8話「満天の星」
まだ太陽が昇りきっていない頃、私は大学へと向かう電車に乗っていた。
いつもより人が少ないのは、ほとんどの学生が夏休みに入ったためだろう。
車内は冷房のおかげでかなり涼しい。クーラーなどが苦手な私にとっては寒いくらいだった。しかし、時折窓から差し込む陽が冷え切った体を温めてくれた。
大学の講義を終えて長い廊下を歩いていた私は、曲がり角に差し掛かった瞬間誰かとぶつかった。
その衝撃で相手の持っていた資料が辺りに散らばった。
生物学科の研究資料だった。手に取ったそれに目を向けながら持ち主に渡した。
「あ、すんません! ありがとうございます……って橘さん……」
私とぶつかったのは、いつの日か私に資料を届けてくれたあの男性だったのだ。
「その節はどうも」
「橘さんもさっきの講義出てたの?」
彼の言葉に私は一度頷いた。
驚いた。まさか同じ生物学科の学生だったなんて。
「コウ、早くしろよー」
遠くの方で男性が私達に向かって言った。多分、「コウ」とは目の前にいる彼のことだろう。
思った通り、私と話していた彼が「わりー、すぐ行く」と大きな声で答えていた。
「じゃ、またね。橘さん」
右手を軽く上げながら彼は走っていった。
さすがにもう話す機会はなさそうだなと思ったけれど、案外その“また”はすぐにやってきてしまった。
「あはは、よく会うね」
大学の実験室で白衣を着て顕微鏡を操作する私の前に先ほどのコウさんが現れた。
ここまで頻繁に顔を合わせると、今までも気づかなかっただけで結構側にいたのかもしれないと思った。
「隣、座ってもいい?」
「あ、はい、どうぞ」
彼は鼻歌を歌いながら私の隣の席へ腰を下ろし、鞄からファイリングされた資料を取り出した。
「話してみて分かったけど、橘さんってイメージと結構違うよね」
私は作業の手を止めて彼を見た。
それは一体どういうことなのか問うと辛辣な一言が返ってきた。
「なんかさ正直もっと冷たい人なのかなって思ってた。私はあなた達と違うのっ! みたいな」
随分とはっきり言う人だと思った。悪意がなさそうな所がまたきついものがある。
でも、それはほとんどの人のイメージなのかもしれない。実際そう思っていた時期もあったことは否めない。何だか少し落ち込んだ。
「……よく言われる」
「でも印象変わった! 普通にいい人だよね」
目を見開いて驚く私に彼は微笑んだ。
無言で個々の作業を続ける中、不意に彼が話しかけてきた。
「橘さんは来月のセミナー参加するの?」
「まあ……せっかくの機会だし」
「そっかー、やっぱみんな出席すんのかー」
「……行かないの?」
「いや、どうしようかなあって。俺にとってはもう全部机上の空論って感じだから」
そう言って呑気にへらへら笑う彼に「はあ……」とだけ返事をした。
「なーんて……ほんとはただ逃げたいだけなんだけど」
彼は消えそうな声で呟いた。
さっきまでの明るい雰囲気はどこにもなく、彼は暗い面持ちをしていた。
「子供の時からずっと生き物が好きで、もっと深く知りたくてこの大学選んだけど……でも、理想と現実ってやつを知って、どんなに頑張っても才能には勝てないんだって分かった」
淡々と、だけど何処と無く悲しそうに彼は言った。
生物学以外には目もくれずに生きてきた私にはこのよどんだ空気を変えるなどとはできるはずもなかった。
それを察したのか、彼はしまったというのような顔を見せ片手で髪の毛をくしゃっとした。
「あ、えっとごめん……何でこんなこと橘さんに言ってるんだろ……こ、困っちゃうよね!」
そう苦笑いする彼を見て、私は以前自分が感じたものを思い出していた。
自分が何をしたいのか分からない。周りの人達が羨ましく思えて、強い劣等感を抱いていた。
他人が成功するたびに何かが音を立てながら崩れていった。
だけど、今分かった。
それを感じてしまうのは案外普通のことなのかもしれない。
自分と違うところがあれば気になってしまう。自分よりも優れていれば羨ましいと思ってしまう。それはきっと皆同じ。
厄介で避けることのできない思い。
ベクトルは違えど私も彼と同じだ。
「……みんなそんなものじゃないかな。悩みのない人間なんていないと思う」
私の返しが余程意外だったのか彼は目を丸くしていた。そして、「橘さんってかっこいいね」と笑っていた。
実験室から出る際、彼に自分の名前を知っているかと問われた。私は申し訳なさを覚えつつ首を横に振った。
彼は「だよね」と残念そうに苦笑いをしていた。
「ミナミ、コウトです」
自分を指差し明るく微笑んだ。
ミナミ、コウト。覚えておこう。
私はそう思った。
帰りの電車の中、車窓から見える景色が変わりゆくのを眺めている時、ふと、あることを思い出した。
携帯を開き、画面に表示されている日付を見た。7月も後3日程で終わる。
藍は7月が誕生日だと言っていた。
彼は以前、私の誕生日にオムライスを作ってくれて、祖父と2人でお祝いしてくれた。
あの時は本当に驚いたし、何より嬉しかった。
だから、私も彼に何かしてあげたい。彼の喜ぶ顔が見たい。
そう思った。
家に帰ると藍はいつものように出迎えてくれた。
祖父も帰っていたらしく、私が帰宅するとすぐに夕食となった。
「藍、何描いてるの?」
夕食を食べ終え、居間の机で一生懸命スケッチブックに色鉛筆を走らせる彼に問いかけた。
どうやら星空を描いていたらしい。
「星、好きなの?」
彼は弾むように頷いた。
星……。私は頭の中でその単語を何度も繰り返した。
藍は星が好きなんだ。
そう思った時、はっとあることが脳裏に浮かんだ。
「ねえ、藍。ちょっと気分転換しに行かない?」
私はそう言って彼を外に連れ出した。
私と藍は自宅から10分ほど歩いた所にある広い公園へと来た。
遊具はほとんど無く、砂場と滑り台がある程度の簡素な公園だ。
8時を回っているため、さすがに遊んでいる人はいなかった。
うん、今日もいい感じだ。
心の中でそう呟いて私はとある方向を指差した。
「ほら、見て」
藍は私の指の動きを追って、その先に目を向けた。
その瞬間、彼はもともと大きな瞳をさらに見開かせた。
私達の頭上には満天の星が輝いていた。
周りに建物や街灯がほとんどないため、星一つ一つがより鮮明に見える。ずっと見ていると吸い込まれてしまいそうだ。
小学生の時、校外学習でプラネタリウムを見たことがあるけれど、あの非現実的な夜空に一番近いものを見ることが出来る場所だと私は思う。
「何かに迷った時、よくここに来るの」
自信を失くしたり、進んでる道に対して不安になったりした時には、私はここで星空を見上げた。
ここは、どんな時だって同じ星々を私に見せてくれる。
「だからさ……藍も何かに迷った時、ここに来ればいいよ」
その言葉に彼は静かに頷いた。
それから私達は滑り台に上って星空を眺めた。
「あれが多分、夏の大三角形。……ああ、あの赤いのがさそり座のアンタレス。多分ね」
天文学は専門外だった私は、頭の中の奥の奥にある埃だらけの引き出しから引っ張り出したような知識で彼に教えていた。
それでも、彼は「うん、うん」と興味津津に何度も頷いてくれた。
途中、「誕生日おめでとう」を言うタイミングを逃してしまったことに気づいたけれど、隣にいる藍が喜んでくれているようだったから、まあいいかと思った。