恍惚のファニーボーン
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
お〜、いててて……まじで机の角に足の指ぶつけるとは、油断してたかな。
こういう、ぶつかったりしてこさえた痛みって、ずるいよな。生まれた瞬間から、完全体の全力全開で身体中を駆け巡る。生き物はがきんちょから始めなきゃいけないし、建物だって土台から組み立てなきゃいけないもの。それはすべて段階を経る必要のあるものだ。
そう考えると、痛みっていうのはなんて気味悪い存在だろう。多くの人に嫌われ、それでいながら無神経でいると危ないゆえに、人には痛みを感じる機能が備わっている。
痛みなき生活を求めると、どうなるか? そのことについて、僕が昔に体験したことがあるんだけど、聞いてみないかい?
以前の僕は、いまに輪をかけて痛がりだった。
こけたり、ぶつかったりするのはもちろん、すべり台で遊ぶ時に、ちょっと左右の手すりで手のひらをすった時にも、涙ぐみかけたくらいだ。
痛覚過敏なのかアロディニアなのか、それとも何でもないのかは、いまでも分からない。僕の育った家では全部ひっくるめて、「痛がり」のカテゴリーに入っていた。言い換えれば弱虫の根性なしというわけ。
痛がったり、泣いたりする姿を見せればバカにされる。だからなんとしても、人前では平然としていなくっちゃダメだ。特に男は。
父親からそう強く言いつけられ、僕は人前で虚勢を張り続けた。そのぶん、人のいないところでは、痛みにもだえ苦しんでいたけれどね。
それでも学年が上がれば、図体も大きくなる。必然、体重も増えていくもんだから、これまで耐えてきた「接触」が、重く響くこともままあった。
走り高跳びの練習みたいに、ちょっと高いところからマットへ落ちるときなんか、苦痛だ。ベリーロールで飛んだ時、ちょっと身体が回り過ぎてね。背中からマットへ激突した。
内臓が一斉に跳びあがって骨にぶつかり、身体のあちらこちらで、とがった釘がブスブス刺さりながら、穴を開けんとしているように感じたくらいだ。
耐えられず、ほんの二秒ほどマットの上で転がるふりをしながら、身体をおさえて呻く。どうにかふらつきも抑えたつもりだけど、棒のお世話を交代するときに、友達のひとりに「大丈夫?」って声をかけられたよ。
その友達は僕とは逆に、とても痛みに強い子だった。サッカーで弾丸シュートが顔面に直撃しても、体育祭の組み立て体操の練習をしていて、裸足でグラウンドに潜む鉄釘がもろに刺さった時も、平然としていたのを覚えている。
もしかして、痛がらずに済むコツがあるんじゃないか。それなら、ぜひ教えて欲しい。
痛みやすい身体に辟易していた僕は、それとなく彼へ尋ねてみたところ、あるコツを教えてくれた。
「ファニーボーン、知ってる?」
彼は自分の腕を伸ばしながら、僕へ尋ねてきた。
ひじの周りにある、神経が浅めの部分を通る箇所のこと。ここをぶつけると、指先から腕にかけて、じーんとしたしびれが走る。僕自身、これまで何度かぶつけておおいに苦しんだところでもあった。
彼が僕に腕を伸ばすよう促し、件のファニーボーンを触ってくる。中指、人差し指と並ぶ二本に押さえられ、ぐりぐりとこすられた。そのたび、電灯のスイッチを入れたり消したりしているように、僕の中で電流が走っては途絶えを繰り返す。
思わずぶるっと震えかける腕を、彼はもう片方の手でがっしり押さえて動かさなかった。
「この場所、この感じを忘れないこと。次に痛かったとき、ファニーボーンを刺激するんだ。何度も何度も。最初は手を使っていいから、痛みを感じたらやってごらん」
それから数日後。掃除の時間を迎えた時。
机を一斉に運び、その中を縫って戻ろうとして、つい腰のあたりを机の角へぶつけてしまったんだ。
思わず患部をさすりかけて、彼から言われた言葉を思い出す。
半信半疑とはいえ、僕はあれからファニーボーンの位置を確かめ続け、いまや脈を探すより早く押さえることができるようになっていた。腰に留まり、うずき出す痛みをこらえながら、僕はファニーボーンをぐりぐりといじり出す。
初めこそ、別の場所で痛みが新たに増えただけ。それがあの時の彼のように速く、何度もこすっているうちに、ファニーボーンにくわえて、腰の痛みが引いていくんだ。
刺激に慣れて、感覚がマヒしているとは思えなかった。だって何も感じなくなるわけじゃなく、じょじょに気持ちよさがこみ上げてくるんだから。
ふわふわの布団に寝転がって、ちょうど疲れた部分をマッサージしてもらっているかのよう。「きく〜っ!」と漏らしながら、つい目を閉じて大きく伸びをしたくなる。その一歩手前にまでこぎつけた。
そのまま眠ってしまいたいくらいだったけど、いまは掃除中。クラスメートに呼び止められて、はっとしながら掃除へ復帰。気持ちよさは消えちゃったけど、同じく痛みも吹き飛んでいたんだ。
