眼鏡を通して見る世界
――1枚のガラスを通して初めて、私の世界は、鮮明に見える。
彼女は自らの眼鏡を外しながら、物思いにふける。
綺麗な瞳は、真っ直ぐ、対面していた人の方を見つめていた。
――何もない状態だと、何も見えない。
目の前にいたはずの男の子を、彼女は見失った。
彼女には見えていなくても、彼は確かに、彼女の前には存在していた。
眼鏡をかけて見えていた彼と、眼鏡を外して見えなくなってしまった彼。
同じ人物のはずなのに、違うようだ。
――まるで世界が、私のことを否定しているように思えて、仕方がなかった。
眼鏡を外して何をしているのかと、憂わしげな表情を浮かべる彼だったが、彼女にはそれが読み取れない。
顔を見合わせる時間が数秒続くと、彼は自らの顔を赤らめながら、口を開いた。
「そんなにじっと見つめられると、照れちゃうんだけど……」
「私と雨森くんの見てる景色は、違うんだろうなって」
「高品さんは、いつも難しいこと考えてるね。だからって僕をじっと見つめるのはやめてほしいな。照れるから……」
――ああ、そうか。私は今、彼を見つめているのか。
彼女には分からない。
誰がどこにいて、何をしていたのか。教室がどんな風景だったのか。彼が笑っていたのか、泣いていたのか。
眼鏡を外した瞬間から、分からなくなった。
真っ白で何も見えない。
「ニセモノなのに、照れるの? 今の私には、雨森くんの顔は見えていないし、見てもいないよ?」
彼女の言う『ニセモノ』の意味を彼は知っている。
「そう言われると、なんだか、眼中にないって感じで嫌だなぁ」
眼鏡を掛けた彼女は、苦笑いの彼の表情を見て、頭を下げた。
「そんな含みはなかったんだけど……ごめんなさい」
「大丈夫! 謝るほどのことじゃないよ! 全然気にしてないし!」
彼は優しかった。
いつも傍で、彼女を支えてくれる。
高品もそんな彼に甘えている面が多々あった。
悩んでいることも彼に話せば、胸がすっとする。
彼も彼女の期待に応えようと、真剣に話を聞いてくれていた。
彼女の目は、義眼だった。
物心つく前には既に失明し、盲目の人として生きてきた。
不便なことは数え切れないほどあったが、自分の置かれている状況を恨んだことはなかった。
目がもう一度見えるようになったのは、2年前のことだ。
眼鏡に付いたカメラで、映像を撮って、義眼がそれを受信し、頭の中に埋め込まれた機械がそれを処理する。
彼女は、機械を介して見る景色をあまり良くは思っていなかった。
手術を受けた後、眼鏡を掛けて、初めて自分の顔を鏡で見た時のことだ。
明らかに顔が整い過ぎている上に、映像も乱れていた。
そこで気が付いてしまった。
――私の顔って、そんなに酷いんだ。
現実を歪めさせたのは、彼女の母の優しさか、それとも機械に搭載されたAIか。
眼鏡を通して見る世界が信じられなくなった瞬間だった。
そんな自分でも、彼は見捨てることなく、傍にいてくれたのだ。
「さっきのニセモノの話だけど。分かってても、僕は照れてしまうよ。たとえ君が僕を見ていなかったとしても、僕は君に見られてると思って、なんだか恥ずかしくなっちゃうんだ。それに、視界に映ってないだけで、見ようとしてないわけじゃないでしょ?」
「それはそうだけれど……ニセモノだ、って気づいたら、その時点で関心は無くなると思うの。私の顔だって……」
それ以上、言葉が続かなかった。
自分の顔が『ニセモノ』に塗り替えられていることは、彼女にしか分からないことだから、彼に話してもしょうがない。
そういう気持ちと同時に、彼にも知られたくないとも思った。
「ごめんなさい……今のは聞かなかったことにして……」
「そう……? じゃあ代わりに僕から一つ聞いていい?」
彼女が頷くと、彼は質問した。
「僕の顔、どう思う?」
「え……っと……」
かっこいいと言えば、嘘のように聞こえてしまうし、かと言って普通と答えてしまったら、彼を傷つけてしまわないだろうか、とも思う。
どう答えるのが正解なのか、判断がつかない。
そんな彼女の困惑している様子を見ながら、彼は楽しそうに微笑む。
「高品さんは、優しいね」
「え……?」
「だって、僕を傷つけないことを真っ先に考えてしまっているでしょう? なんて答えたとしても僕は傷つかないのに。だから、優しい。そういうところも含めて、僕は君がとても綺麗に思うよ」
彼の言葉に彼女は一瞬、思考が停止した。
その後、顔を真っ赤にした彼女は、唐突に席を立ちあがって、学生鞄を持った。
「か、帰るね。また明日」
「うん。気を付けて。また明日ね」
教室を出るときに、もう一度、彼の方を見ると、笑顔で此方に手を振っていた。
もう少しだけ彼と話がしたかったが、これ以上、一緒にいるのは、どうにも恥ずかしかった。
教室を出て廊下を歩いていると、同じクラスの女の子に後ろから声を掛けられた。
「高品さん。一緒に帰ろう?」
「うん」
最近、同じクラスの女子学生から声を掛けられる機会が増えた。
こうやって、放課後に一緒に帰ることも何度もあって、お弁当を一緒に食べることもあった。
その分、彼といる時間も減った気がする。
「この前の模試どうだった? 私、数学が全然ダメだったんだよね……題問4の……」
「複素数の、あの問題ね。私も問3までしか解けなかった」
「高品さんでもそうだったんだ! 私なんか問1でつまずいちゃって、そっから全滅だよぉ」
ため息を吐く彼女の姿を見て、高品はクスリと笑った。
その姿を物珍しそうに彼女は見ていた。
「良かったぁ。高品さん、最近、全然笑わないから、クラスの皆も心配してて」
だから、話しかけてくれるのかと納得した高品は、彼女に微笑んだ。
「ありがとう。私は大丈夫……」
――あれ? 何が『大丈夫』なんだろう?
