7話「交錯する思い」
梅雨も終わり太陽の日差しがより一層強くなった。
庭の梅の木も青々とした葉を付け地面に影を落としている。
雲一つない青空の下、私は今日も研究に精を出していた。
そのはず、だった。
「39度……4分」
あまりの衝撃に体温計を落としそうになってしまった。
首に手を当ててみると普段よりかなり体温が高いことが分かった。
これは近年稀な高熱だ。原因は何となくだが予想がつく。
昨日、急な夕立に降られてずぶ濡れで帰ってきた。
その後、ろくに体を拭かぬまま濡れてしまった大学の資料を乾かしていたためすっかり風邪を引いてしまったのだ。
私は目が回るような感覚に陥りそのままベッドへ沈み込んだ。
その直後、自室の扉がノックされる音が聞こえ、私は力を振り絞り「どうぞ」と言った。
ゆっくりと様子をうかがうように開かれた扉の先にいたのは藍だった。
彼は私が力なくベッドに横たわっているのを見ると目を丸くした。
「……藍、一人?」
彼は頷いた。
何か用があるのか尋ねると、どうやら色鉛筆を貸して欲しかったらしい。
私は机の引き出しから色鉛筆を取り出し、ふらつきながらも藍にそれを手渡した。
彼は色鉛筆を受け取ると不安そうな瞳で私を見てきた。大丈夫、そう言おうとしたが咳のせいで掻き消されてしまった。
「出て行った方がいい。うつるから」
藍の背中を押して部屋から出るように促すと、彼はそれに素直に従い部屋から出て行った。
私はぼうっと立ち尽くしていたが、急激な悪寒を感じ慌ててベッドに横になった。
高熱のせいで思考が鈍り、頭上にある電球を何も考えずにしばらく見ていた。
何かを食べて薬を飲もう。そう思ったのだが、それを行うことさえも怠く感じ結局ベッドから動けない。
私は昔から体が丈夫ではなく風邪を引きやすかった。
でも、母も祖父も多忙な人だったから、迷惑をかけたくなくて病院へは行かずに毎回自力で治してきた。年齢を重ねる度に治りは悪くなっているのだけれど。
「病院……行った方がいいのかなあ……」
そう呟いたとほぼ同時に再び部屋の扉が叩かれた。
私が返事をすると藍が顔だけをひょっこり覗かせた。
「……まだ借りたいものでもあるの?」
私が問いかけると藍は首を横に振り、いつものメモ帳を見せてきた。
『かぜ、だいじょうぶ?』
「大丈夫そうに見える?」
そんな皮肉を言うと藍ははっとして申し訳なさそうに俯いた。
その姿に私は少し胸が痛んだ。心配してくれたのに酷い物言いだったかもしれない。
一言謝ろう。そう思った矢先だった。
「……なんか、焦げ臭い」
私はそう言って鼻をつまんだ。
何処かで火事でもあったのかと思った。
そんな中、藍ははっと何かを思い出し、青い顔をしながら慌てて部屋を出て行った。
数分後、彼は少量のお粥が入った茶碗を手に戻ってきた。
どうやら風邪を引いている私にお粥を作っていたらしい。
さっきの焦げ臭さの原因はこれだったようだ。
遠慮がちにお粥を差し出してきた彼に「食べていいの?」と聞くと表情をぱあっと明るくして深く頷いた。
茶碗を受け取り、用意されたスプーンでお粥を口に運んだ。
「これ美味しい……」
熱のせいで食欲が落ちていたから、この気遣いは本当にありがたいものだった。
お粥を食べ終え、藍に部屋を出るよう促したのだが、彼はここにいると言い張って聞かなかった。どうしても私の看病をしたいと言ってその場から動こうとしなかった。
まあ彼がそう言うならいいか、と私はそのまま眠りについた。
「晴陽」
名前を呼ばれて振り向くと、白い靄の中に誰かが立っていた。
「こっちよ、晴陽」
もう一度呼ばれ、私は確信した。
忘れるはずもない。この声は、母だ。
こちらを見て柔らかく微笑んでいる。
「お母さん……?」
私は母に駆け寄った。
駆け寄った、はずだったのだが一向に距離が縮まらなかった。
母は何かを言っているようだが、私にはそれが聞こえなかった。
お母さん、と何度も叫び続けながら走った。
だが、近づくどころかさらに距離が広がっていった。
どうして私を置いていくの、何故何も聞こえないの、教えてくれないの、そう涙ながらに叫んだ。
「私、お母さんのことずっと待っ――」
その刹那、強風が吹き荒れると母は砂のように消えた。
瞼を開けると全身に沢山の汗をかいていた。心臓が痛いほどにうるさい。
「なんだ、夢か……」
そう小さく呟いて横を向くと、藍が私の手を握りながら眠っていた。
その手を軽く握り返すと、彼は小さく体を揺らして瞳を開いた。
「ずっと握ってたの?」
こくりと頷く藍。
壁にぶらさがっている時計が静かに時を刻む中、私の頭に先ほど見た夢の映像が浮かんだ。
「……夢の中で死んだお母さんと会ったの」
風邪のせいで少し鼻声だった。声も掠れてあまり出ていなかったが気にせず続けた。
「私のお母さんね、私が6歳の時に事故で死んだの。5歳の時突然おじいちゃん家に預けられて、一回も帰ってこないでそのまま事故で死んで……本当最後まで勝手な人だった」
私は眉を寄せて唇を噛み締めた。でなければ泣いてしまいそうだったから。
「でも……一度だけでいいから話したかった。おかえりってもう一回言いたかった」
15年前、いってらっしゃいってずっと見送ったままなのだ。
「藍も勝手にいなくなるの?」
彼は、え、というような顔をした。
「だってそうでしょ……何も話してくれないんだから」
まるで小さな子供のような物言いだと自分でも分かっていた。
彼にだって彼の事情があるだから仕方ないことだってある。言えないことだってある。
私だって全て話したわけじゃない。話してないことだってたくさんある。
でも多分、そういう理屈は関係ない。
ただ、寂しかったんだと思う。
今も、昔も。
少しすると彼はメモ帳に何かを書き始めた。
『ぼくにはゆめがある』
「夢……」
そういえば、この前携帯を届けに来てくれた時にそんな話をした。
彼は続けて文字を書いた。
『そのゆめはここでしかかなえられない。だからぼくはここにいる。ここでみんなといっしょにかなえたい』
「その夢って何なの? 教えてよ」
私の高圧的な問い詰めに彼は何の迷いもなく文字を書き出した。
『ゆめがかなったらね』
彼の瞳は真っ直ぐ私を見ていた。いつも彼は何かを聞くと笑って誤魔化していたけれど、今は偽りのない本心からのものだと感じた。
「本当に教えてくれる?」
彼は力強く頷いた。
「本当に?」
しつこく問い続ける私に、彼は再びペンを走らせた。
『やくそくする』
その瞬間、心地良い風が私と藍の髪の毛を揺らした。
瞬きをすると目の端に溜まっていた涙が流れ落ちた。
まるで涙とわだかまりを吹き飛ばしていくような風だった。
藍はメモ帳を閉じて窓の外を見つめていた。そんな彼はいつもより少しだけ大人びて見える。
今はまだ藍が何を抱えているのか私には分からない。
でも、待ってみようと思う。
藍の言葉を信じてみようと思う。