5話「予期せぬ来訪者」
季節は冬から春へと変わり、庭の梅の木も綺麗な花を咲かせていた。
朝、身支度を終えて居間に行くと、机の上に何か紙が置いてあった。
祖父からの伝言かと思ったけれど、そこに書かれていたのは文字ではなく一本の桜の木だった。
いや、違う。桜ではない。
「これ……庭の梅の木?」
多分、ここの家の庭にある梅の木だ。
だいぶ実物に近い画風で描かれている。鉛筆のみで表現されているが、本物に劣らずの存在感だ。
誰が描いたのだろうか。
梅の木の絵にしばらく見入っていると、そこへ身支度を終えた藍がやって来た。
「あ、おはよう、藍」
私が挨拶をすると彼は顔色を変えた。
何だ? と思って彼を観察すると、何やら目線が私の手元にある紙に向いている。
もしかしてこの絵が気になるのだろうか。
梅の木の絵を見せてあげようと紙を掲げた瞬間、彼は物凄い勢いで私からその紙を奪い取って体の後ろに隠した。
この反応に私はまさかと思った。
「あ、藍が描いたの……?」
その問いかけに彼は小さく頷いた。
素直に凄いと思った。まだ子供だというのに、ここまで描けるなんて。
ふと、あることを思いつき、「ちょっと待ってて」と藍に告げてから自室へ向かった。
「これ、あげる」
私は自室から持ってきた新品のスケッチブックを彼に手渡した。研究資料をまとめようと思って買ったのだが、結局使わずじまいだった。だからこれは彼にプレゼントすることにした。
「使って。ちゃんとしたものに描いた方がいいよ」
藍はおずおずとスケッチブックを受け取り、表紙の部分を見つめると嬉しそうに口角を上げた。その姿に私も自然と顔が緩んだ。
ありがとう、と口を動かした彼に、「どういたしまして」と答えた。
一限目の講義を終え、キャンパス内を歩いていると唐突に声を掛けられた。
珍しいこともあるものだと思った。皆、遠目に見るだけで関わろうとしてこないから。
「これ……橘さんに渡してくれって」
茶髪のいわゆる、いまどきな感じの男性だった。話したことはなかったけれど、何度か構内で見かけたことはある。
彼はホッチキスでまとめられた資料を差し出してきた。
「どうもありがとう」
紙を受け取りながらそう言うと、彼は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
お礼を言うだけで驚かれるなんて。私は礼も言えないような非常識な人間だと思われているのだろうか。
でも、今までの冷血な態度からそう思われても仕方が無いことなのかもしれない。
もう少し自分の態度を改めようと思った。
正午を回り、昼食を取るために学食へと向かう途中、数人の女学生が何かを囲うようにして溜まっていた。
「どうしたの? 迷子?」「可愛いっ、誰か探してるの?」「私が連れてってあげようか?」
明らかに普段より1トーン上であろう声で、次次に中心へ向かって話しかけていた。
何をそんなに、と遠くからさりげなく覗き込むと女学生達の隙間から子供らしき姿が見えた。
私は思わず二度見した。
だって、その子供は私のよく知る人物だったから。
「藍!?」
思わず漏れてしまった声に藍どころかそこにいた女学生までもが私を見た。
「え……橘さん?」
女学生達は顔を見合わせてこそこそと何かを話している。
怪訝な顔でこちらを見る彼女達とは対照的に笑顔で駆け寄ってくる藍。
私は彼の手を引いて足早にその場から立ち去った。
「何でここにいるの⁉︎」
ある程度歩いた所で足を止めて強い口調で藍に問いかけた。
彼は申し訳なさそうな顔で遠慮がちにポケットから何かを取り出した。
私の携帯だった。
彼はそれを大学まで届けに来てくれたのだ。正直、忘れていたことに気づいていなかった。それほど私の中で携帯の価値は低い。
