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紫青の蝶  作者: やなせ
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1話「謎の少年」

 私は祖父の母校でもある、生物学が専門的に学べる大学へと進学した。


 資金については母が残してくれていた貯金と高校在学中のバイトでの給料、足りない分は奨学制度を利用して何とか通うことができている。




 自宅から大学までは2時間程かかる。


 私が住んでいる所はいわゆる田舎というやつで、非常に交通の便が悪い。電車は1時間に3本ほどしか無く、加えて何回も乗り継がなければ大学まで行くことが出来ない。


 それでも生物学を学ぶためと思えば苦ではないし、祖父を残して大学の近くに一人暮らしをする気などさらさらなかった。 




 キャンパス内を歩いていると、5人に1人は振り返る。

 それは美人だからとかそういう類いのものではなく、生物オタクの変人として有名だったからだ。



 私を見る目の大半は哀れみだ。


 友達も恋人もいない、ただ勉学に勤しむ可哀想な女というレッテルが貼られていた。



 幼い頃から感じていたことだが、どうやら私は協調性に欠けるところがあるらしい。

 小中高共にクラスに馴染むことができず、打ち上げなど呼ばれたことすらなかった。


 そもそも誰かに関わろうという気が無かったのかもしれない。


 それは大人になっても変わることはなかった。






 大学の講義が終わった後、祖父の研究室へと向かうのが私の日課になっていた。



 母に連れられ祖父の橘正司の家へとやってきて早15年。

 幼かった私をここまで育ててくれた。


 生物学を学ぼうと思ったきっかけもこの人だ。

 私に新たな道を与えてくれたのだ。


 幼い私は願った。いつか同じ学者として祖父の隣に立ちたいと。勿論今でも変わらない。




「ただいま」


「おかえり、晴陽(はるひ)


