青の水上列車(卅と一夜の短篇第17回)
ある青い湖の上を列車が走っています。
青の水上列車と呼ばれるその線路に橋はありません。線路は青い湖からほんの少し顔を出した島の上にあって、列車は青い水面ぎりぎりを走っているのです。湖上の駅には一両だけの小さな列車が毎日やってきます。けれども今日は『運転見合わせ』。さっきの雨で湖の水面が上がって、線路が水に沈んでしまったのです。
改札前でルナという女の子が一人立ちんぼしています。湖の風に白いワンピースと青い髪がふんわりと揺れています。
駅舎にはなにもありません。すぐそこまで水が迫っています。水から顔を出しているのは、小さな白い駅舎と同じく白い大きな時計塔の二つだけ。その時計塔も根元は水に沈んでしまい、でたらめな時間を指しています。
ルナはもう引き返すことができません。切符をぎゅっと握り、改札を通りました。
ホームの向こうには紅色に染まった水面が見えます。辺りはすべて水で満ちています。ホームにあるのは、駅舎に灯る温かなランプと、その下に並んだ二つのベンチだけです。
駅にいる人もたった一人。ホームの端でおじいさんが暗くなる湖を見ていました。
「すみません、駅員さんでしょうか」
ルナが呼びかけると、おじいさんが振り返ります。
「そうとも言えるし、そうでないとも言える。少なくとも乗客ではない」
おじいさんの白い髪がランプの光に照らされて、きらきらと輝いています。
その丸くふっくらした顔で優しいほほえみを見せました。
おじいさんはランプの下にある、ベンチに向かって歩きます。
服装は半袖のルナとは大違い、季節外れの茶色いマントが湖の風に揺れています。その歩くさまは、見た目の年とは違ってしっかりしたものでした。
「来なさい」とおじいさんに呼ばれ、ルナは隣に座ります。
二人の顔を温かなランプが照らしました。
「お嬢さんはどこまで行く」
「西の港町です」
「そうか。お嬢さんの生まれは」
そう聞かれて、ルナはうつむいてしまいました。おじいさんから目をそらすように。そして横目ですっかり暗くなった湖を見ていました。もちろん湖面にはなにもありません。水が風で揺れているだけです。
おじいさんはそんなルナの様子を見ても、まったく顔色を変えません。ランプの色のような温かい目で見つめています。
「青の街です」
ルナはうつむいたまま答えます。
おじいさんはルナの答えに太陽のような笑みを見せました。。
「それなら待ったほうがいいかもしれないな。切符は何日残っている」
「有効期限は三日です」
「それなら大丈夫だ。たぶん夜明けには水が引くだろう」
湖面を流れる風が二人の間を通り抜け、ルナの青く長い髪が乱れました。けれどもほんのりオレンジ色のランプが、冷たく荒い風を和らげてくれました。
おじいさんが言います。
「どうだ、話をしないかね。列車が来るそのときまで」
ルナが小さくうなずきました。
「お嬢さんはどんな用で港町に行くのかい」
「えっと……都会暮らしをしてみたかったんです。町にはどんな人がいて、どんな服着ていて、どんな家に住んでいて。とにかくどんな世界か知りたかったんです」
「青の街じゃダメだったのかい」
「青の街もよかったのですが、私には狭すぎたのです」
「そうか……」
おじいさんは胸元から筒を取り出し、先に火をつけました。
筒の先から煙がのぼります。それは湖を流れる風に乗って、一瞬にして遠くに消え去っていきます。陽の沈んだ後の湖を流れる風はとても冷たく、ワンピースを揺らしました。
「くしゅんっ」と、ルナはくしゃみをしました。
「すまない。お嬢さんは煙草が苦手のようだね」
「いえ、大丈夫です。寒かっただけです」
ルナはうつむきながら言いました。
「いいんだ、気にする必要はない。これを着なさい」
おじいさんは煙草の火を消して、茶色のマントを差し出しました。ふと見えたおじいさんの服は、白い長袖のワイシャツだけでした。
「おじいさんは寒くないんですか」
「私は平気だ。気にする必要はない」
ルナは腕を隠すようにマントをかけました。おかげで湖面を流れる冷たい風は遮られ、頭上のランプのような温かさに包まれました。ルナが見上げる先、ランプの向こうは、雲が晴れて三日月がのぼっていました。おじいさんも一緒に空を見上げました。
時計塔の分針がゆっくりと回転を始めます。
「ところでお嬢さん、ここにはどうやってきたのかね」
「えっ……」ルナは青い目を見開きました。
「見ればわかるだろう、ここはとても変わった場所だ。広い湖に浮かぶ小さな孤島の駅。船着き場すらない」
