表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

深く溺れるカフェモカを。

作者: 散篠浦昌

 がりがりと、独特の駆動音。ふわりと漂う、珈琲の香り。息を吸い込むと、頭の奥へと行き届き、ぼんやりした眼を覚ましてくれる。

 エスプレッソに、スチームミルク。たっぷりのチョコレートシロップ。黒い湖にホイップクリームを浮かべ、最後の仕上げに、ココアパウダーを少し。

 僕は朝にはカフェ・ラッテ派だけど、甘いカフェ・モカも悪くない。満足気に頷くと、ソーサーに置いたカップをテーブルに運んだ。


 プレートにはスクランブルエッグとベーコン。数本のソーセージ。人参のグラッセと、葉野菜のサラダ。切ったトマトを添えて、ドレッシングはお好みで。

 中心のバスケットにはカリカリに焼かれたバゲット。サンドイッチにしてもいいし、そのままバターや蜂蜜を塗って食べてもいい。果物のジャムは個人の趣味で、珈琲と一緒に口にしない。

 野菜のキッシュも考えたけれど、時間がかかるし、何より、朝から重すぎる。……少し作り過ぎてしまったので、どっちもどっちな気もするけれど。


「うん。……でもまあ、こんなものでしょう。僕食べ盛りだし」


 完璧なブレイクファストを用意して、こくりと頷く。ああそうだ、今日のモーニングセットはこれでいこう。休日だし、お客さんはあまりこないだろうけど、いつものことだ。

 それよりも、今はただ一つ。この朝食が冷めてしまう前に、あの人を起こせるのかが問題だ。

 

 ――喫茶『Café Grande』は、木目を基調としたシックな佇まい、が売りの純喫茶である。

 オフィス街の隅にぽつんと存在している――良く言えば隠れ家風、悪く言えば立地が悪い――この店に僕が拾われたのは、ほんのニ、三年前のことだった。


 拾われたとはどういうことか、だとか、何があって今現在に至るのか、だとか、色々と説明を求めたい気持ちはわかるが、それは少々長くなる。ゆえに端的に言うのであれば、僕の両親が“いなくなった”ので、親戚でありこの店のオーナー兼店長である美珈さん――風間(かざま) 美珈(みか)さん、25歳独身――が僕を引き取ってくれたということだ。

 もう少し詳しい説明が欲しいならこういうことだ。僕の両親は恋に恋して駆け落ちし、子供のままに子供を産んで、現実が見えず社会の闇に飲み込まれ今は檻の中。残された僕は育児放棄で心も身体も不相応。親戚一同押し付け合いを始めたところを見ながら、『あぁ、どこにも居場所はないのだな』と漠然と思っていた時。美珈さんが現れて『私が全部面倒を見る!』と啖呵を切って、僕を抱きしめて連れ去っていき、僕は人並みの生活を手に入れた。

 それから月日は流れ、どうにかこうにか遅れを取り戻した僕は、自分の希望によって、この売り上げの悪い喫茶店のお手伝いをしている。無駄飯喰らいから昇格だ。


 あぁ、申し遅れました。僕は水渡みなと ゆう。バリスタ志望、十三歳の男の子です。今は、少しでも早く大人になることが目標です。


 さて、僕のお手伝いとしての仕事は、朝食を作ることから始まる。面倒を見ると啖呵を切ったくせに生活能力がどことなく欠如している美珈さんに代わり、振るうほどもない腕を振るう。まだ簡単なものしか作れないが、最近は、喫茶店で出す軽食としてはそこそこの出来栄えになってきていると、思えるようになった。

 朝食を作り終えて、美珈さんの好きなカフェモカを淹れたなら、次の仕事が待っている。それは寝起きの悪いお姉さんを優しく揺り起こすことで、油断するといつまでも寝ている美珈さんに開店時間を守らせることだ。

 

 とんとん、と階段を上がる。二階にある美珈さんの部屋の前に立ち、ノックを二回。慣れたものだ。

 

「……美珈さん。美珈お姉さん。朝食が出来ました。起きてください」

 

 こんこんこん、とノックを続け、返事を待つ。数秒待って、扉に耳を澄ませるが、音沙汰はない。はぁ、とため息をつくと、小さく『んー……』と、呻く声がした。

 ドアノブに手を掛ける。どうせ鍵はかかっていない。がちゃりとノブを回すと、僕は勢い良くドアを開け放った。

 

「美珈さん、入りますよ」

 

「やぁー……」

 

 やぁー、じゃない。

 

 薄暗い、殺風景な部屋。飾り気はなく、店と同じように落ち着いた雰囲気の家具が並ぶ。衣装箪笥の上の写真立てと、ずらりと並ぶ珈琲に関する書籍。ロッキングチェアに、軋んだベッドの上でもぞもぞ動く生命体。

