第0話
五歳の頃、おばあちゃんが亡くなった。
見つかった時には既に膵臓癌の末期の状態で、すぐに抗癌剤治療を始めたものの、おばあちゃんは診断から僅か三ヶ月でこの世を去った。
けれど、おばあちゃんは闘病中もいつもニコニコしていて、お見舞いに行く度に「ここの先生のおかげで病気ってこと忘れるくらい元気だよ」と言っていた。
眠るように穏やかな表情で亡くなったおばあちゃんと、最後まで見守ってくれたお医者さんの姿は、今でもはっきりと覚えている。
その後すぐ、今度は私の体がおかしくなった。急性白血病だった。
抗癌剤の影響で何度も吐き、髪も抜けて見た目の変わった自分の姿はまるでガイコツのようだった。免疫が弱った影響で外で遊ぶことも叶わず、入院中の私は無気力で可愛げのない子供だったと思う。
そんな私にいつも寄り添ってくれたのは、主治医だった女の先生。
先生の懸命な治療といつでも見守ってくれる眼差しのおかげで完治した私は、自分とおばあちゃんとの経験から、いつか自分も病気の人の為に何かをしたいと思うようになった。
そして今、私はその夢の一歩を踏み出そうとしている。
【あやかし病院の研修医】
ピッピッと鳴る規則正しい電子音と、キーボードに文字を打ち込む音が明るい室内に響く。カーテンで仕切られた向こう側では、女性の話し声も聞こえた。
この光景もいつのまにか見慣れたものになったな。
そんなことを思いながら、宮城陽菜はパソコンに向かう団子結びの白衣の女性の隣に座った。
「先程のてんかん発作の女の子は、小児科の先生が来てくれたので引き継ぎました。今度は男性の患者さんですか」
「うむ。去年大腸癌の診断で手術をして、今はワシの外来で定期フォロー中の患者じゃ。一時間前に腹痛と嘔吐を主訴に救急搬送されてきた」
パソコン画面に映る数値と画像を指しながらその女医は続ける。
「体温38.6、血圧80の54、脈拍112、Sat96%。意識レベル清明。昨夜から腹痛が持続していて、22時、1時には胃残様、5時には茶色の嘔吐あり。採血ではCRP、クレアチニン、BUNの上昇を、レントゲンでは二ボー像が確認できる。さて宮城君ならこの患者にどんな病名をつけるかな?」
タン、とキーボードを叩くと、選択した数値が文字入力画面に一気に羅列された。顎に手を添えながら所々赤字で表示された数値とにらめっこした陽菜は、ゆっくりと口を開く。
「大腸癌術後の腸閉塞、でしょうか。高体温、頻脈、血圧低下、腎機能の悪化から、嘔吐による脱水もあると思います」
「うむ、的確なアセスメントじゃ!」
それを聞いた女医は、栗色の髪から生えた耳をぴこぴこと動かして嬉しそうに笑った。
「我々医師は、病名を導き出すのは大切じゃが、患者の全身状態を診て悪いところを改善させる必要もある。診断を下し、治療を指示するのはワシらしか出来ない。ワシらが判断を誤れば、患者は助からないかもしれぬからの」
「はい、肝に銘じます。ありがとうございます!」
テンポ良くカルテを入力しながら言う狐風の女医の言葉に、陽菜は背筋を伸ばす。声が大きかったのか、通りがかった年配看護師が渋い顔でこちらを見ていた。
「では、今後の治療方針などを患者に説明するからの。後ろで見ておるといい」
「はい!」
そんな看護師の顔色など気にもせず、陽菜は勢いよく立ち上がって女医の後ろにピタリとつく。
先輩の良いところは見て聞いて自分のものにしないと!
心にそう決めて、陽菜はモニター音が聞こえるカーテンの向こうへと姿を消した。
「はー疲れた!研修医ってやること多くて大変!」
部屋に入るなり首にかけていた聴診器をベッドへと放り投げ、その上にダイブするように倒れこむ。癖っ毛の赤茶の髪はますます乱れた。
「それにしても玉緒先生カッコよかったなぁ…。説明は丁寧だし患者さんからの信頼は抜群だし。いろいろ教えてくれるから勉強になるなぁ」
そう言いながら頬に手を当てる陽菜の顔は緩みきっていた。思い出しているのは、先程までいた救急外来で指導をしてくれた狐風の女医、玉緒の姿だ。
「玉緒先生、喋り方はちょっと変わっているけど、優しくて丁寧でホントいい先生。おばあちゃんの主治医だった時から全然変わってないや。研修のスタートが消化器でホント良かった〜」
日中メモを取ったノートをめくると、陽菜は始めのページを眺める。そこには亡くなった祖母と幼い頃の陽菜、そして微笑む玉緒が写る写真が貼ってあった。
懐かしさが胸に溢れてくるのを感じつつ、陽菜はそっとノートをポケットにしまう。
「……それにしても、ココの病院ってホントに不思議」
そう独りごちると、彼女はゆっくりと目を閉じた。
すぐに浮かんでくるのは、さざ波の音に囲まれて佇む白くて大きな建物。そしてそれはすぐに、大勢集まった職員の前でマイクを握る初老の男性の場面に切り替わる。
「諸君、業務の後に集まってもらって感謝する。
さて、君達を呼び出したのは他でもない。今年も新入社員が──」
あの時の自分は、緊張しながらも長い前振りに退屈していた。ほとんど内容は覚えていないが、周りの職員がやけに自分を物珍しそうに見ていたことは鮮明に覚えている。