駅までの道のりを歩いていた足を、高品が急に止めた。
重大な何かを忘れている気がする。こんなにもクラスメイト達を心配させている何かを。
「どうしたの、高品さん?」
「ごめんなさい。ちょっと、教室に忘れモノを」
彼女と歩いてきた道を小走りで、学校へと戻っていく。
見慣れた道だったが、いつもより学校までの距離が長く感じた。
「雨森くん!」
教室にたどり着くや否や、彼女はその名前を叫んだ。
電気の消えた暗い教室にいたのは、一人の男子学生だけで、それ以外の人はいない。
「高品さん、どうしたの? そんなに血相を変えて」
「はぁ……はぁ……雨森くんこそ、こんな真っ暗な教室で」
「僕も、もう帰ろうと思って。一緒に帰る?」
彼の誘いに、肩で息をしながら彼女は首を縦に振った。
暗い教室から出てきた彼は、いつも通りで、その様子を見た彼女は胸を撫で下ろす。
「それにしても、びっくりしちゃったよ。帰る準備してたら、高品さんが走って教室に入ってくるんだから。何か忘れモノでもしてた?」
「そ、そうなの。でも、カバンの中確認したら入ってた」
「それは、良かったね。まあ無駄足になっちゃったのは、残念だろうけど。ちゃんと確認してから、帰らないとねー」
「そうだね」と頷くと、二人は並んで歩く。
この時間が心地よくて、永遠に続いてほしいとさえ思った。
「あっ! あれって同じクラスの清澄さんじゃない?」
彼が見ている先に目をやると、先ほどまで高品と一緒に帰っていた女子が向かってくる姿が見えた。
「よかったぁ。走って戻っちゃうから、何かあったかと思っちゃった」
「ごめんなさい。先に帰っててって、言えばよかった。雨森くんも一緒だから、大丈夫だったのに」
その言葉を聞いた途端に、清澄は固まった。
彼女の血の気が段々と引いていくのが、顔を見ていると分かった。
「……一緒って?」
「私の隣に……」
「誰もいないよ?」
彼女にそう言われて、隣に目をやるが、彼はそこに存在していた。
「それにもう雨森くんは……」
目に涙を浮かべる彼女を見て、全部理解した。
クラスメイトが心配していた理由、も。忘れていた重要な何か、も。
どうして、自分にだけ雨森の存在が見えているのかも。
「一人にしてくれる?」
「でも……」
「お願い……」
彼女の頼みを聞いた清澄は、彼女のことを気にかけながらも、その場から立ち去った。
学校の廊下に残されたのは、高品と彼女だけに見えている雨森。
雨森はずっと彼女の傍にいた。だが、一か月前に交通事故で、亡くなった。
「ごめんね。僕が『ニセモノ』だってこと、隠してて」
「ううん。私が、気づかなかったのが悪いの。皆、私が独り言を喋ってると思って、精神がおかしくなったと思って、心配してたんだ」
彼女の手は、雨森の手に触れようとするが、すり抜けてしまって、触れることができない。
「本当に、雨森くんはもういないんだね」
目の前にいるのに、触れられない。
自分の弱さが彼を作り出してしまったのかと思うと、本当に申し訳なかった。
「ごめんなさい」
「なんで、高品さんが、謝るの?」
「ニセモノだって気づいたら、関心が無くなるなんて、嘘! だって、分かってても、私は……!」
彼は首を横に振った。
「僕は、死んだ雨森くんの代わりにはなりえないよ。君の頭の中で作られた存在だから、本物じゃない」
「ニセモノでも、一緒にいてくれればそれでいいの! だから、お願い! このまま!」
彼はもう一度、否定の動作をしてみせる。
「どうして?」
答えないまま、彼は彼女の前から姿を消した。
彼が死んだという事実を受け入れられなかったが為に、作り出してしまった存在。
眼鏡を掛けていなければ、目が見えていなければ、こんな事にはならなかっただろう。
1枚のガラスを通して見る世界は、前よりぼやけてしまったような気がした。
それでも、彼は多分、『ホンモノ』を見てほしいと願いを込めて、消えていったのだと思う。
彼が消えてから、自分の顔を鏡で見ると、前とは違って、整っていない顔が映っていた。
――私の顔、そこまで酷くない。
可愛くもなく、普通の顔だった自分のことを、彼は綺麗だと言ってくれた。
それが『ニセモノ』だったとしても、その言葉を思い出して、こみ上げてくるこの気持ちは、『ホンモノ』なのだと思う。