7話目 吐血
「だいぶ採血の数値が良くなってきましたね。黄疸も引いてきましたし」
「本当ですか! 確かに肌の色もほとんど元通りね。良かった〜」
昼休憩を終えた陽菜は阪井の病室を訪れていた。今朝の採血ではアンモニア値がほぼ正常範囲になっており、肝機能関連の数値も数ヶ月前と並ぶくらいになっていた。
面会に訪れていたハルエからも安堵の表情が見られる。
「一週間おとなしくしてたんだ。そろそろ帰れるだろ?」
「退院については主治医の玉緒先生に相談しましょう。家での管の管理は大丈夫そうですか?」
「抜けないように気をつけて、毎日量と色を見ればいいんだろ。天使のねーちゃんにびっちり指導されたよ」
阪井は言いながら苦笑していた。
天使のねーちゃんこと看護師のルルは、普段は誰にでも優しく人当たりも良いため“白衣の天使”そのものと表現する患者が多い。しかし患者指導などに熱が入ると尻込む患者もいる、と玉緒が言っていた。
阪井の様子を見るに、彼はルルに口酸っぱく在宅指導を受けたのだろう。彼にここまでの表情をさせるルルの指導とはどんなものか、陽菜も興味が湧く。
「それなら大丈夫そうですね」
「食事にも気をつけるようにします。蛋白質控えめにね。またアンモニア値が高くなっても困りますから」
「はい。便秘もアンモニアが腸にたまる原因になるので気をつけてください」
「もう分かったよ。俺トイレ行ってくるから」
何度もルルから聞かされたことを思い出したのか、ややうんざりとした表情を浮かべた阪井は点滴台を持ちながら室内のトイレに入っていった。
ドアが閉まるのを見たハルエは、陽菜の方へと顔を向ける。
「研修の先生、一週間も主人のワガママに付き合って大変でしたでしょう」
「いえ。溜め込むよりは何でも人に言える方がいいと思っていますから」
陽菜は思ったことをそのまま口にする。初めは阪井の態度や治療拒否に苦労したが、彼の思いを知ってからは向き合おうと思えた。全てが経験と言ってくれた玉緒にはもちろんだが、阪井にも感謝はしているつもりだ。
「ふふ、さすがね。妖病院に来るだけの器があるわ」
「そんな」
「本当ですよ。長年この病院にお世話になっているけど、人間の若い先生がいるのは珍しいわ。妖ばかりの病院ってことでみんな避けちゃうのでしょうね。普通の病院と変わらないのに」
ねぇ、なんて言いながら微笑むハルエの言葉に、改めて陽菜はこの病院のスタッフのことを思い浮かべる。
妖病院と言われてはいるけど、この汐浜総合病院のスタッフの半分は人間だよね。特に事務さんと看護師には人間が多い気がする。
でも医師は確かに妖が多い。それで大学の同級生や先輩がこの病院の就職を避けるっていうのはよく聞いたっけ。患者としてこの病院に来たがらない人もいるし。
ハルエさんの言う通り、提供する医療は何も変わらないのに。スタッフが人間じゃないという理由だけでここを避けるなんて、ホント、もったいないな。
「そのように言ってくださるととても嬉しいです。私もここは普通の医療を提供する普通の病院だと思っています。患者さんが問題なく療養できるよう、引き続き努力していきますね」
「はい。よろしくお願いします」
ハルエとそんな話をしていると、阪井のいるトイレからガタッと音がした。ドアに点滴台でもぶつけたのだろうか。
「ちょっと見てきますね」
衝撃で点滴やPTBDが抜けている可能性もあるため、念のため陽菜はトイレへと向かう。
「阪井さん開けますよ。阪井さ……阪井さんっ!」
ドアをノックしてから開けると、そこには口から血を吐き床に四つん這いになっている阪井がいた。床は赤く染まっており、パジャマにも血が付いていた。
脳内で警鐘が鳴り響く。陽菜はとっさにトイレの横にあるディスポーザブル手袋をはめ、腰を落とした。
「先生? どうかしましたか?」
「奥さん、部屋のドアを開けて外で待っててください!」
陽菜は倒れそうになる阪井の体を支えつつ、顔を見る。まだ顔色は悪くないが呼吸が上がり苦しそうだ。
そうこうしている間にハルエが近付き、彼の姿を見て小さな悲鳴をあげる。なんとか病室の扉を開くと彼女はナースステーションに向かって叫んだ。
「看護師さん! 主人が、主人がっ!」
「誰か! 救急カート持ってきて! あと玉緒先生呼んでください!」
ハルエの声に続くように陽菜も大声を上げる。これは自分一人でどうにか出来るものではない。一刻も早く複数人で処置をしなければ、彼は助からない。
ナースステーションが近いこともあってか、すぐにスタッフが集まった。その中には何故か白衣の悪魔が混ざっている。
「おー派手に吐血してんな。人間、ひとまずベッドに移すぞ」
「はい」
「宮城先生、カート持ってきたよ。私も手伝うよ」
救急カートを持ってきたルルも加わり、複数人で阪井をベッドへと移す。肩で呼吸する阪井はうっすらと目を開けているが、その瞳にはいつものような覇気がない。
