下 『実験結果・結論』
「犯人は君だったんだね、宮田君」
宮田莉緒が目を大きく見開いて息をのむ。他の美術部員三人の視線が莉緒に集まった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。なんで宮田が」
「そうですよ!自分の絵を傷つけるなんて、どうしてですか?!」
清瀬はチョークを持って黒板に書き始めた。
「理由には興味がないんだ。後で考えてくれ。ただ、彼女の行動には不思議なことが多い」
清瀬はそう言うと、スラスラと文字を埋めていく。
「最後の実験になるだろう」
『実験:驚いた時の尻もちのつき方
目的:宮田莉緒の犯行を証明、または反証するため
仮説:宮田莉緒は美術室に入ってから犯行を発見するまでに、驚く以外の別の行動をとった
実験方法:佐藤菜々美が美術室に入り、特定の時間にその場に座る』
なんと単純な実験だろう。その割に意図が分からない。しかし清瀬は美術部員の疑問を解決しないまま、実験を強行した。
「さあ、諸君。美術室からいったん出てくれ」
促されるままに全員美術室を出た。そして清瀬は扉を閉める。
「佐藤君、扉を開けたらそのまま絵の方向に向かってくれ。そして私が手を叩いて合図をしたら、その場でしゃがんでほしい」
「はあ」
得心がいかないまま、菜々美は言われたとおりに美術室の扉を開けた。真正面に菜緒の絵が見える。菜々美はこれでいいのかと不安になって振り返った。
「そのまま向かってくれたまえ」
清瀬に言われるがまま、菜々美は絵に向かって歩き始めた。スタスタと美術室の奥へと向かう。彼女から絵の中の女性の切り裂かれた微笑みは、十分に確認できた。
「……このあたりだろう」
清瀬がパチンと手を叩く。菜々美は急いでその場にしゃがんだ。
「清瀬、これに何の意味が」
「その場で動かないでくれ」
座った菜々美の体が硬直する。その姿を清瀬はニヤニヤと見つめていた。
「だから清瀬、この実験の意味を説明してくれ」
「分からないのかい?これで事件は解決したというのに」
事件は解決したって?!大見部長たちは清瀬の言葉に驚き、詰め寄ろうとした。ところが彼女は押しとどめる。
「ストップ!このまま佐藤君の姿を見てほしい。佐藤君は先ほどの座った時の姿をキープしてくれ」
美術部員三人は菜々美の姿を再び見た。菜々美は清瀬に向けていた顔を慌てて正面に戻す。
大見部長は清瀬の意図が全く分からなかった。
「これが、なんだ?」
清瀬は出来の悪い生徒に抗議する先生のごとく、人差し指を立てて解説を始めた。
「先ほど佐藤君が発見時の状況を説明した際『宮田君の驚いた顔を見て駆け寄った』と言ったね」
「それがどうした?」
「見たまえ。今、佐藤君の表情は確認できるかな」
大見部長が菜々美の姿を見直す。絵に対して真正面に顔を向けた菜々美の表情は、美術室の外から見ることは出来なかった。彼女の後頭部しか見えない。
今度は清瀬が菜々美に質問する。
「佐藤君。君が駆け寄った時に、宮田君はどこにいたんだい」
「えっと、もっと部屋の奥です」
菜々美は立ち上がって、部屋の奥へと向かう。そしてその場所に立った。そこは絵を中心に考えると、先ほど菜々美が座った位置とちょうど直角となる窓際の場所だった。
清瀬はそれを見ると「予想通り」とほほ笑んだ。早速黒板に書き込む。
『実験結果:被験者佐藤菜々美が座った位置は、宮田菜緒が実際に座った位置と大きく異なっていた。
結論:宮田菜緒は犯行発見の前に、別の行動をとった』
菜緒の顔色が青ざめていくのが分かる。その一方で清瀬は微笑んでいた。しかしそれは犯人が特定できたからではなく、実験が上手くいったからだろう、と大見部長は確信していた。
喜色を浮かべる清瀬が質問する。
「宮田君。あの場所で驚くためには、この美術室内を迂回するしかないのだ。この扉から君の絵は真正面の位置にある。どうしてそんな行動をしたのだい?」
「えっと、それは」
「いや、違うな。こう言うべきだろう。どうして発見までに、そんなに時間がかかったのだい」
口をつぐむ莉緒を放っておいて、清瀬は再び菜々美に質問した。
「佐藤君は宮田君と一緒に来たはずだろう。なぜ同時に美術室内に入らなかった」
「あー、それは……」
菜々美は言いたくなかった。その時、校舎の窓から見えた江尻先輩の姿をじっと見つめていたなんてことは。年頃の乙女として、淡い恋心を白状したくなかった。
しかし清瀬は容赦ない。
「大方、廊下の窓から好きな先輩を眺めていたとか、そんなところだろう」
「なんで知っているの?!……あ」