 額に手を当ててもう一度ため息をつく。カーテンを開けて、今すぐにでもビスクドールの亡霊が出てきそうな雰囲気を払拭する。差し込む光を拒むように、美珈さんは動くのをやめて(いもむしから)布団を抱き込んだ(みのむしに進化した)

 

「……じゃないですよ。ほら、美珈さん。丸まってないで。気持ちのいい朝ですよ。陽の光ですよ。起きましょう? 美味しい朝食もありますよ」


「んぅー……いらないー……ねるぅー……」


「いやいや、駄目でしょう。おーきーてーくーだーさーいー」

 

 ゆさゆさと揺する僕と、それに抵抗するように布団を抱きしめる美珈さん。この人は、本当に……。

 毎朝のことだけれど、いい加減に一人で起きれるようにならないものだろうか。せめて、声を掛けたら自分から起きてくるぐらいにはなって欲しい。

 まったく、ため息が出る。呆れた笑いとため息は、この一,ニ年ですっかり癖になってしまった。

 

「はぁ……どぉーしても、起きないんですか?」


「……きない……」


「そうですか……それなら仕方ないですね。美珈さんが喜ぶと思って、頑張って作ったんですけど」


「んむ……」


「珈琲も淹れましたけど、僕なんかじゃあやっぱり駄目ですよね。仕方がないので、一人で食べることにしますね」

 

 しゅんとしたフリをして、これみよがしに落ち込んで見せる。言葉を進める内、ガードが甘くなっていき、ちらりと美珈さんが顔を出す。吸い込まれそうな琥珀色の瞳。そろそろ暖かくなってきたというのに布団に潜るから、額にうっすら汗が滲んでいた。何かを訴えかけるようにこちらを見上げると、胡乱げなまま言う。

 

「ゆーくん……もーちょっと、だめ?」


 上目遣いで、瞳をうるうるさせて、少しだけ首を傾げ、甘い声で。どきりと高鳴った心臓の音と、耳のあたりに集まってきた熱を自覚して、僕は――


「ダメです。さっさと起きてください」

 

 ――それを無理やり押し込めて、笑顔で布団を剥ぎとった。『いやー』だか『きゃー』だかよくわからない悲鳴と共に少しの抵抗があったが、僕だって少しは力がついたのだ。布団でいつまでもぬくぬくしているからいけないのであって、この諸悪の根源を絶ってしまえば、とそこまで考えた時。

 急にふっ、と抵抗が消え、同時に何かが飛び込んでくる。僕はバランスを崩し、勢い余って床へと転倒した。布団がクッションになったからあまり痛くはなかったけど、一体何が……

 ふわりと芳しい香りがして、目の前が暗くなった。

 

「ゆーくん」


「――っ!」

 

 耳元で声がする。頭の中をかき回して、心をどろどろに溶かすような。僕の身体の右側に、寄り添うようにして、柔らかい『何か』が当たっている。それが一体なんなのかに思い当たったとき、押し込めていた音と熱は、いとも簡単に僕を支配した。

 どくどくと全身に行き渡る血流。きっと僕の顔は真っ赤だ。頭もぼーっとしてきた。首筋から胸元のあたりまでを、するりと撫ぜられる感触がする。はぁ、と息遣いが聞こえる。吐息が耳に掛かる。


「っ、み、みかさっ……あ、あの、何を……」


「ねー、ゆーくん……」

 

 ぞくり。どろりとしたチョコレート・シロップみたいに、美珈さんの声が入り込んできて力が抜ける。指先さえぴくりとも動かなくなって、息が詰まりそうだ。僕の目を隠す掌の先では、きっと誘うような笑みを浮かべているのだろう。

 ――あぁ、もう。今日の作戦は失敗だった。反撃させちゃあダメなのに。囁き声が侵蝕する。

 

「ゆーくんは、だめじゃないよ……いいこだよ」


「っ、いえ、あの」


「でもねぇ、おねーさんねぇ、ゆーくんは、がんばりすぎだとおもうの」


「そんなこ、――ッ!?」


 それは違う。僕はまだまだ全然で、美珈さんは本当に凄くって、迷惑掛けることしか出来ないし、もっと頑張らないと――ぐるぐる回る無意味な思考は、急に開けた視界に中断される。

 気だるげな優しい笑み。無防備で隙間が多いラフなシャツ。すらりと伸びた肢体は僕の胸の奥の何かをくすぐるには十分なもので、けれど、視界の端にショートパンツが脱ぎ捨てられていたから、目で追いかけるのを急いでやめた。――何考えてるんだこの人!?