どうしよう、このままじゃ。陽菜が思っている間に、魔玖亞が素早く指示を飛ばした。
「ルルは吸引とバイタルチェックしとけ。そこの男のナース、20G入れて採血しながらリンゲル全開投与だ。人間、この患者は」
「えっと、阪井進さん、アル肝からの肝癌で、今は閉塞性黄疸と肝性脳症で入院してる玉緒先生の患者さんです」
焦る脳をなんとか動かし、陽菜は救急カートから薬剤を漁る魔玖亞に阪井の病状を説明する。
「じゃ概ね食道静脈瘤ってとこだな。人間、家族から内視鏡の同意取ってこい。あと師長、玉緒に内視鏡室に向かえと連絡して、人間のICに同席しろ」
「はっはい」
魔玖亞は牙を光らせてニッと笑うと、用意した薬剤を順に阪井の静脈へと流しながら再度指示を出した。
今は自分のやれることをやるしかない。そう心に言い聞かせて、陽菜は廊下にいるハルエの元に向かった。
「先生、主人は」
「おそらく食道にできた静脈瘤が破裂したのだと思いますが、詳しく調べるためにこれから緊急で内視鏡をします。出血が静脈瘤の破裂の場合は瘤をリングで縛って止血を、胃潰瘍などであればクリップで止血をします。万が一穿孔……つまり穴が開いている場合は、緊急手術になることもあります。いずれもこのままだと阪井さんは明日までもちませんが、内視鏡も同意がないと出来ません。奥さん、書類は後でいいので一先ずご同意いただけますか」
だんだん青ざめていくハルエに心配になりながらも、陽菜はなんとか最後まで説明する。壁にもたれるハルエは震える手を握り、絞り出すように言った。
「とにかく何でもいいのでお願いします!」
「分かりました。最善を尽くします。ではデイルームでお待ちください。師長さんお願いします」
「阪井さん、こちらへ」
そうしてハルエは消化器病棟の師長に案内されて廊下の向こうへと去っていった。彼女のケアは師長に任せていいだろう、とその背中を確認し、陽菜は病室へと戻る。
「血圧76の43、吸引約200ミリ鮮血様、吐血は落ち着いてきてるけど顔色は悪いね」
室内では魔玖亞と看護師三人がそれぞれのケアを続けていた。複数の点滴を一気に流されている阪井の顔は、ベッドに移した時よりも明らかに血の気がない。
一気に体内の血液が少なくなることで起きる失血性ショック。そうなったら彼は。最悪の結末が陽菜の頭に浮かぶ。
「ショックになりつつあるな。人間、同意は取れたな」
「はい、口頭でいただきました」
「合格だ。じゃバイタルチェックをお前が替われ。このまま内視鏡室に行くから、患者から手離すなよ」
「え? 目じゃなくて?」
魔玖亞に言われてルルと選手交代する。そこまでは分かるが、この状況で手を離すなとはどういうことか。そんなことを言っている場合ではないと思うのだが。
「他は離れてろ。行くぞ」
陽菜はとりあえず阪井の手首に手を添える。脈の触知がかなり弱いと思っていると、急に目の前が暗くなり足元から落ちる感覚がした。
「ヒェッ!」
「おお魔玖亞。連れてきてもらって悪いのぅ」
訳も分からぬまま変な声だけあげた次の瞬間。マスクに手袋姿で栗色の耳をピコピコと動かす玉緒が目の前に現れた。周りの景色も先日PTBDを挿入した時に見たものだ。
「当然準備は出来てんだろうな」
「内視鏡番をしていたからの。完璧じゃ」
「あ、あの何が起きて……」
こんなことを言うべき場面ではないと分かっていても、陽菜の口からはついその言葉が出てしまう。
「宮城君も知っておろう、この悪魔の影移動を。それで阪井殿を内視鏡室に直で連れてきてもらったのじゃ。宮城君ごとな」
「ついでに言うと、俺様はこの百目鬼で生体モニターやら院内の監視カメラやらを全部見てるから、何かあればすぐ分かるってワケだ。どうよ人間、俺様便利だろ」
手早く阪井に鎮静をかけながら二人は得意げに言った。命の危険と向き合う場面でも冷静に、それどころかいつも通りに接する二人を前に、陽菜は呆然とした。
これも経験の差なのだろうか。
「それであの時急に現れたんですね……。魔玖亞先生がいなかったら阪井さんの処置は出来ませんでした。ありが」
「それはこいつが助かってから聞いてやる」
肩を叩いて阪井の意識状態を確認しつつ、魔玖亞は新たな点滴を繋げる。その目は少しずつ真剣なものに変わっていく。
内視鏡用のスコープを持つ玉緒からも緊張感が出始めた。
ああ、やっぱりこんな時は二人も頼もしい医師の顔になるんだな。
大先輩の姿を目にする陽菜は、よしと小さく呟いて気合いを入れる。
「鎮静かかったの。ではこれからEVLを前提にカメラを入れる。ナースがおらんから、宮城君は引き続きバイタルチェックを頼むぞ」
「はい!」
マウスピースで固定された阪井の口に、内視鏡用のスコープが挿入されていく。モニターに映し出される真っ赤な血液を見ながら、陽菜は阪井の生命力を信じて介助に尽くすのだった。