3話「本当の気持ち」
神社から帰宅して何時間経ったのだろう。
辺りはもうすっかり暗くなり、昼間よりも一段と気温が下がっている。
藍はあれから帰ってきていないらしい。私の自室以外は真っ暗だった。
私は一人大きな溜め息を吐いて机に項垂れた。
「あそこまで言う必要なかったな……」
突然、玄関が開いた音がした。
一瞬、藍かと思ったけれど帰ってきたのは祖父だった。自室から出ると丁度鉢合わせた。
「真っ暗だったからいないのかと思ったよ」
「……ごめんなさい」
私は祖父の目が見れなかった。見ることなんてできなかった。私は最低なことをしてしまったから。
祖父は私の態度に不思議そうにしている。
昔から勘のいい人だ。家の電気が付いていなかった時点で気づいたかもしれない。
「ごめんなさい」
私はもう一度そう言った。
祖父は一呼吸入れてから口を開いた。
「藍君を引き入れたのは、晴陽、君のためでもあったんだ」
その言葉がよく分からなかった。私のためとは一体どういう意味なのだろうか。
彼は淡々と続けた。
「晴陽には、もう少し沢山の人と関わって、人間について学んでほしい」
そう思ったんだよ、と窓の外に目を向ける祖父。
「人と関わることで沢山の新しい発見に出会える。それは幸せなことかもしれないし、あるいは辛いことかもしれない」
彼は窓の外から私に目線をずらした。未だに直視できずにいると、頭の上に優しく何かが置かれた。
幼い頃から私を支えてくれていた祖父の温かい手だった。
「経験しなければ幸か辛かも分からない。辛も一歩踏み出す勇気さえあれば幸に変えることもできる。藍君はそれができたんだよ」
私ははっとなった。
藍は自らが一歩を踏み出したから、ここにいる。
私は、母が死んだ時から進んでいるのだろうか。
いや、きっと一歩も進んでない。止まったままだ。
それを言い訳にして自分を変えようともしない。ただの臆病者の弱虫だ。
終いには自分の感情からも背を向けている。
「晴陽。自分を責めるのではなく向き合うことが大事なんだよ。向き合って自分の本当の気持ちを見出すんだよ」
私は小さく頷いてから自宅を出た。
藍を迎えに行かなければ。彼に謝らないといけない。
身勝手な思いをぶつけて、汚い自分から目を背けた。
今、向き合わなければ前へ進めない。
いつの日かと同じように雪が降っていた。
あの時の私は自分が止まっていることにすら気づいていなかった。そんな私に今を予想できただろうか。
藍に出会わなければ、こんな汚い自分に気づくこともなかった。ただ、無情に生きていくだけの人生になっていたかもしれない。
何が正解かなんて分からない。だけど、たまには失敗も必要なのだろう。
私は昼間訪れた神社へと来ていた。
彼はここにいる気がした。勘というやつだ。
数時間前まではあんなに賑わっていたのに、人はほとんどいない。神社の関係者がゴミの片付けを行っているくらいだった。
服に付いた雪を軽く払いながら辺りを見回した。視界が暗いため、はっきりとは分からないがそれらしき人影を見つけた。
絵馬がぶら下がっている所の後ろで顔を伏せ小さく座っている子供の姿。
初めて彼と出会った時もこんな感じだった、と思いながら近づいていった。
「何してるの、こんなところで」
私は自分の着ていたコートを脱いで藍に掛けた。それに気づいて彼は顔を上げた。鼻や頬が真っ赤だった。
「凍死するよ」
そう言って私は隣に腰を下ろした。
彼はずっとここにいたのだろうか。――何を思っていたのだろうか。
静かに降り積もる雪を見ながら私は口を開いた。
「私……君が羨ましかった」
視線を感じて私も彼の方を見た。改めて見ると、唇は青く、それに比べて頬や鼻は赤い。長い間外にいた証拠だ。
「ごめん、本当にごめん」
頭をできる限り深く下げて言った。これは本当に心の底から出た言葉だった。
