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紫青の蝶  作者: やなせ
3/18

2話「黒い感情」

 カーテンの隙間から差し込む朝日に目が覚めた。


 布団から出た途端に身体が冷気に包まれ、両腕を摩りながら自室を出た。




 祖父の家は横に長い平屋で広い庭がある。


 正面から見て左側に梅の木が植えられている。今は葉一つ付いていないが、春には綺麗な花が咲く。



 白銀に覆われた庭に目を向けながら居間へと向かった。

 もうすでに誰か起きているのか、水道の蛇口を(ひね)る音が聞こえた。


「晴陽、おはよう」


 祖父が珍しく家にいた。その理由は分かる。

 洗面所の方からタオルを首に掛けた藍がやってきた。彼は私の存在に気づくと、軽く頭を下げた。




 祖父と私以外がこの家で生活をするのは何年ぶりだろうか。


 祖母は30年以上前に亡くなっているため、私が来るまではこの広い家にたった独りで住んでいた祖父。


 それが今では3人。


 祖父は感情を表に出すような人ではないが、どこか嬉しそうにも見える。


 現に、いくら言っても研究室から出ようとしなかった彼が今ここにいる。

 その心境の変化は大きかった。





「今日は、久しぶりに大掃除でもしようか」


 年越しも近いからね、と私と藍の顔を交互に見る祖父。


 今まで大掃除など年末だろうが何だろうがしていなかった。そのため祖父の提案には正直驚いた。どのような意図があるのか分からなかったが反対する理由もない。


「そうだね。ほこりも大分溜まってるし」


 祖父の提案に頷いた。





 しばらく開けていなかった押入れは、ほこりで溢れていた。少し開いただけでも細かいほこりが宙を舞い、思わず咳き込んでしまう。


 ふと窓際に目を向けると、藍が背伸びをして窓を拭いていた。何だかおかしなことになっているな、と思いつつ掃除を続けた。




「あ……、そうか」


 戸棚の整理をしていた祖父が不意に呟く。何事かと思い、次の言葉を待った。


「今日は友人が研究室に来るんだった。忘れていた」


 腕組みをして、しまったというような顔をする祖父。彼が何かを忘れるなんて珍しいと思った。


 2人ともお願いね、と祖父は慌てて家を出て行った。





 押入れの掃除を終え、未だに窓を拭いている藍の後ろを通り過ぎた。

 何気に窓拭きの様子を見た私の足が止まる。


「えええ……ちょっと……」


 きちんと水気を切れてないのか、窓には水滴の後が沢山付いていた。藍は振り返ると首を傾げた。


 悪気があってそうしてるわけではないと分かったため、私は「ここはいいから洗濯機を回してくれる?」と告げた。

 彼は素直にそれに従った。



 窓を拭き直し、床の掃除を行っていると洗濯機が終わる合図が聞こえてきたため、私は一旦作業を中断し洗濯機のある場所へ向かった。



 洗濯機を開けた私は驚愕した。ほとんどの服が色落ちしていたからだ。


「な、なんで……」


 慌ててその原因を探した。だが、なんとなく色落ちという時点で見当がついていた。多分、洗剤と漂白剤を間違えてしまったのだろう。念の為、藍に確認をすると青い顔をしていた。



 その後も、食器を割ったり、障子を破ってしまったりと私の仕事を増やしていった。


 男の子なのだし家事に慣れてないのだから多少の失敗はあるだろう。そう自分に言い聞かせた。そうでもしないとやっていられる自信がなかった。


 しかし、その数分後に私の平静は失われた。大学に提出する予定だったレポートの上に水を零されてしまったからだ。


「もう何もしなくていいから! 大人しくしてて!」


 藍は肩を大きく揺らすと、私の掃除の邪魔にならないようにか部屋の角へと移動した。



 彼が来てから、私にプラスになるような要素は一つもない。彼を最初に招き入れたのは自分だが今のところ障害にしかなっていなかった。




 祖父は今日も家へと帰ってきた。昔から研究室にこもりっぱなしだった祖父を見てきた身としては少しだけ悔しかった。



「藍君は?」


 帰宅してすぐにこれだ。

 私は無表情のまま冷たく「寝たよ」と答えた。



「……少しは打ち解けられたかな」


 その言葉に、そういうことか、と思った。祖父はあえて私と藍を2人きりにして、少しでも距離が縮まるようにと考えたのだ。だが、彼の考えは裏目に出た。


「ぜーんぜん。私と彼、合わないみたい」


 早くも見切りをつける私に、祖父は苦笑いした。





 大学の講義を終え、研究室へ向かう。藍が来てからもそれは変わらなかった。彼を家に一人きりにするのはどうかと思うが、祖父も私もそれなりに多忙なため仕方がないことだった。