僕が件の、ファニーボーンを使った鎮痛法にはまるのに時間はかからなかった。
少し強めの体操をしただけで、身体の節々に痛みが走るレベルの僕には、まさに渡りに舟。何度もやっていくうちに、こすり出しから痛みを忘れるまでの間隔もどんどん短くなっていったよ。
教えてくれた彼についても、今まで以上に、気に掛けるようになる。観察すればするほど、彼は僕よりはるかに鎮痛法に頼っていることが分かったよ。
彼の場合は本当にひとこすりだ。体育で、他の生徒とのフィジカルコンタクトがあると、さっとひじに手をやって、すぐに離す。事情を知らない奴が見ても、なんの違和感も覚えないだろうさりげなさだ。
一瞬だけだが、彼の破顔ぶりも拝める。喜びに打ちふるえる、という言葉のとおりに、目を閉じて、とろけそうなくらい頬をゆるめてしまっているその表情は、赤ん坊もかくや。そのまま自分の体を抱きしめながら、ぶるぶる震え出したとしても全然おかしくなかった。本当に、気にしていなければ拝めない、一瞬だったけどね。
この気持ちよさは、どこかしらに痛みがなくては生まれない。平時にいじっても、気味悪いしびれが腕を走るばかりだ。
僕はふとした拍子に、わざと身体をどこかへぶつけて、すぐファニーボーンをこするようになっていたんだ。
新しいおもちゃを手にしたばかりの時に似ている。時間を見つけては、ひたすらにのめり込み、バカのひとつ覚えを繰り返してしまう。そんな状況に。
しかも痛みが増すほどに、この気持ちよさも増している感じがする。つい先ほどは階段の六段上から飛び降りた。
着地をしそこねて、足をひねったような痛みもあったが、関係ない。こうファニーボーンをこすっている間は、気持ちいいことこの上ないんだから。
これを止めなきゃいけない、食事の時間がもどかしい。本来の痛みに耐えなきゃいけないんだから。ほとんど食べ残して部屋へ戻った僕は、ひたすらにひじへ指をこすりつける。風呂の中でも、布団の中でも。
一日経っても、痛みが引ききらないことに感謝した。
新しくケガをする必要はない。またこすれば、気持ちよさへ変じてくれるんだから。
――どうしたら、死なない程度に気持ちよさを味わえるか。
学校にいる間、そんなことばかり考えるようになっていた。
痛みが増しすぎて、ファニーボーンに触ることさえできなくなっちゃあ意味がない。むしろ耐えられる自信がなかった。
今もまだ、昨日のねんざが尾を引きずっている。気持ちよさは感じるものの、本質はそのままだ。無理のある力のかかり方をしたのか、何度かがくんと足をひねり、危うく転びかけている。
しばらく我慢するか、もう少し増やしてギリギリを攻めるか……。
そんなことを考えながら、教室にひとり遅く残って、ファニーボーンをこすっていたときだった。
ぼうっと見ていた窓の外を、上から下に何かが横切った。
雑巾、黒板けし、植物のプランター。ぱっと思いつくベランダに置かれているだろうものより、ずっと大きい。
見間違いじゃなければ、人だったような気がする。
とたん、ファニーボーンの効きが悪くなった。これまでのようにこすっても、指先への痺れを感じるだけ。ひねった右足首の中から、ズキズキと痛みがうずき出す。
なかば周りの机へ寄りかかるようにしながら、僕は窓際へ。窓を開けて、影が落ちただろう下をのぞき見た。
両足で踏ん張ったまま、じっと動かない人がいる。
その足元には、赤っぽいものが飛び散っていて、池とまではいかなくても、それなりの量が跳ねているのは、間違いなかった。その赤は、かの人の踏ん張った両膝こぞうにも浮かんでいる。
見間違いじゃなければ、その膝の垢の中心に、白く突き出しているものがあったんだ。明らかに皮膚を破り、こうして見下ろしている間も、周囲にじわじわ血をにじませている。
人影が動く。右手をそっと左腕のひじへ。そこに指を当ててこすり出したんだ。
間違いない。あの所作は、友達のものに違いなかった。よく見れば服装も、今日彼が着ていたものじゃないか。
何度も何度もこするのを見ているうちに、今度は僕のファニーボーンまで、ビンビンとしびれ出す。指を触れていないのに、勝手にだ。
ブランコを思わせる動きで、前後に振れ出す僕の腕。その指先が窓の外へ飛び出すや。僕の両肘から飛び出していったものがある。
黄土色に濁った細長い身体は、蛇かホースを思わせた。手すりを乗り越えるまで真っすぐ飛んだそれは、上から叩かれたように急降下したんだ。真下に彼がいる、その地点でね。
改めてのぞきこんだ時、彼はすでに立ち上がっていた。姿勢が正されたことで、彼の両膝の突起は、ますますはっきり見える。
さっきよりも量を増した血だまりを残し、彼は歩き出した。その口からは苦痛が漏れるどころか、嬉しくて嬉しくてたまらないとばかりに、弾んだ笑い声がここまで聞こえてきたんだ。
彼はそれから数ヶ月、教室へ姿を現さなかった。僕もまたファニーボーンをいじって、気持ちよくなることはなくなってしまったのさ。