1話目 初担当
「よし、これで指示は全部入れたかな。パス以外はイチから指示入れだから大変だなぁ」
赤茶色の癖っ毛を揺らし、宮城陽菜は軽く腕を伸ばす。先程からパソコンとにらめっこをして定型文の選択と登録を行なっていたため、肩が少し固くなったように思ったのだ。
そんなだらけた姿を晒していると、後ろから誰かに肩を叩かれる。
「宮城センセー、指示入れありがと〜! 看護師は基本的に医師の指示のもとで動くからね。点滴とかは特に。だから入れてくれて助かるよ」
振り向くと、薄桃色のカーディガンを着た看護師がトレイを持って立っていた。その中には腕に点滴を入れるために使う留置針や固定用テープが入っている。おそらく、今カルテを開いている患者のもとに行くのだろう。
「ルルさん。よろしくお願いします」
「うん。じゃ行ってくるね〜」
そう言いながら、胡桃色の緩いパーマが特徴的な看護師ルルは足早に去って行った。
彼女のように研修医に気さくに話しかけてくれる看護師は少なく、陽菜はこの病棟の看護師の中で真っ先に彼女のことを覚えたのだった。
「さぁて、玉緒先生に指示を確認してもらおっと」
一通りカルテを眺めて最終確認を済ませると、陽菜はナースステーション奥にある医師室へと向かった。
初期研修の一番目、消化器内科・外科の研修が始まって三週間。この三週間は、腹部症状を訴える患者や消化器癌の診断から治療までを、特に内科的な例を中心に見てきた。
目まぐるしく変わる臨床の現場は忙しいが、机の上で学んだ病態生理が頭の中で次々と結びつくのが面白く、毎日がとても刺激的だ。
消化器科病棟の雰囲気やスタッフの名前、性格も少しずつ分かってきて、少しだが馴染んできたようにも思う。約二ヶ月世話になる診療科であるため、一スタッフとして少しでも認識してもらえるよう業務に励んでいかねば。
そんなことを思いながら医師室の前まで来ると、陽菜は扉を軽くノックする。
「玉緒先生、先程の緊入の人の指示入れました。確認をお願いします」
「おお宮城君、仕事が早いのう。確認するから入っとくれ」
「はい」
扉を開けると、消化器研修の指導医である女医、玉緒が湯のみで茶を飲んでいた。回診後に一息ついていた、といったところだろう。
「さて、宮城君のチョイスはどうかの〜」
湯のみを空にした玉緒は、結わえた栗色の髪と同じ色の狐耳をピコピコと動かしつつマウスを操作し始める。
隣に座る陽菜は、そんな玉緒の姿に胸を躍らせた。
玉緒先生ってホント可愛いなぁ。白衣の中は特別仕様なのか巫女さんみたいなデザインだし、何よりこのフワッフワの耳! 考えている時はピコピコ動いて、疲れている時は垂れていてって感じが可愛いんだよねぇ。
普段は尻尾を隠しているっていうのが残念だな。モフモフしたかったのに……。
「うむ。ほぼ完璧といえる出来栄えじゃ。飲み込みが早くて助かる」
「あ、ありがとうございます!」
玉緒の耳に気を取られている時に声をかけられ、陽菜は思わず背筋を伸ばす。それを気にも留めず緩く笑う玉緒に、内心陽菜はホッとした。
「さて、この三週間でヌシは医師の仕事をたくさん学んだじゃろう。そろそろ初めての担当をつけようと思っておるが、どうかね」
「はい。是非」
初担当とのワードに、陽菜の背筋が再び伸びる。
「では今指示を入れた緊入の阪井殿の担当を頼もう。彼が長年ワシの患者として入退院を繰り返しておることはもう見たかと思うが、担当するからにはもう少しカルテを見ておくとよいぞ。
いいところでまた声をかけとくれ。挨拶にし行くからの」
そう言って玉緒は違う患者のカルテを開き始めた。回診で処置をした患者の記録を書くのも、医師の大切な役目なのだ。
「はい。ではすぐに」
陽菜は医師室を出ると、先程使ってログインしたままにしていたパソコンに座り、表示される文字を読んでいく。
えーっと、阪井進さん、六七歳男性。アルコール性肝硬変から肝癌になった人だったな。
町で居酒屋を経営中。玉緒先生が散々禁酒を勧めても客と飲むのも商売だからとやめられず、今も休肝日なしで焼酎を一日一合飲んでいる。
今までも内視鏡とかアンギオで何回か入院しているんだ。
それで、今日の定期受診の時に肝機能悪化と皮膚・眼球の黄染があって緊急入院。……か。
ふぅと一呼吸おき、陽菜は今日の採血結果を確認する。所々赤字になっているが、その大半が肝臓の機能を表す項目だった。
「前回よりビリルビンが結構上がってるなぁ。それで身体中に黄疸が出てるんだよね。
……おばあちゃんも最後の方は結構黄色かったな……」
陽菜は亡くなる前の祖母の姿を思い出す。
祖母は膵腫瘍増大によって胆管が閉塞し、胆汁の流れが悪くなる閉塞性黄疸だった。
この患者は肝癌だが、同じような病態の可能性はある。しかし、精査してみないと詳しい原因までは分からない。原因を探るための検査は確か。
「まずは腹部エコーだね。その後の治療は内瘻か外瘻のチューブかなぁ。
初めての担当患者だもん、しっかりしないと」
三週間経っての初担当。医学部で六年間やってきた勉強と現場で見てきたものを駆使して、自分なりに頑張ってみよう。そうしたらきっと、今回の経験は自分の中で忘れられないものになるだろう。
よし、と気合いを入れて立ち上がった陽菜はカルテを閉じると、先程よりもやや緊張気味に玉緒の元へと向かった。