そうです。ここには駅と時計塔以外なにもないのです。線路ですら水に沈み、湖の波でちゃぷちゃぷ音を立てています。
ルナはずっと湖を見ていました。駅のかなた、闇にのまれた湖を見ていました。もちろん、水以外なにもありません。口を小さく開き、なにか言おうとします。けれども言葉になりません。手を固く握りしめ、くちびるを震わせます。冷たい夜風が吹く湖上なのに、ルナの顔に汗が一筋、流れました。
「ああ、お嬢さん。もう無理して答えなくてよい。私が悪かった」
おじいさんは言葉を絞りだそうとするルナを止めました。
「は、はい……」
ルナはまた暗い湖の方へと目をそらしました。
そんなルナを見て、おじいさんはまたランプのようにほほえみます。そして柔らかな声でルナに話します。
「お嬢さん。実は青の街から来たという人を知っておる。お嬢さんのようにどこか怯えながら、青い瞳で湖を見ていた。それに伝わってくるんだよ」
――ほんとは秘密にしたいのだと。
ルナは「えっ」と、口を小さく開けたまま、きょとんとした顔でおじいさんの方を向きました。
「お嬢さんもそうかね」
おじいさんの優しい表情は変わっていません。目はきらきらと澄んでいます。けっして悪い人ではなさそうです。柔らかい眼差しを注ぐおじいさんを見つめ、ルナはゆっくり小さくうなずきました。
「それなら私は黙っていよう。記憶の中に収めておこう」
おじいさんは空を見ました。ルナもつられて天を向きます。三日月の横に星の川が見えています。川の上にはたくさんの星が集まっていて、ランプの光をきらきら返すこの湖によく似ていました。
「どうだ、ついでに青の街のことを聞かせてくれんかね」
「街のことは知っているんじゃないですか」
「いや、青の街はきっとたくさんある。私はお嬢さんがいた青の街を知りたい」
「そう、ですか……」
ルナはまた目をそらし、うつむいてしまいました。
おじいさんはそんなルナの肩をそっと触れました。
「大丈夫だ。私は黙っていよう。他の青の街の住人と同じように記憶の中にとどめておこう」
ルナはゆっくり顔をあげます。
「ぜったい約束してくれますか」
「あぁ、約束するよ」
ルナはおじいさんの目を見ました。それは一点の曇りのない澄んだ目でした。じっとのぞきこんでも濁ることはありません。優しいふっくらした顔はきっと本物です。
それを確かめて、ルナはランプの向こうを見上げました。
「青の街はこのランプのように揺れる太陽に照らされています。街の中では星と影が動いていて、決して止まることはありません。私は何度も捕まえようとしましたが、だめでした。青の街の住人は星も影も捕らえることができないのです。それに青の街の星は太陽とともに消えてしまうんです」
「この夜空と逆だね。ここの星は夜に現れ、夜明けとともに消えてしまう」
「そうです。私はそれを知ってしまいました。太陽を追いかけるあまり、街の向こう側を知ってしまったんです。私は嬉しくて仕方ありませんでした。両親や友達にも話しました。でも……」
「でも?」
「誰も信用してくれませんでした。みんな見たことはあるらしいのです。だけど夢の中の話だと思い込んでいました。私たちは青い岩の家に住み、青い塔にある学校で勉強するのですが、親も先生もここの話は一切しません。私が見た景色を話しても夢だと断言されてしまいました。ついに私は一人になりました」
「では、お嬢さんはどうして夢の世界が本物だと知ったのかい」
「図書館で本を読んだのです。『夢幻の冒険』という本でした。その表紙は緑の木々が描かれていて、ページをめくると湖が小さく描かれていて、周りには森林、風車の村、別の湖、海に面した港町が描かれていたのです。私は白い建物と鐘の塔が立ち並ぶ海辺の街に惹かれました。同時に自分がどれだけ小さな世界に住んでいるのか思い知らされたのです」
ルナは星が散りばめられた空に手を伸ばしました。その光は遠くてどんなに手を伸ばしても届きません。そんな空が見わたす限り広がっているのです。ルナの青い目はランプの光に照らされて、この星のように輝いていました。しかしそれは、夜にのまれそうな寂しい輝きでもありました。
「お嬢さん、しかしここは夢の世界だ。青の街からは行けないはずじゃないのかい」
「青の街の住人には秘密の切符があるんです。私たちは夢の世界に行ける切符を持って生まれてくるのです。その切符を使えば夢の世界に入ることができます。しかし、切符を使うと黒い月が満ちて再び欠けるまで青の街には戻れません。青の街に入ったらまた同じ。黒い月が満ちて再び欠けるまで夢の世界には戻れないのです。『夢幻の冒険』の最終ページに書いてありました」
