4話「21回目の誕生日」
あれから1ヶ月が過ぎた。
いつの間にか私の中で、藍の存在が障害ではなくなっていた。
彼は毎日夕食の準備を担当するなど、橘家の一員になりつつあった。
未だ厳しい寒さが続く毎日。朝、布団から出る瞬間が苦痛で仕方ない。冬眠したい。朝が来る度にそう思っていた。
藍が来てからも時間のサイクルが変わることはない。今日もまた大学の講義を受けるため、朝5時に起床していた。
寒さに耐えながら身支度をしていく。まだ私以外誰も起きていない。
祖父と藍、2人の分の朝食もついでに用意して私は一人食事を済ませた。寝坊でもしない限りはいつも朝食を作っていた。
まだ辺りが暗い頃、私は玄関を出た。
何となしに梅の木の方に視線を向けた私は思わず「うわ!」と声を上げた。
まだ寝ていると思っていた藍が立っていたからだ。彼は梅の木をじっと見つめたまま動かない。私は彼に近づいて隣に並んだ。
「これ、梅。まだ全然咲いてないけど」
私がそう言うと藍はこちらを向いた。そして再び梅の木に視線を戻した。
「何か気になるの?」
そう問いかけると藍は私に向かって微笑んだ。そして、満足したように家の中へと戻って行った。
「何だったんだ……」
私の中で何かが変わり始めている、といっても大学での他人に対する態度は今までと変わらなかった。今日もまた誰とも会話をしないままキャンパスを後にした。
普通なら講義が終わった後はそのまま研究室へとまっすぐ向かうのだが、今日は研究資料を忘れてしまっていたため止むを得ず一旦自宅に寄ることにした。
玄関を開けると何処からか慌ただしい足音が聞こえてきた。
それの正体は藍だった。彼は息を切らしながら、『おかえりなさい』と書かれた紙を私に見せている。
「た、だいま……」
突然のことに驚く私を見て嬉しそうに笑っている藍。私の帰宅を待ち望んでいたかのような彼に少し照れてしまった。
そして、誰かが自分の帰りを待っているということが、こんなにも心地よいことなのだと知った。
家の中に入ってから藍は私の後をずっと付いて来ている。メモ帳とボールペンを持ちながら何処か落ち着かない様子だった。
「何?」
私は振り返って藍に問いかけた。すると、彼は慌ててメモ帳に何かを書き始め、それを私に見せてきた。
『食べ物は何がすき?』
脈絡の無い質問に面食らいながらも、咄嗟に思いついたものを口にした。
「……オムライス」
藍はそれをメモ帳に書くと、満足したように何処かへ去っていった。
私はてっきり夕食をオムライスにしてくれるのかと思ったのだが、どうやら今夜はシチューらしい。藍の質問の意図がますます分からなくなった。
翌日、朝から藍の様子がいつもとは違っていた。
私よりも早く起きていたり、食事中何度もこちらを見てきたり、私が家の門を出るまでずっと室内から見ていたり、とにかくおかしかった。
まさか今更になって変な事を考えているのだろうか。彼を疑っているわけではないがまだお互いをよく知らない。いつもと違っていれば、それは気になってしまう。
だが、腕時計に目を向けた瞬間それどころではなくなった。短い針が7と8の間を指していたため駆け足で駅へと向かった。
「またこの前と同じか……」
大学内の研究室で私は小一時間ずっと同じ資料とにらめっこしている。
最近、思うような結果が出ない。
度々訪れる不調期に今どっぷりと陥っている。
私は大きなため息を吐き、机に両肘をついて頭を抱えた。
その時、同じ科の学生が載っている新聞が目に留まった。同い年の女性でとても綺麗な人だ。彼女の研究は世界的にも注目されている。
学んでいることは同じなのに、私と彼女は何故こんなにも違うのだろう。もしかして、これが素質というものなのか。
窓の外には友人と話す学生の姿がちらほら見える。皆、とても楽しそうだ。
そんな人達と私は違う。頭の中でそう線引きしていた。しかし、自分が決めた道をも満足に進めていない。
私は一体何をしているのだろうか。窓の外にいる彼らの方が余っ程――。
私は……、欠落だらけの人間だ。
地元に着いたのは午後10時を回った頃だった。
あの後、7時過ぎまでテーマを練り直し、新たな研究に取り組むことにした。
最寄りの駅から自宅までの帰路、誰一人歩いていなかった。
「ハッピーバースデー‼︎」
クラッカーの音と共にどこからかそう聞こえてきた。数人のとても楽しそうな笑い声も混じっている。
