6話目 患者の思い
「阪井さん。管を入れたところは痛みますか」
「今んとこ大丈夫」
阪井が緊急入院してから二日目の朝。玉緒と陽菜は阪井の病室を訪れていた。
入院日に拒否はあったものの、なんとか同意を得て夕方遅くに外瘻チューブPTBDを挿入することが出来た。しかし挿入が出来ればそれで医師の役目が終わったわけではない。胆汁がきちんと排液されているのを自ら確認することも大切な仕事なのだ。
「そうですか。これで胆汁の流れが出来たので黄疸も少しずつ良くなると思います。抜けると大変なので、ベッドから離れる時は忘れずに持っていってください」
「ああ。また入れられたくねーからな」
阪井は頭側を上げてベッドに座るようにしてテレビを見ていた。昨日と変わらず無表情であり、こちらをあまり見ようともしない。
陽菜も特別話すこともないので、失礼しますとだけ言って点滴やPTBDチューブを確認する。
「なぁ先生。管入ったんだから、明日には店戻れるだろう」
その時、阪井がテレビを見たまま単調な声で言った。陽菜はもう一度阪井の横顔を見て眉を下げる。
「すみませんが、それは難しいです。昨日の説明の通り、肝性脳症の治療をしないと状態は悪くなる一方なので」
「じゃぁいつなら戻れるんだよ」
「それは現時点では……」
声を荒げたわけではないが、彼からの圧力を感じる。威圧感を与えれば退院出来るということはないが、陽菜はそれ以上返すことが出来なかった。
それを見た玉緒は、腰に手を当てて一歩前へと出る。
「阪井殿の肝臓次第じゃな。点滴して、排便コントロールをして、蛋白質制限をして、順調にアンモニア値が下がれば退院出来るぞ」
玉緒はニッと犬歯を見せながらいつもの調子で話す。ゆっくりと玉緒の方を向いた阪井の顔は、どこか焦っているようにも見えた。
「それなら点滴を一気に入れてくれよ」
「薬はたくさん入れていいものではない。1日量を超えると逆に体に悪い。阪井殿、店が心配なのは分かるが、自分の体が元気でこその仕事じゃろう。焦ってもいい結果は生まれんぞ」
「……俺には時間がねぇんだよ」
固く拳を握り目をそらす阪井からは、明らかな焦燥感が伺える。
「店の借金、まだ少し残ってんだ。あと一年で返せそうなんだよ。でも俺は長くないんだろ? だったら一日でも長く働かなきゃいけねぇ。病院にいる時間も、入院費ももったいねぇんだ。俺の親父が残した借金をかーちゃんに背負わせるわけにはいかねぇんだよ」
時々拳を震わせ、小声ながらも力強く阪井は言った。
昨日ハルエには病状説明をしたが、彼女の希望通りまだ阪井本人には今後のことは伝えていなかった。しかし今の自分の状態から、阪井も予後について悟っているのかもしれない。
「ご子息は知っておるのか。店やら借金のこと」
「自分で仕事してるあいつには何も言わねぇ。店だって、俺が限界になったら閉めるつもりだったんだ。俺の中では、あと十年は働くつもりだったんだけどな」
遠い目をする阪井からは長い溜息が吐かれる。自分の思いとは正反対に進む病気に、目標を諦めるしかないとどこかで思っているのだろうか。
店だけでなく、生きることすら諦めようとしている。そう感じた陽菜は、ぎゅっと唇を噛み締めると真っ直ぐに阪井の顔を見た。
「それなら尚のこと、治療に専念した方がいいと思います。お店とかもですが、私は阪井さんの“今”の命を諦めてほしくありません」
研修医の立場で言えることではない気がした。けれど阪井の思いを聞いて、どうしても何か言いたかったのだ。
陽菜の姿を見た玉緒も、再び犬歯をニッと見せて笑い、陽菜に続く。
「そうじゃな。中途半端な治療で退院してもその場しのぎにしかならん。太鼓判を押せる程の数値にすることを、しばらくの目標にするのも良いと思うぞ。
そして退院したら、酒以外の方法で客との楽しみ方を見つけるんじゃな」
「……酒は止めるつもりねぇよ」
二人の言葉をしばらく俯きながら聞いていた阪井だったが、最後にそれだけ言い背を向けて布団に入ってしまった。
「阪井さん……」
「説明の上でそう選択するならそれも良い。最後は本人が決めることじゃ。じゃが、すぐの退院は許可せんからの」
「チッ、分かったよ」
はっきりと玉緒に言われ、阪井はバツが悪そうに舌打ちをしてシッシと手を振る。二人も彼の病室を退出し、他の患者を診るべくゆっくりと廊下を歩き出した。
「阪井さん、大丈夫でしょうか」
「それは体調のことか? それとも精神的に、かの?」
「いろいろと……」
語尾が小さくなる陽菜の頭に、頑固と言っていたハルエの言葉がよぎる。
アルコールが原因で病にかかったのに、頑なに飲酒を止めようとはしない阪井。アルコールには依存性があるため、止められない場合があることは陽菜も理解している。酒を提供する仕事でもあり、我慢がきかないと言われればそれまでだ。
しかし、阪井の今までの話を聞く限り、ただの頑固で片付けていいものでもないように思う。
「あれでも本人なりに努力はしてきたんじゃ。ワシのところに来た頃は浴びるほどの酒飲みじゃったからの。それでも病気が進んでいることが納得出来ないのじゃろう。肝癌にまでなってしもうたからの」
陽菜に聞かせるように玉緒は話した。最初から彼の診察をしている玉緒にも、今の阪井に思うところはあるのだ。
「宮城君こそ大丈夫か? 初めての担当にしてはちと重すぎたかのう」
「いえ。順調すぎても怖いですし、全てが経験だと思っていますから」
「そうか、頼もしいの」
顔を覗き込む玉緒に陽菜は慌てて笑顔を作る。
指導医としてしっかり面倒を見てくれる玉緒に心配かけすぎるのも良くない。乗り越えるべき山は、自分で越えなければ。
陽菜が決意を固めていると、後ろからパタパタと足音が聞こえてきた。
「玉緒せんせー! いいところに!」
「ルル君、どうした?」
「四〇三号の佐藤さんにイレウス管自己抜去されちゃいました、ごめんなさーい!」
玉緒の正面に着くなり、薄桃色のカーディガンがトレードマークの看護師ルルが何度も頭を下げる。よく見るとその手には、抜去されたらしいイレウス管と機械一式が握られていた。
「あちゃーやられたか。佐藤さんには前回もやられたからのぅ。
宮城君。ワシは佐藤さんのところに行くから、一先ず腹部レントゲンをオーダーしといてくれるか。腸が落ち着いていればあとは絶食と補液で様子見にしよう」
「はい」
そう言って玉緒は一八〇度方向転換して、機械を持ったままのルルと共に病室へと向かう。
相変わらず切り替えが早いなと思いながらも、陽菜も任された仕事をするべくナースステーションへと戻っていった。