2話目 前途多難⁉︎
「そんな治療、俺は受けたくねぇよ」
低く抑揚のない声が、西日の差し込む個室に放たれる。挨拶の時と変わらない声量だが、陽菜にはその言葉だけやたらと大きく聞こえた。
「ですが、この治療をしないと胆管は閉塞されたままで、黄疸が治らないんですよ」
「体が黄色いだけならいいだろ。薬でも使って治してくれよ!」
「それじゃあ根本的な治療にはならないんです」
陽菜は治療の必要性をなんとか説明しようとするが、既に投げやりになっている目の前の白髪混じりの男性には届かない。
「とにかく俺は管なんて入れねぇ。そんなもんぶら下げて生活できるか! 今までも散々治療したけどまた入院。もう懲り懲りなんだよ……」
そう言って黄疸の目立つ両手を震わす男は、自分の手を見るなり悔しそうに顔を歪めた。目元もややピクついている。
「狐の先生、俺は今回三日で帰るからな」
「阪井さん!」
「宮城君、もうよい。
阪井殿、ひとまず考えてみとくれ。また夕方来るからの」
こちらに背を向けてしまった男に、今まで様子を見ていた玉緒は顔色を変えることなくそれだけ言う。そしてまだ何か言いたげな陽菜の肩を叩くと、部屋を出て行った。
「玉緒先生、いいんですかこれで」
ナースステーションまで戻ってきた陽菜は早速玉緒に食らいつく。
四〇五号室に緊急入院して来た阪井進。先程行った腹部エコー、造影CTにて、肝腫瘍が胆管を圧迫していることが分かった。食道静脈瘤が多発しており内瘻化チューブは危険と判断した玉緒は、皮膚の上から胆管に管を入れるPTBDと呼ばれる治療を行う方針を陽菜に伝えた。
そして陽菜は、その治療を阪井に説明する役割を担ったのだが。
説得もままならずに部屋から出されたことが納得出来ず、陽菜は玉緒に気持ちをぶつけていた。
そんな陽菜の姿を見て、玉緒は苦笑しながらもハッキリと返す。
「検査や治療には患者の同意が必要じゃ。特に侵襲の高いものはな。彼には治療しなかった時の経過も説明したが、それでも拒否しておる。その後ワシらに出来ることは見守ることのみじゃよ」
「そんな……」
言われた側の陽菜はがっくりと肩を落とした。早速手詰まりになったことが衝撃的だった。
手術や化学療法を拒否する患者はいるけど、今出ている症状への治療を拒否されるなんて想像もしなかった。しかも初めての担当患者なのに。確かにPTBDは胆汁を体外に出すためのバッグがあるから煩わしさはあると思うけどさ……。
同意なしの治療はできない。分かっているけど、悪くなる一方の人を見ていることしかできないなんて……。
私って、人を助けたくて医者になったのにな。
そんな想いがグルグルと頭の中を駆け巡る。
「そんなに気を落とさんでも良い。阪井殿も緊入になって気が立っているだけじゃよ」
玉緒はそう言いながら、パソコンの前に座るなり項垂れる陽菜の頭にポンと手を置いた。通りすがる看護師達も凹んでいる彼女を見て微笑む。
「それより宮城君。彼のことでもう一つ気になることがあるからアンモニア採血をしといてくれんかの」
「えっ、それって」
「頼むぞ。ワシは他の患者を見てくるから」
頭を上げた陽菜の驚く顔を確認した玉緒は、にぱっと笑い手を振って病室の並ぶ廊下へと姿を消してしまった。
「こんな時こそ一緒にいてほしいのにぃ……」
陽菜は置いてけぼりにされた気分のまま、言い残された仕事のためにゆるゆるとパソコンを操作し始める。
アンモニア採血って、先生高アンモニア血症を疑っているのかなぁ。あ、そういえば阪井さんさっき目がピクついてたかも。怒っているからだと思ったけど、肝性脳症の症状だったのかな。
肝性脳症となるとアミノレバンの点滴も考えないとかな。でも点滴させてくれるかなぁ、三日で帰るって言ってたし。三日はさすがに無理だと思うんだけど……。
周りの看護師の目も気にせず、陽菜はうーんと唸り声をあげる。考える度に負のスパイラルに陥っていく気がしてどうしようもない。教科書の中身だけなら悩むことなんてなかった。対人となる臨床研修がここまで難しいとは。
「うーん難しい! 今悩んでも仕方ないや! ひとまず採血だ!」
自分に喝を入れる為にエンターキーを勢いよく押して採血のオーダーを送信すると、陽菜は真っ直ぐ立ち上がる。そして胸ポケットに入れたPHSを操作し、電話をかけ始めた。
「あの、研修医の宮城ですが。アンモニア採血をするので十分後に四〇五号室にお願いできますか? はい、はい。お願いします!」