6話「ハイドランジア」
冬に次いで私の嫌いな季節、梅雨がやってきた。
地面を叩く雨音に、異常な程の湿り気。雨に濡れたコンクリートは凍結した路面と同じくらい憂鬱なものだ。
そして、何よりの理由は他にある。
私は洗面所の鏡に映る自分に大きく溜め息を吐いた。
そう、梅雨が嫌いな一番の理由はこれだ。
湿気のせいで髪の毛が広がってしまうということ。しかもそれは尋常ではない。生まれつき酷い癖っ毛で、雨の日は特に左右に広がり、戦場を潜り抜けてきたかのような姿になってしまう。
無理矢理くしを通せば、髪の毛が数本シンクへと落ちていった。
鏡越しに見た藍の髪の毛の落ち着き様に多少苛立ちながらも気合いでなんとかセットを終えた。
今日は大学の講義がない。そのため、今日は一日研究室にいようと考えていたのだが、祖父が真っ黒な喪服に身を包んでいたため予定は変わってしまった。
「どうしたの、その格好」
鏡の前でネクタイを整える祖父に問いかけた。
「榊の奥さんが亡くなったんだよ」
彼は静かに答えた。
榊という人物は一生物学者であり祖父の友人だ。私も面識がある。その奥さんが亡くなり、今日、葬儀があるらしい。
「じゃあ、行ってくるよ」
いつもとは違う祖父の背中を見送り、私は朝食の準備を始めた。
藍と2人向き合うように座り黙々と朝食を食べている最中、祖父の喪服姿が頭に浮かんだ。
今まで祖父はどれだけの葬式に参加してきたのだろう。どれだけの「死」を見てきたのだろう。きっと私なんか比べものにならないくらいの別れを経験してきているはずだ。
その時、ふと私の中にある疑問が浮かんだ。
「……死んだ後ってどこに行くんだろうね」
無意識に声に出ていた。
その言葉に反応した藍が私を見た。
深い意味はない。久しぶりに感じた「死」に、怖くなったんだと思う。
「天国なんてないよね、きっと」
有るのだとしても、それはもう別世界なんじゃないかと思う。
「ただ、消えて失くなるのかな……」
静寂が私達を包み込む。雨音が微かに聞こえている。
私は藍に目を向けた瞬間、思わず体を大きく揺らしてしまった。
彼が涙を流していたからだ。
小さな雫が彼の頬をゆっくりと伝い、そして机の上へと落ちた。
「なんで泣くの?」
箸を持ったまま、ぽろぽろとひっきりなしに涙を流している。
「……じゃあ何、藍は天国があると思うの?」
私がそう言うと彼は慌てて目を擦り、「勿論!」というような力強い頷きを見せた。
まるで自分は経験してきたかのようだ。
「まあそういうことにしておくよ」
何か文句ありげな彼を他所に、私はご飯を口に運んだ。
翌日、祖父は珍しい提案を持ちかけてきた。
「どこか出掛けようか。3人で」
特にこれといった用もないため深く考えず軽い気持ちで「いいよ」と言った。藍も首を縦に動かした。
「……いいところを知ってる」
祖父は穏やかに笑った。
電車を何度も乗り継ぎ、目的地に到着したのは自宅を出てから2時間半くらい経った頃だった。
雨が降っているためか人の数は疎らだ。
「フラワーパーク……」
入口のゲートの看板に書いてある文字を口に出して読んだ。どうやらいいところというのは花園だったらしい。
定員から渡されたパンフレットを何となしに見てみると綺麗な紫陽花畑が載っていた。
祖父は何故、急に3人で出掛けたいなどと言い出したのだろう。人込みや研究に関係のない遠出を嫌う人だというのに。
何かあったのだろうか。
でも、それは愚問のような気がした。人一人亡くなったのだ。友人の奥さんといえど、何も感じない方が変なのかもしれない。
所々に看板があり、矢印の書かれたそれは道順を示していた。
私達はその通りに木の板が敷かれた道を歩いていく。左右に広がるのは色とりどりの花達。
私の数歩前を歩く藍は、数えきれない程の花を見てとても嬉しそうにしている。何がそんなに楽しいのか。
厚い雲に覆われた空に目を向けると雫の一つ一つが目視できた。
私の頬に落ちた雫がまるで涙のようにつたっていった。
少し歩くと、大きく開けた場所へと来た。
そこに看板の付いた門があった。英語で「ハイドランジア」と書かれている。
門を開いて、階段を上っていくと幻想的な光景が広がっていた。
沢山の紫陽花が私達を包み込むようにして咲いていたのだ。
「すごい……」
圧巻だった。久しぶりに心が揺さぶられたような気がした。
「変わってないね」
祖父はそう言いながら微笑んだ。それには寂しさと懐かしさが混ざっているようだった。
今朝から降り続いていた雨はいつの間にか止んでいた。
藍は持参していたスケッチブックに紫陽花の絵を描いている。
私がプレゼントしたスケッチブックをちゃんと使ってくれているらしい。何だか胸がこそばゆい。
私と祖父は彼から少し離れた場所にあるベンチに腰掛けた。
「藍君とは最近どうなの。仲良くやってる?」
「……まあまあじゃない?」
「晴陽は彼が嫌いなの?」
「別に嫌いじゃないよ。たまにむかつくけど」
私の皮肉に祖父は口元を押さえてくすくす笑った。
そんな彼を横目に言葉を続けた。
「でもね……藍はよく分からない。もう半年くらい一緒にいるのに、私達って藍のことほとんど知らないんだよね」
知っているのは「藍」という名前と誕生日は7月ということだけ。
肝心なことはいつもはぐらかされる。
だから未だに知らないのだ。彼はどこから来て、どうしてこの場所にいるのか、も。
「……まあでも、いいんじゃない?」
そう言って祖父が藍の方を見たので私も彼を見た。紫陽花とスケッチブックを交互に見ながら熱心に絵を描いている。
そんな藍の姿を見て口角を上げた祖父。
変なところで楽天的な彼に深いため息を吐いた。
何もいいことなんてない。だって、もしも――もしも何も知らないまま彼がどこかに行ってしまったらどうするのだろう。
そう思った瞬間、私は無意識に「あ」と声を漏らした。
私は彼との別れに怯えているのだろうか。彼が自分のことを話してくれないことにいじけているのだろうか。
「……おじいちゃん、カメラってある?」
「ん? あるよ」
私は祖父から使い捨てカメラを受け取り、それを藍に向けた。内緒で撮って、後で彼に見せてやろうと思った。
だが、シャッターを切った時だった。一瞬目の前が真っ白になったような気がして思わずカメラを目から離した。
「どうかした?」
祖父の問いかけに私は首を振った。
数日後、フラワーパークで撮った写真の現像が終わった。
店員から写真を受け取り、私は待ちきれず店を出る前にそれを見た。
綺麗な花の写真が沢山撮られていた。きっと祖父が撮ったのだろう。
一枚一枚に目を通していくとあることに気づいた。
藍の写真がない。
彼を紫陽花と共に撮ったはずなのにどこにも見当たらなかった。
私は不思議に思い、店員の元へと戻った。
「すいません、写真ってもう1枚ありませんでしたか?」
「いえ、それで全部だと思いますよ」
私が見落としてしまったのか、もう一度写真を確認したがやはり彼の写真はなかった。
もしかしてシャッターがちゃんと切れていなかったのだろうか。
私は、藍を撮った時、目の前が真っ白になったことを思い出した。
あれは何だったのだろう。