彼らの物語 11
黒い、重い、まるで重油の中を泳がされているような。
そんな感覚の中にナオはいた。
息が苦しい。呼吸をしたい。体が重い。
水面を目指してもがいても、水面がどっちなのかわからない。
「……っ!」
重油の水面を突き抜けて、ナオは現実へと戻って来た。戻ってこれた。
深々とため息をついて、身体の力を抜く。
そこは、自分たちの部屋だった。
自分たちの部屋の、馴染みのベッドの上に、寝かされている。
復活の間ではなかったことに、少なからずナオはほっとした。
自分たちは死ななかった。
砕けた、立ち上がる事すらできなくなっていた足も、元通り。
難しいとされる治癒魔法を受けられたのだろうと、ナオは考えた。
それほどまでに酷い怪我……むしろ、壊れ方というほうが、正しい。
当然のように、安堵の後に後悔の気持ちが湧いた。
『賢者様』に余計な魔法を使わせてしまったか、それとも「ものすごくたくさんのお金」を払わせてしまったか。
多くはケンの受け売りではあるのだが、回復というものに、お金がかかることもナオは知っている。
そして「支払い」がどんなに大人を不機嫌にさせるのかも。
いやだ。
ぶわ、とナオの中に不安が広がる。
水中に落としたインクの一滴のように。
けれどインクのようには薄まらず、ただただ黒が広がっていく……。
そんな「水中」で呼吸ができるはずもない。
ベッドの上で、ナオは酸欠の金魚のようにあえいだ。
どうしようどうしようどうしよう。
それだけが頭の中を巡る。
顔を抑えて、身体を震わせながらナオはベッドの上で寝返りを打った。
「ああ……」
ため息というよりも、うめき声。
ナオは……まだそうするには早すぎる絶望の中にいた。
それでも目を覚ました以上は、遅かれ早かれベッドから起き上がらなければならない。
のろのろと身体を起こして、上掛けをどけた。
ベッドから足を降ろした時、ナオは奇妙な違和感を覚えた。
ほんのかすかな……たとえば、靴の中に中敷きを一枚足した時のような、とるに足らないもの。
治療の魔法なんて、滅多に受けないものだから、そう思うんだろうとナオは考えた。
『賢者様』も三人に最初に教えてくれていた。
復活やレベルアップで急激に体は成長するから、魂の方が変に感じるのだと。
魂が身体に馴染み切っていない、成長痛の代わりのようなもの。
「馴染み切っていない」という、不意に浮かんだ言葉にナオは苦笑した。
それじゃまるきり、別の身体になったみたいじゃないか、と。
「ナオ? 起きたのね」
「……うん」
後ろからかけられた声に、ナオは返事をした。
動かなかったミヤも、どうやら治ったらしい。
「今日はお祭りだったんですって。『賢者様』がお祭りのお菓子をたくさん買ってきてくださったのよ。見て見て!」
あれ?
ナオは振り向いていないから、ミヤの顔は見えていない。
だが、だからこそ違和感があった。
……自分の体に対するもの以上に。
「ケンは?」
「聞いてよ。今口いっぱいで返事もできないのよ」
……あれ? ぐにゃりと、違和感がナオの頭の中を掻きまわす。
―――僕は怪我を、大怪我をして、だから『賢者様』、……なんで、僕は大怪我をしたんだっけ?
―――いや、怪我をした?
―――怪我をした夢を見たんだったっけ?
ナオは自分の頭の中心がバランスを崩したような気がした。
まだベッドに腰掛けているだけなのに、部屋全部が揺れているようですらある……。
「大丈夫? 『賢者様』は転んだ拍子にどこかに頭をぶつけたかもって」
頭をぶつけるような転び方をした記憶は、ナオにはない。
「ごめんね、私たちがうたた寝しちゃってたから」
「ううん、大丈夫」
おかしい、とはっきりと自分の中で警報が鳴るのをナオは聞いた。
「覚えてないけど、たぶん足を滑らせたとかだと思う」
そこで初めて、ナオは友だちの方を見た。
休みの日らしく、ミヤの長い髪はお姫様のようにリボンで飾られている。
あれ、と。何度目かわからない、声にならない疑問の声が生まれる。
ミヤの口の下には、小さなほくろ。
今朝までミヤには無かった物。
ナオには次の瞬間から、ミヤの顔がミヤのものには見えなくなった。
ついさっきまで、ミヤだったはずなのに、そこにいるのは知らない女の子。
どこかで見たことはあるけれど、友だちのものでは決してない顔。
悲鳴を噛み殺すことを、ナオは知っていた。
なんでもないという表情を作ることも。
慣れたくないのに慣れていたそれに、ナオは守られていた。
「気が付いたんだね、よかった」
「……はい。ご心配をおかけしました」
飲みこみ終えたケンが外に呼びかけたのだろう。
部屋に入って来た『賢者様』は、ナオの顔を確かめると、安堵のため息を(少なくともそう見えるものを)した。
「ナオの分もちゃんとお菓子はとっておいてあげているから、起きあがっても大丈夫そうなら、おあがりなさい」
「はい。お祭り、だったんですね」
「そうだね、世事に疎いものだから、君たちに見せてあげられなかった。すまないね」
そう言う『賢者様』は心からそう思っているようだった。
心からナオを心配し、うっかりとお祭りを見せそびれたことを申し訳なく思っている……。
「でもお菓子がありますから!」
明るく笑いながらも、ナオは違和感を表す言葉をそっとしまいこんだ。
これはきっと、誰にも見せてはいけないものだと判断したために。
この時、ナオの中に確かに、『疑い』の種は蒔かれたのだった。




