
ホテルの部屋に入ると、呉谷はすました顔で私を出迎えたが、その顔は明らかに青ざめていた。
「さっきのは何なの?」部屋に入ってすぐに沙月はそう訊ねた。呉谷は、最初はしらばっくれようとしていたが、会話を全て聞いたことを伝えると、事情をしぶしぶと話し始めた。
呉谷は仕事で失敗し、次年度からの年俸が減額したタイミングで資産運用でも大損し、大きなマイナスになってしまったらしい。
しかし一度上げた生活水準はそう簡単に下げることはできず、彼は金を借り始めた。カードローン、消費者金融、最終的にはとある暴力団のフロント企業からも金を借りてしまったそうだ。
「もう地獄だよ、利息を払うだけで精いっぱいだ。仕事場にも乗り込んできそうなんだ」
「馬鹿ね、ああいう手合いは金を搾り取れるところからは絶対に離れないわよ」
独身時代に暮らしていたアパートで、同じように苦しんでいる人を何人も見てきた。
「まあ、大丈夫だ。詳しくは言えないけど返済の目処は立った。来月には金を用立てできる。もう、あんな野蛮な男に関わることはない」
「本当に大丈夫なのね? さすがに私もあんなのがうろついているんなら、あなたには会いたくないわ」
そうは言ったものの、沙月が本当に気になっているのは、呉谷がどうやってお金を調達するつもりなのかということだった。