あっさりと自白してしまったことに、気恥ずかしさで顔が赤くなる。清瀬には彼女の顔が見えていないのだろうか。淡々と質問を続ける。
「窓から好意を寄せている先輩を見ていたから、入るのが遅れたと」
「はっきり言わないでください!」
「でも、それは自分で見つけたわけじゃないだろう。宮田君に言われて気が付いたのではないか」
「えっ?」
菜々美は回想する。確かに、美術室の前に来た時に、不意に菜緒が言ったのだった。
『あれ?あそこにいるの、江尻先輩じゃない?』
大見部長が質問する。
「しかし江尻がいなかったらどうするんだ」
「なんでも良かったのさ。それこそ『火事が発生している』とか『UFOが飛んでいる』でもいい。この扉から絵はまっすぐに見えてしまうからね。視線をしばらく外にそらしておく必要があった。もっとも絵を発見するだけなら、そんな必要はないけど」
「ぐ、ぐうぜんです」
菜緒が反論する。しかし彼女の視線は定まらない。彼女らしくない大声で反論する。
「たまたま江尻先輩を発見しただけです!それに、絵を壊すなら菜々美と一緒に行かない方が良いはず」
「それは違うな。君は証人が欲しかった。自分がやっていないことを証明してくれる目撃者が必要だった。それが佐藤君だ」
ここまで言って、清瀬は椅子に座った。もう自分の役目は終わったと言わんばかりに、グッと背伸びした。
「でもさ、清瀬さん。他のことに集中して、あの絵に気が付かないことはあるんじゃないかな」
「それはないね。えーと、分野外だから詳しい説明はできないが、認知心理学における選択的注意といってね、人は自分の興味があるものに意識を向けるだとさ。彼女はあの絵の作者であり、昼休みも描いていたのだろう。しかもその絵を片付けるために美術室に来た。真っ先にその絵に意識を向けて見るのが、自然な行動だろう」
門田の疑問をあっさりと片付けて、清瀬は再び菜緒を見つめる。
「どうする、佐藤君。まだ反論があるなら聞くけど」
俯いていた菜緒の目から、やがて大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
「菜緒!」
泣き崩れる彼女を、菜々美が抱き留める。その様子を清瀬は冷ややかに見ていた。
「友情だねえ」
大見部長が代表して質問する。
「宮田……どうしてこんなことを」
「ごめんなさい、部長。私、この絵を描ききることがどうしても出来なかったんです!この人に合う色が作れない。ずっと悩んでいて、もう描きたくなかった」
「だからって、こんな回りくどいことをしなくても」
「コンテスト用だったからか」
大見部長が菜緒に代わって門田の質問に答える。菜緒はゆっくりと頷いた。
「プレッシャーだったのか」
自分は描きたくないのに、他の部員から完成を期待されコンテストの入賞を希望される。そんな重圧に耐えられなくなって、自分とは気づかれないようにこの絵を壊す行動をとったのだろう。
しかし1人だけ納得していない者がいた。菜々美は抱き留めた手を放して、莉緒に語り掛ける。
「それは違うよ、莉緒」
「菜々美?」
「莉緒はこの絵の女の人に嫉妬していた」
菜々美が指さしたその女性は、顔に大きな傷を作って歪に微笑んでいた。菜緒は「ちがう」と首を振ったが、菜々美は続ける。
「私、分かるもん。菜緒がこの絵を描いている時、すごく憎んだ眼をしていた。今なら理解できる。あの目はこの女の人のキレイさに嫉妬していたんだって。自分が描いた絵に嫉妬していたのよ」
分からない、と菜緒は首を振るが、その顔はこれまで以上に青ざめる。自分が知らない、自分の醜い感情に気づかされて、動揺を隠せない。
「数値で確認できないものに振り回されるなんて、気が知れないね」
静まり返る美術室の中で、清瀬は立ち上がって部屋を出た。大見部長が廊下まで追っかけてくる。
「清瀬、助かった。ありがとう」
「もう実験の邪魔をしないでくれよ」
「それはお前次第だよ……でも、最初に発見時の様子を聞いておけば、俺があんなに走ることは無かったんじゃないか」
大見部長の恨み節に、清瀬は何を言っているのだと言わんばかりに無表情で答えた。
「それでも実験はやったさ」
「なんで?」
「可能性を一つ一つつぶしていく。それが科学を志す者として正しいあり方だよ」
それだけ言うと、清瀬は背中を向けて理科室へと入っていった。最後に手を振ったのは、被験者への配慮だろうか。
「“科学さん”め」
これから騒音が聞こえてくるのか、それとも異臭がするのか。とても変わった同級生に対して、大見部長は苦笑いを浮かべた。
完