私は、ただ藍が羨ましかった。
皆に受け入れられて、すぐに居場所を作ることができる。そんな順応性が羨ましかった。
私はいつだって1人で。居場所を作ることができなくて。
それは、いつまで経っても変わろうとしない自分のせいだって、頭の何処かで分かっていた。分かっているのに、自分の殻に閉じこもって、それが割れないようにと必死だ。
それなのに藍は強くなりたいと願っている。彼は前に進もうと努力している。
そのことが酷く悔しかった。
私は彼に劣等感を抱いていたのだ。
「酷いこと言ってごめん」
許してもらえるか分からない。
でも、それでもいい。私がただ言いたかっただけなのだから。
次の瞬間、私の髪の毛が何かに引っ張られた。
え、と小さく声を上げながら顔を上げると、口をへの字に曲げた彼の姿があった。
彼は私の髪の毛を何度か引っ張ると、眉尻を下げて柔らかく微笑んだ。
どうして彼は笑っているのだろう。ああ、ダメだな。私は今まで他人を避けて生きてきたから考えても分からないや。
「……藍、帰ってきて」
ちゃんと名前を呼んだのはこれが初めてだった。
彼は周りを見回すと、足下に落ちていた木の枝を手に取った。そして雪の積もった地面へ文字を書いていく。
『もう、おこってない?』
書かれた文字に私が無言で頷くと、彼はほっとしたような顔をした。
ふと、祖父の言葉を思い出した。
彼には何かやりたいことがある、と言っていた。もし、それが憶測でないとしたら一体やりたいこととは何なのだろうか。
「ねえ、やりたいことって何?」
彼は再び文字を書き始めた。
『ないしょ』
呆気にとられる私に彼は悪戯っぽく笑う。少し悔しい気分になった。
「……子供のくせに」
私達の間に今までのような張り詰めた空気はなかった。
藍への劣等感が消えたわけではない。ただ、彼と関わって何が得られるのか少し気になった。
「寒い……やっぱりコート返して」
流石に寒さに耐えられなくなり、藍の肩からコートを取ろうとした。だが、彼は私の手を避けるように立ち上がって走り出してしまった。
「ああっ! こら!」
私は声を上げながら慌てて後を追った。
頭上には藍と出会った日のような空が広がっていた。感じる風の冷たさも以前と同じ。だけど、何かが違う。だとしたらそれはきっと私自身だ。
自分の中で何かが確実に変わり始めているのを感じた。
「だから、余計なことしなくていいってあれほど言ったのに!」
まだ陽が昇りきっていないころ、私は心中穏やかではなかった。その原因は当然の如く、藍だ。
彼はできもしない調理を行い、食材を無駄にしたのは勿論のこと、油の入れ過ぎにより危うく火事になりかけた。起きて早々こんなことに直面した私は怒りが爆発する寸前だった。
「晴陽、藍君に料理を教えてあげなよ」
背後から突然祖父の声が聞こえ、慌てて振り返る。祖父は白衣までしっかり着て、仕度は万全といった感じだった。
「そんな面倒なこと嫌……」
嬉しそうにする藍の姿に声が消えていく。
「じゃ、頑張って」
そう言ってそそくさと家を出る祖父を呼び止めるも、「あー忙しい」と態とらしく早歩きをしていった。
「まあ、ただで面倒見るのもどうかと思うから料理くらい……」
藍を手招きし、料理の基本的なことから教えていった。
彼は意外に飲み込みが早く、カレー程度なら作れるようになった。
夕食は藍が初めて作ったカレーだった。私には少し甘く感じたが結局おかわりをした。
途中、彼が皿を割ってしまったりと、トラブルが多々あり、その度に私は声を荒げた。
祖父は私達のやり取りを見て静かに笑っていた。
その日、私は夢を見た。
真っ白な空間。目の前をひらひらと舞う、紫色の羽を持った蝶。
その蝶を反射的に捕らえようとするも、私の手を器用に避けた。
上へ上へと飛んでいった蝶は、次の瞬間、弾けて――消えた。