「そして今年はなんと、我が汐浜総合病院に初期研修の医師が二名も来てくれました! では宮城君から自己紹介をしてもらいましょう」
「へっ、は、はい!」
突然の振りに驚いたものの、簡単に考えてきた自己紹介文をなんとか思い出して勢いよく立ち上がった。
「宮城陽菜といいます。ここの病院の先生方にお世話になってから医師を目指し、初期研修もこの病院がいいと思って来ました。まだ科の希望とかはありませんが、医師としての勉強を精一杯していくつもりです。よろしくお願いします!」
時々噛みそうになりながらもなんとか言い終える。目の前にいる職員がざわついているが、彼らが皆玉ねぎだと脳に擦り込めば気にならなかった。
「では次、ルドルフ君」
「はい」
ホッと一息ついたところで隣にマイクが渡る。立ち上がったのは、綺麗な銀色の毛並みをした大柄な獣だった。
「ルドルフと申します。昔事故に遭った時に懸命に治療してくれた医者がいて、その人に憧れて医者の道を目指しました。この病院で幅広い患者を診て、分け隔てなく治療ができるようになればと思っています。よろしくお願いします」
彼はまるで台本を読むようにスムーズに自己紹介をしてみせた。遠くまで通る低音ボイスと同期がいるという喜びが陽菜の胸に響く。
しかし、その感動を上回るときめきポイントが彼にはあった。
スーツがはちきれんばかりのあの体……いい筋肉だなぁ。モフモフな毛もいい……大型犬? 触りたい……。
筋肉と動物という好物を同時にくすぐる彼に、陽菜は会が進行していることも忘れるほど熱い眼差しを送っていた。
「ルドルフ君は出身は南の方だが、わざわざ研修をここに選んでくれた。見た目の通り彼は狼男、我々と同じ妖だ。
そして宮城君。彼女は人間の研修医だ。妖病院と揶揄される当院に人間の研修医が来るのは極めて珍しい。職員においては、患者と同じように、宮城君にも差別なく接するようにしてくれ」
参加する職員からはパラパラと拍手が送られる。ルドルフは丁寧にお辞儀をするが、陽菜は変わらず銀色の毛並みを眺めていた。
「さて二人とも。これからの二年間、我々も熱を入れて指導するが、有意義な研修になるよう自らも励んでおくれよ」
「はい。よろしくお願いします」
「宮城君も、な!」
「へっ? あっ! あの、どうぞよろしくお願いします‼︎」
気付いた時にはマイクが向けられており、陽菜は何か言わなければと言葉を出す。慌てていた為か声が大きくなり、キーンと耳をつんざく音が場内に響いた。
ルドルフは呆れかえり、職員からは笑いがおこる。マイクを向けていた初老男性には「初日からやるな、宮城君」と肩を叩かれ、陽菜は茹でダコのように顔を真っ赤にしたのだった。
「あーなんか恥ずかしいこと思い出しちゃった! 入社式でやらかすとか! 私のバカバカ!」
現実に戻ってきた陽菜だったが、その頬は同じように赤くなっていた。なんて馬鹿げたことをしたのだろうと、数日経った今でも後悔しかない。
「はぁー。あの時の私を殴りに行きたい。
って、私が思い出したかったのはこんなことじゃなくて!」
枕を抱いて少し落ち着いてきたところで、入社式の中で見た職員のことを思い出す。
「同期のルドルフ先生もだけど、この病院は医師も看護師も薬剤師も、みんな妖ばかり。今指導医をしてくれてる消化器の玉緒先生も九尾狐って妖らしいし。
みんなが妖病院っていうのも納得できるな。町の中でもあまり妖を見ないのに、これだけスタッフに妖がいるって珍しいもんね」
狐に狼などの動物系妖の他、河童や天使など、在籍している妖の種類は様々だった。入社式で偉そうに喋っていたあの男性も、実は病院長で酒呑童子という妖だというのだから驚きだ。
「でも人間のスタッフもいるし、みんな患者に優しいし。何より見た目が人間と変わらない妖が多いから、妖病院に来たって実感が湧かないな。
玉緒先生だって、フワッフワの耳以外はほぼ人間だし」
そこまで言ったところで玉緒の姿を思い出し、陽菜はまたニヤついた。優しく丁寧でよく褒めてくれるその温かな性格と、考え事をする時に動く耳の可愛さがまた、陽菜の心をくすぐってしょうがないのだ。
「大学の教授にはうちに来い! とか言われたけど、ここを選んで良かった。当直して丸一日働き詰めでも、先生の下でなら頑張れそう」
今まさに当直をしてきた身体には激しいだるさが乗っているが、初期研修のスタートで望んだ環境にいられることは何より陽菜の精神的な支えとなっていた。
「ふぁー。明日は玉緒先生の外来を見学するんだから、眠くならないようにたっぷり寝ておかないと……」
風呂に入ることも憚られるくらいの眠気が急に襲う。精神的には良くとも、夜間の当直にはやはりまだ慣れないものなのだ。
手元のブランケットを軽く腹に掛け、陽菜は眠気に体を預けるように目を閉じる。レースカーテンから漏れる昼の日差しは、研修が始まった日よりも暖かい。
明日はどんな学びがあるのだろう。玉緒との研修に胸をときめかせつつ、陽菜は深い眠りについた。