3話目 溜息
「アンモニア値142……か。やっぱり高い。しばらく治療しないと悪化しちゃうな。でも阪井さんは三日で帰るなんて言ってたし……最初からこんなんで大丈夫なのかなぁ」
パソコンに映る赤い数字を見ながら陽菜は大きな溜息を吐く。
汐浜総合病院での血清アンモニアの基準値は七五未満だが、阪井の値は三桁と遥かに基準値を上回っていた。これ以上悪くなると昏睡になる可能性もあるため、きちんとした治療が必要だ。
しかし当の本人があの状態では、聞き入れてくれるかも怪しい。陽菜はナースステーションの隅で頭を抱えた。
「はは、随分悩んでるみたいだな宮城」
その時、後ろから笑い声が聞こえる。振り向くと銀色の毛を身に纏った巨体が立っていた。
「わんこ! ちょうど良かった! モフモフさせて!」
「俺はわんこじゃなくてルドルフ……おいなんだその手は」
目を輝かせてジリジリと近付く陽菜に、筋肉質の狼男ルドルフは臨戦態勢をとる。彼女のワキワキと動く手がなんとも厭らしい。
「今はモフモフしたい気分なの。お願い、ちょっとだけでいいから」
「来るな」
「腕でも頭でも、一ヶ所だけ! ね⁉︎」
「来るな!」
ルドルフはそう言うと、今にも飛び込んできそうな陽菜の頭をがしりと掴んだ。かなりの体格差があるため、頭を掴まれた陽菜はそれ以上近付くことが出来なくなる。それでもなんとか腕だけでも触ろうと手を伸ばすが、威嚇をされてしまい彼女は頬を膨らますしかなかった。
「むぅぅ」
「お、この患者随分アンモニア高いな。肝硬変かなんかか」
「あーケチなわんこだなぁ……。
私が担当することになった患者さん。肝癌の胆管内浸潤で閉塞性黄疸になって入院してるんだけど、PTBDに同意してくれなくて困ってるの。その上この数値。追加の治療もしてくれるかどうかってところ」
「ほー、早速治療拒否患者の担当か。お前も大変だな」
パソコンを覗き込みながらルドルフはやや楽しそうに言う。研修が始まって以来何かと「モフモフさせろ」とうるさいくらい迫ってきていた彼女が、少し大人しくなっていて可笑しく思えたのだ。
「わんこは今循環・呼吸器の研修でしょ。この前言ってた最初の担当はどうだったの」
同じように研修をスタートしたのに余裕が感じられるルドルフを、陽菜は恨めしそうに見る。
「俺は心臓カテーテル検査の患者を担当させてもらったよ。予定入院だったし若いあんちゃんだったからそんな手こずらなかったな」
「はぁぁいいなぁ。私はもう前途多難って感じだよ」
陽菜は再度大きな溜息を吐く。自分との状況の格差に、始めはそれなりにあった自信が消えていくように思えた。
「なんだよ。玉緒先生が最初で幸せとか言ってたじゃねーか。俺なんて指導医があの悪魔……」
「指導医がなんだって?」
「ひゃ!」
「出た……」
消極的な彼女にルドルフが愚痴をこぼそうとしたまさにその時、横から突然オールバックの男が現れた。彼は綺麗に尖った牙を光らせ、怪しい笑みを浮かべてルドルフの肩に腕をかける。
「おー人間の研修医。患者に拒否されたくらいで折れてたら医者なんてやってらんねーぞ。俺様みたいに患者に崇拝されるくらいにならないとなぁ、ヒャハッ」
「それは先生が怖いだけでは」
「狼くーん、お前とは今夜いい酒が飲めそうだなぁ。じゃ人間、こいつ借りてくから」
「あ、魔玖亞先生っ」
陽菜の呼びかけも聞かず、白衣の男と狼は揃って一瞬にして姿を消した。
消える直前のルドルフの顔は非常に気怠げであり、それだけで彼の苦労が伝わってくる。
「消えちゃった……。急に出て来たり消えたり、影移動ってホント凄いというか怖いというか……」
魔玖亞は見た目こそ人間のようだが、悪魔というれっきとした妖だ。影がある所なら何処でも移動できるという特殊能力で、陽菜はこれまでも何度か彼に驚かされている。神出鬼没の彼の元で研修するルドルフは相当苦労しているのだろう。
とはいえ、彼の言うことは尤もだ。一度の拒否で落ち込んでいたら大勢の患者を診ることなど出来ない。
「とっつきにくいとか思っちゃダメだ。医者が諦めたら誰が患者を治すの。
まずは阪井さんが治療を拒否する理由をちゃんと聞かないと。よしっ!」
パチンと両頬を叩いて気合いを入れると、陽菜は高速で指を動かす。カルテに次々と文字を並べる彼女の表情は、文字数と比例して明るくなっていった。