私は首に巻いていたマフラーを掴んで少し持ち上げて耳を隠した。
「なんだ……2人ともいないのか……」
自宅は電気一つ付いておらず、雨戸が閉まっていた。
この時間、ここに誰もいないのは久しぶりだ。なんだか少しだけ寂しく感じてしまう。
そんなことを考えながら玄関の鍵を開けると、温かい空気がふわりと体を包み込んだ。
誰もいないはずなのに人の気配を感じた。
「ただいまー……」
試しに声を発するも返答はない。
「誰かいるのー?」
やはり返答はない。
私は身構えをしながら忍び足で居間へと向かった。
扉が閉まっているため中の様子をうかがうことができない。
バッグを胸の前に持ち、覚悟を決めて勢いよく扉を開けた、まさにその時だった。
パンッ、パンッ、と乾いた音が家中に鳴り響いた。
「きゃあ‼︎ 何!?」
私は突然のことに対応しきれず焦ってしまい、何かにぶつかってバランスを崩し尻餅をついた。
不意に明るくなる視界に私は目を細めた。誰かが電気を付けたらしい。
「え……ほんと、何……」
目の前に広がる光景に驚きを隠せなかった。
祖父と藍がクラッカーを持って両脇に立っていた。
わけが分からず、ぽかんとする私に満面の笑みを見せる藍。
「今日は君の誕生日でしょ」
祖父はゆっくりとしたトーンでそう言った。
そうか。今日は私の21回目の誕生日だったんだ。
誕生日などすっかり忘れていた。
言われるがままに椅子に座ると、藍が台所から何かを運んできた。
「これ……」
私の目の前にはオムライスが置かれた。表面にはケチャップで「ハッピーバースデー」と書かれている。
藍が私に好きな料理を聞いてきたのはこういうわけだったのだ。
「誕生日おめでとう。晴陽」
祖父は薄い笑みを浮かべながらそう言った。
藍も『誕生日おめでとう』と書かれた紙を持って嬉しそうにしている。
「藍君が作ったんだよ」
祖父の言葉に藍は照れ臭そうに頭を掻いた。
私は驚きを隠せなかった。
誕生日なんて毎年いつの間にか過ぎていた。多忙な祖父に申し訳ないという思いが働き今まで自分の誕生日を祝うことはなかった。それは母と住んでいた時も同じことだった。
「いただきます」
両手を合わせてからオムライスを一口食べた。
まだ母が生きていた頃、一度だけ私の誕生日会をやったことがあった。2人だけの小さな誕生日会だった。
その時に母はオムライスを作ってくれて、ケチャップで『ハッピーバースデー』って書いてくれた。
お互いに食べさせ合って、美味しいねって笑い合ったりした。
気づいたら私の頬に、温かい雫がつたっていた。
どうして私は泣いているのだろうか。疲労で涙腺が弱くなってしまっているのだろうか。
流れ続ける涙を気にせず、一口、また一口とオムライスを口に入れた。
久しぶりに食べたオムライスはしょっぱかった。
「晴陽、君は本当によく頑張っているよね。いつもお疲れ様」
その言葉に私は耐えきれず嗚咽した。
人からの愛情というものは、こんなにも温かいものだったんだ――。
祖父は仕事が残っているからと席を外し、藍と2人きりになった。
「ごちそうさまでした」
オムライスを完食し、私は思い切り伸びをした。
藍の方にちらりと視線を向けると、にこにことなんとも楽しそうにこちらを見ていた。
「何笑ってるの、もう」
何だか負けた様な気がして、彼の小さな鼻を親指と人差し指で摘んでやった。
「オムライス、まあまあ美味しかったよ。まだまだだけどね」
そう言うと、彼は頬を膨らませて悔しそうにした。
素直に美味しいと言えばいいものを、それとは裏腹にこんな捻くれた言葉しか出てこない。
「……ありがと、藍」
私にしか聞こえないような声で呟いた。いつか本人に面と向かって言える日が来るのだろうか。
「……ゆっくりでいいよね」
その言葉に首を傾げている藍に、私は「何でもない」とだけ答えた。
怒ったり、嫉妬したり、泣いたり、藍が来てからというもの私は彼に振り回されてばかりだ。
しかし、私の硬い殻にひびを入れたのもまた、彼かもしれない。
「ねえ、藍は誕生日いつなの」
その問いに彼はメモ帳に返事を書き示した。そこには数字の「7」が大きく書かれていた。
「7月? 何日?」
『ないしょだよ』
「出た、それ。ほんっと生意気なんだから」
私のそれに彼は、にししと歯を見せて笑った。
21回目の誕生日は私にとって特別になった。