「そうか、お嬢さんはその切符を使ってこの夢の世界に入ったんだね」
「はい」
でも、ルナはまた下を向いてしまいました。
「だけど不安なんです。私は本でいろんな景色を見てきました。けれどもほんとは青の街しか知らないのです。おじいさんはずっと夢の世界にいましたよね。怖いところとかないでしょうか」
おじいさんは不安げな表情のルナの背をそっとさすりました。
「きっと大丈夫さ。お嬢さんならどんなところにだって行くことができる。青の街から出る勇気があったなら、きっと大丈夫だ」
「本当に」
「あぁ、本当だ」
ルナの目はうつむいてばかりだったときとは別人のように、きらきらと光っていました。誰も知らない世界を知っている、そんな誇りに満ちていました。
「ただし、もし港町に着いたなら、青の街のことは秘密にしておくんだよ。お嬢さんの大事なものを守るためにも」
おじいさんの言葉にルナは目を輝かせながら、「はい」と答えました。
湖の風は穏やかになりました。線路はすっかり顔を出し、線路を支える島だけが水に揺れていました。
「ところで、おじいさんはどこから来たのですか」
おじいさんは目をそらしました。さっきまでのほほえみもありません。まるでさっきまでのルナと同じです。
「言わなきゃならんのかね」
「だって私ばかり話しているじゃないですか。おじいさんのことも気になります。不公平です」
「確かに、不公平だな」
おじいさんは立ち上がり、ルナを連れてホームの東の端にあるフェンスに腕を乗せました。
「私は時計の街から来た。青の街でも、夢の世界でもない」
「それだけですか」
「青い街よりもっと狭い街だ。だからお嬢さんのように夢の世界に出てきた。ここから先は秘密だ」
ルナは駅舎の向こうを見ました。白い時計塔が五時を指しています。
「ひどいです」
「そうかね」
おじいさんはそっとルナの背中に触れました。
「ほら、見なさい。朝日がのぼる」
ルナは目を見開きました。湖面から大きな赤い光が顔を出していたのです。冷えた湖面の中でほんのり暖かな輝き。それがゆっくりと真円に近づいていきます。太陽に向かって伸びる線路の水はもう引いていました。風も夜に比べれば穏やかで、水も静かです。
「お嬢さんはきっとこの形の太陽を見たことがないだろう」
「私、揺れる太陽しか見たことなかったです」
「夢の世界では、望めば毎日この景色を見ることができる。これが記念すべき第一回だ。目に焼きつけておきなさい」
ルナはすべてを忘れ、のぼっていくまぶしい太陽を見ていました。
その太陽が全身を出したころ、黒い影が駅に向かって走ってきました。線路を滑りながら近づく影は大きくなるにつれて、湖の色を帯びてきました。一緒にカタンコトンという音がやってきます。
「始発列車だ。思ったより早いな」
「これって、西の港町にも行くのですよね」
「そうだ。お嬢さんの行きたい街にきっと連れて行ってくれる」
「おじいさんは乗らないのですか」
「最初に言ったとおり、私は乗客ではないんだ」
「では、おじいさんは何者なんですか」
おじいさんは少女を見ました。その目は湖と同じ、青く透明な目でした。
「私は永遠の待ち人だ。水上列車が止まったとき、旅人が待ちくたびれないようにするための話し相手。だからここにずっとおる」
青い水上列車はたった一人の乗客のためにホームに入ってきます。
「おじいさんは広い世界を知りたいためにここにきたのではないのですか」
「そうだ。私は永遠の待ち人にして永遠の旅人だ。このホームにいながら人を伝ってどこまでも行ける、旅人だ」
キーッというブレーキ音が二人の間に流れ、列車の扉が開きました。
おじいさんがルナの背中を押します。
「さぁ、行きなさい。夢の世界が待っている」
ルナはおじいさんに茶色のマントを返し、列車に乗り込みました。そして白いワンピースを揺らしながら振り返ります。
「おじいさんはどうして広い世界に行かないのですか」
おじいさんはふっくらした顔で笑いかけました。けれども、どこかごまかしている寂しい顔でした。
「お嬢さんはもう知っているはず。私はお嬢さんのようにはなれないんだ」
おじいさんがそう言うと、列車の扉が閉まりました。
列車はゆっくりと青い水面を滑っていきます。ルナは列車の最後尾の窓に向かって走りました。窓からは手を振っているおじいさんの姿が見えます。
「もし、もう一度この駅にたどり着くことがあったら、昨日のように話をしよう」
最後におじいさんが呼びかけました。
列車はカタンコトンと広い世界を走ります。
その音はどんどん速く、大きくなります。
そしておじいさんの姿は、湖の中に消えていきました。