「こんなの……別にいいのに」
私の反応に藍は分かりやすく凹んだ。ああ、またやってしまったと思った。
彼の悲しそうな顔にいたたまれなくなり、私は咳払いをしてその場の空気を変えようと試みた。
「藍だけで来たの?」
こくりと頷く藍。自宅から2時間以上かかる大学までたった一人で来たという。彼の凄まじい行動力に感心してしまった。
それはさておき、とりあえずこの状況を祖父に連絡することにした。
藍がいなくなったと心配しているかもしれない。
『はい、橘研究室です』
「もしもし、おじいちゃん? 藍が大学にいるんだけど」
『本当に行ったんだ……藍君はすごいね』
「じゃあ携帯のこと、おじいちゃんが頼んだの?」
『違うよ。藍君がどうしても行きたいって言ったんだよ。晴陽に会いたかったんじゃないかな』
藍へ視線を向けると、不思議そうな顔でこちらを見上げた。
どうしてこの子はこんなに私に懐いているのだろうか。
初詣の時だって、さっきだって酷いことを言ったというのに。
そんなことを考えていると、不意に、カレーのような匂いが鼻をかすめた。
それで思い出したが、私は今の今まで昼食を取るために食堂へ向かっていたのだ。
そう意識した途端、強烈な空腹感に見舞われた。
私は膝を折り、藍と同じ目線の高さまでしゃがみ込んだ。
「ねえ、藍。お腹空いてない?」
学食は昼時を過ぎていたためかあまり人がいなかった。
私はいつも食べているお気に入りのメニュー、麻婆丼を2つ頼んだ。値段も手頃でとても人気が高く、売り切れる時もあるくらいだ。
「おまたせ」
それを持っていくと藍は目を輝かせた。
「美味しい?」
私の質問に、彼は口いっぱいに麻婆丼を頬張りながら、ぶんぶんと激しく首を上下に振った。
彼が私の側にいる理由は何なのだろう。
どうしてそこまで私のことを――。
「藍、あのさ……」
私は続きの言葉を失った。
何故なら、こちらを向いた彼の鼻の頭に麻婆丼の汁がべっとりと着いていたのだ。
思わず、ふっ、と唇から息が漏れた。
だって本当に間抜けな顔をしていたから。
彼は自分の醜態に気づいていないらしく、私が声を出して笑っているのを首をかしげて見ていた。
「いいや、何でもない」
笑いを堪えられない私は今は何も言わないでおこうと思った。
午後の講義には出席せず、昼食を食べた後すぐに大学をあとにした。さすがに藍を一人で帰すことはできなかった。
駅のホームで電車を待っていると、楽しそうに会話をする母と子らしき2人が目の前を通った。
その人達は私達と少し離れた所で足を止め、同じように電車を待った。
藍よりもだいぶ幼い男の子が飛行機の模型を手に、「ブーン、キーン」と効果音を発しながらそれを動かして遊んでいる。
「ぼくねー、おっきくなったらねー、ひこうきのうんてんしゅになるんだよ!」
「そっかあ、すごいねえ」
女性は優しく微笑みながら男の子の頭を撫でた。
「……藍は夢ってある?」
唐突に、私はそう問いかけた。
藍は少しだけ驚いていたような顔をしたけれど、いつものメモ帳に『あるよ』と書いた。
「何になりたいの?」
私は再び問いかけた。
『なりたいとかじゃないよ』
彼はそんな言葉を返したけれど、意味がよく分からなかった。
少しの沈黙の後、私はまた口を開いた。
「私はさ……生物学者になりたいの」
改めて誰かに言うのは祖父以外では初めてだった。わざわざ話さなくても目に見えていることかもしれないけれど。
「生物学者になって、おじいちゃんの隣に胸張って立ちたいの」
藍はこちらを一瞥してからすらすらとメモ帳に文字を書き始めた。
『きっと、なれるよ』
その言葉に嘘臭さを感じてしまうのは私が捻くれているからだろうか。
でも、嬉しいと思うのも確かだった。