 研究室で祖父は変わらず机に向かっていた。

 私には気づいていない。いつものことなので然程気にしなかった。気にしなかった、というよりもそれ意外のことに意識が向いてしまった、という方が正しいだろう。


 祖父の近くで昆虫図鑑を開いている藍の姿があった。


 私は思わず目を見開いた。


 祖父の机の隣で、窓の真下にある小さなソファー。

 私が幼い頃、一日のほとんどをそこで過ごした。私以外は誰も座ることはない。


 いわば特等席だった。


 それなのに、藍はそこへ当然のように座っていた。ふつふつとどす黒い感情が湧いてくるのが分かった。




「晴陽?」


 祖父の呼びかけで我に返り、私は何事もなかったかのように返事をした。


「何?」


「おかえり。それと、もし良かったら、藍君に勉強を教えてあげて」


「……わかった」



 冷静になれ。藍は悪くない。今までの事も悪気があってしたのではない。まだ子供だ。私はなんて大人気(おとなげ)ないのだろう。


 自分はこんなにも器の小さい人間だったのかと、少し失望した。







 大晦の日、珍しく研究室が賑やかだった。

 祖父の知人らが数人来ており、新しい研究について談笑混じりで話し合っていた。


 そんな中でも私は黙々と自分の作業を進めていたが、聴覚だけは完全に彼らの話に囚われていた。



「……ところで、この子橘君の新しい助手かい?」


 知人の一人が冗談ぽく言う。それが私のことではないとすぐに分かった。


「まあ、そんなところだよ」


 祖父はそう言って笑った。


「ずいぶん可愛らしい助手さんだ」


「名前は……藍君か。綺麗な名前だねえ」


「橘大先生の元で助手をするなんて将来有望だね。楽しみだ」


 皆の笑い声が不協和音のように頭に響く。私は持っていた資料を無意識にくしゃくしゃにしていた。







 元旦の昼間はどのテレビ局も新春特番で占めていた。

 何も考えずにぼうっとチャンネルを回していると、祖父が私の名を呼んだ。

 んー、と適当に返事をする私にある提案をしてきた。


「藍君と初詣でに行ってきてくれる?」


 その後に、残念そうな物言いで「私は用事があってね」と付け加えた。


 正直なところ何故私がと思ったが、そこは私が大人になれなければと思いそれを引き受けた。


 藍は何度も私の方を見ては逸らすを繰り返していた。顔色をうかがっているのが目に見える。


「行くよ」


 彼の方を見ずにそう言ったが後ろから付いて来る気配がしたため、気にせずそのまま玄関を出た。





 自宅から30分程歩いた場所に大きな神社がある。地元の人には割と有名な所だ。初詣でと言ったら皆そこに行くだろう。


 案の定、多くの人で賑わっていた。沢山の屋台から煙が立ち込めている。


 私と藍は参拝するために奥へと向かう。だが、まだ身体の小さな藍は人波にもまれて、姿が見えなくなってしまった。


「ちょっ……どこ!」


 辺りを見回し彼を探した。

 家族連れやカップルが楽しげに横を通り過ぎて行く。彼の姿はもうすっかり消えていた。


 完璧にはぐれた。そう思った時、服の裾が何かに引っ張られる感覚がした。

 その方向を見ると疲れきった藍の姿があった。余程揉みくちゃにされたのだろう。


 人の数は減るどころかどんどん増えていっている。このままではまたはぐれてしまう。


 私は考えた末、彼の手を取り強く握った。

 こうすればきっと、ちょっとやそっとのことでは離れない。彼は少しばかり照れていたが、振り払おうともしてこなかったため気にせず歩き出した。



 まだ小さな手。小さいけれど温かい手。

 人肌を感じたのは久しぶりだ。


 私はなんて寂しい人間なのだろうと思った。




 参拝を無事に終えて出口へと向かう途中、藍は不意に足を止め何かをじっと見つめていた。


 その目線の先には沢山の絵馬がぶら下がっていた。私も彼と同じくらいの頃、一度だけ書いた記憶があった。


「絵馬、書きたい?」


 私の言葉に彼は目を輝かせ何度も首を縦に振った。



 彼が絵馬を書いてる間、私は他の参拝客がぶら下げたそれを見ていた。思わず笑ってしまうような願いや誰かとの永遠を願うもの、他にも多種多様な願いがあった。


 この中に昔、私が書いたものもある。

 そういえば、あの時私はなんて書いたのだろう。





 藍は絵馬を書き終えると、それをぶら下げた。


 彼が書いたものが何となく気になり、後ろから覗き込んだ。




『強くなれますように』


 そう書かれていた。



「別に強くならなくてもいいじゃん……守ってくれる人がいるんだから」



 私の呟きに彼は振り向いた。無意識に出てしまった言葉だった。



 これではまるで私が――――。



 私は自分の失言をごまかすように無理矢理言葉を繋げた。


「えーっと、何か食べる?」


 彼はポケットからメモ帳とボールペンを取り出した。それには見覚えがあった。

 なぜなら以前、祖父が持ち歩いていた物だったから。


 その瞬間、私の中で何かが切れた。



「それ、おじいちゃんのメモ帳……貰ったの?」


 彼は笑顔で頷く。その表情はさらに私を(あお)った。


「……そうやって愛嬌振り撒いて、何が目的なの? どうしてここにいるの? 私達にどうしろっていうの? 今まで2人で暮らしてきたのに、急に何?」


 彼は恐怖におののくような青い顔をしていたが、もう感情を制御することができなかった。


 私は大人で彼は子供。それを忘れてはならない。何度も何度も己に言い聞かせた。


 それでも、もう無理だった。



「もう、うんざり。迷惑なの」



 うつむく彼を余所に、私は人混みの中へと入って行った。

 相変わらずの人の多さに吐き気がした。彼が後ろを付いて来る気配はない。


 私の最後の言葉に、彼はどのような顔をしていたのだろうか。

 怖くて見れなかった。




 その日、藍は夕方になっても帰って来なかった。

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