 視線を逸らしたとしても事実は変わらず、やけに回転の早い僕の頭は推測を立て始める。ショートパンツが脱ぎ捨てられているということは、すなわちこの僕の足に絡んでいる太腿の先には下着だけしかないわけで、加えて言うなら、美珈さんは寝る時、上の下着は付けない派で、だとするとこの、僕に触れている柔らかいものは、ほとんど――駄目だやめろ考えるな!

 高速で回る思考をよそに、ひどく緩慢な響きでチョコレート・シロップは支配する。

 

「だからね? ゆーくん。 今日はいーてんきだしぃ……」

 

 あぁ。駄目だ。言わせたら今日は僕の負けだ。ちゃんとしないと。でも――

 

 全身が熱い。今僕の周りだけ気温が何度か上昇している自信がある。目の前がちかちかしてきた。頭がくらくらして、ぐるぐるする。心臓はもうすでにペースメーカーの役割を放棄した。

 愛おしげな表情をして、美珈さんは僕をぎゅっと抱きしめる。絶対駄目だとわかっているのに、慈しむような愛情を感じて、目の前が真っ白になって。


「おねーさんといっしょに、おやすみしよ?」


 ――僕の負けだ。

 『きっと、きもちいいよ?』と死体撃ちをする美珈さんの声を最後に、許容量を超えた僕の身体は、意識をシャットアウトした。

 意識が落ちる寸前。夢見心地で、『五分だけなら』と、言ったような気がする。少しだけ抱きしめる力が強くなって、僕はきっと安眠へ誘われた。

 

 

 

――――――――――――――――



「……むぅ」


 十分か二十分か、それ以上経って。苦くて甘い敗北の後、やっと起きる気になったらしい美珈さんと共に、僕はフロアで朝食を食べていた。

 とても美味しそうに僕の作った料理を頬張る美珈さんを見ながら、ぬるくなってしまったカフェ・ラッテを啜る。

 

「んーっ。また腕を上げたねぇ、優君。……あれ、食べないの?」


「いえ、食べますけど……」

 

 ハートマークを撒き散らして頬に手を当てる美珈さん。仕事着に着替えたから、今は僕と同じ白いワイシャツに黒のベストだ。先ほどまでの無防備な姿からは考えも付かないほどに隙がなく、ビシっと決まっていて、かっこいい。

 どうしてあれほどまでに寝起きはぽやぽやしているのに、ユニフォームになった途端こんなにハキハキと喋るのだろうか。二重人格を疑うほどだが、基本的な性格は同じだから、ただ単にスイッチなんだと思うけど――寝起きもこれぐらいちゃんとしてくれれば、何も言うことはないのに。

 なんだか理不尽さを感じつつ、ソーセージを口に入れる。――これぐらいなら、誰が作っても一緒だと思うけどなぁ。

 

「食べ終わったら、すぐに店を開けようね。ちょっと遅れちゃったから」


「はい。一応、後は看板を出すだけにはしてありますよ」

 

「ん、いつもありがとうね」

 

 カフェ・モカを飲んで、はにかみながら美珈さんが言う。自分が原因だってことは自覚があるらしい。

 何か言おうかと思ったけれど、その笑顔が凄く素敵だったから、僕はそっぽを向いてぶっきらぼうな対応をすることしか出来なかった。

 美珈さんのずるいところは、こういうところだ。散々人を弄ぶ――もとい、振り回すくせに、この人の笑顔を見ると、何を言う気も起きなくなる。

 

 ……あぁ、もう、全く。


「はぁ……」


 額に手を当てて、ため息をつく。『あ、幸せが逃げるよ』と言われたけれど、少しぐらい逃げてもらわなきゃ、こちらの身が持たなそうだった。

登場人物

水渡みなと ゆう

十三歳、年頃の男の子。学校生活の傍ら、喫茶『Cafe Grande』で従業員として働いている。

しっかりもので大人びているが、保護者である美珈さんには頭が上がらない。

身寄りはなく、美珈さんだけが支え。同時に、自分を救ってくれた美珈さんに淡い恋心を抱いている。

早く大人になって美珈さんを楽にさせてあげたいと思っているが、まだまだそれは遠そうだ。

最近の悩みは、寝起きの美珈さんに勝てないこと。


風間(かざま) 美珈(みか)

二十五歳独身。仕事ができるダメなお姉さん。女性バリスタ。

仕事中はデキる女な雰囲気を醸し出す大人の女性だが、本性は可愛い物と眠るのが好きな怠け者。

曲がったことが嫌いで芯の通った性格をしている。社会適合性は高くない。

優くんのことは可愛い弟のように思っているが、段々大人びてきて、少しどきっとすることが増えてきている。

最近の悩みは、優くんが頑張りすぎてる気がすること。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