 研究室では祖父が椅子に座り何かの資料を読んでいた。


「それ、この間の?」


「ああ……」


 祖父から資料を受け取り、それに目を通す。


 幼い頃は難しすぎて分からなかった資料も今では理解できる。

 研究について共に意見を言い合える。頭の中に次から次へと新しい知識が入ってくる。


 私の毎日は充実していた。





 それは雪がしんしんと降り積もる日のことだった。


 祖父はいつも通り研究室で夜を明かすらしい。

 もう年なのだからそろそろ温かい布団で身体を休めてほしいとも思う。


 しかし、祖父の生物学に対する執着は私など足もとにも及ばない。いくら言っても無駄なのだ。



「じゃあ、家に帰るね」


「雪が結構降っているから気をつけて」


 私の言葉に、顕微鏡を覗いたまま返答する祖父に「もう……」と呆れながらも顔が緩んでいくのがわかった。




 雪が積もった道路は歩くのが困難だった。


 未だに雪には慣れない。昔、凍結した路面で足を滑らせて頭を打ったことがあった。それがトラウマとなり「雪」という単語を聞いただけで嫌気が差してしまう。



「寒い……寒すぎる……」


 肩をすくめながらぶつぶつと呟く。

 極度の冷え性なため、この季節は本当に辛いものだ。衣服に貼るタイプの懐炉(かいろ)は欠かせない。今だって3枚貼っている。それでも寒い。


 車の往来もなく、ただぼんやりと雪の積もった地面を照らす外灯。

 星一つなくて深い闇と化している夜空。

 時折、頬を掠める冷たい風。


 私は身震いをしてから歩くスピードを速めた。





 ようやく自宅に辿り着き、鞄の中から鍵を探りながら玄関へと近づく。


 ふと目に入った腕時計は11時を示していた。雪のせいでいつもより時間がかかってしまったらしい。


「あっ……」


 寒さで手が(かじか)んでいたため、せっかく取り出した鍵を冷たい雪の上へ落としてしまった。



 溜め息と共に膝を折って鍵へ手を伸ばそうとした時だった。




「誰……?」



 玄関の前に誰かが座っていた。

 暗闇に薄っすらと見えるその存在に目を凝らした。



 疲労のせいで見てはいけないものが見えてしまっているのかもしれない。

 私は念のため指先で両目を軽く擦ってみたが何も変わらなかった。

 どうやら見間違いでも、俗に言う幽霊でもないらしい。



 恐る恐る玄関へと向かっていくと、だんだんと姿が認識できてきた。

 体格からするとまだ子供だろうか。髪の短さからして男の子かもしれない。

 顔を伏せていたため表情は分からなかった。



 こちらに気づいていないのか、それとも眠ってしまっているのか、大分近づいてみても顔を上げない。


 それにこの寒さだ。もしかしたら――なんてことも考えてしまい慌ててその子の肩を叩いた。


 すると、肩を揺らしてゆっくりと顔を上げた。

 女の子のような顔立ちをしているが体型からするにやはり男の子だ。どこか虚ろな瞳のまま固まっている。



「君、大丈夫?」


 そう問いかけた瞬間少年の表情が変わり、勢いよく私の手が掴まれた。彼の手は氷のように冷たかった。


 掴まれている私の手に温かい雫が落ちた。涙だ。少年は声もなく泣いていた。


「え……? あの……」


 彼の涙の理由が分からず、自分が何かしてしまったのかと不安になった。それと同時に面倒事に巻き込まれてしまったと思った。



「なんなの……、君は一体……」



 この寒さの中ずっと外にいるわけにはいかない。きっと凍死してしまう。


 しかし、私一人だけ家の中に入り少年を外に置き去りにするなどあまりにも酷だ。

 だからと言って見ず知らずの人間の世話をする義理もない。


 だがやはり、まだ幼い少年を放っておくのは人としてどうかと思い、家の中へと引き入れた。





 玄関に入り、取り敢えず電気を付けた。

 暗闇では見えなかったが少年は身体のあちこちに怪我をしていた。服だって所々泥のようなもので汚れている。普通ではない様子だった。


 まずは事情を聞こうと思ったが、そんな状態の少年に聞く気にはなれなかった。


 私は彼にシャワーを浴びるように言った。

 肩をすくめて震えている姿を見てられなかった。




 少年がシャワーを浴びている間、ストーブを付けて部屋を温かくしてから腰を下ろした。


 今まで人と関わろうとする気がなかった私が、見ず知らずの人間を家に上げるどころかシャワーまで貸すなんて。いや、私を待っていたのだとしたら、待たせた身として当然なのかもしれない。




 数分後、少年は髪の毛からぽたぽたと雫を垂らしながらやってきた。


 間に合わせで用意しておいた私のジャージを着て、裾を引っ張ったり体をひねって後ろを見たりしている。ズボンの裾を引きずっており、彼にはサイズがあっていないようだった。


「ごめん。大きかったね」


 彼は私の言葉に首を横に振り、最後に深く頭を下げた。その際も毛先から雫が滴っている。


 それが何となく気になりつつも咳払いをしてから話を切り出した。


「えーと……名前は?」


 その問いかけに彼はただ黙って俯く。私は質問を続けた。


「何処から来たの?」「親御さんは?」「どうしてここにいたの?」


 いくら問いかけても何も答えようとしない少年。

 両手で服を強く握りしめている。その手は小さく震えていた。


 もしかして怖がらせてしまったのだろうか。そう思った私は言い方を変えることにした。


「一人で来たの?」


 先ほどよりも声のトーンを和らげて問いかける。彼は小さく頷いた。


 まだ幼い子供が、しかもこんな夜遅くに一人でなんて不自然だ。それとも途中で保護者とはぐれてしまっただけなのか。どうしてこの家の玄関先でうずくまっていたのか。

 私の頭の中では色々な疑問が渦巻いていた。



 自分のことを話してくれさえすれば全てが解決するかもしれないのに、と未だに俯いたままの少年に溜め息を吐いた。



 もしも彼が保護者に何も言わずここにいるのだとしたら、さぞかし心配しているに違いない。警察に捜索願いだって出しているかもしれない。


 しかし、一概にそうとは言えない。少年の身体中の怪我は虐待によるものかもしれない。



 何にせよ今のこの状況が良くないということは分かった。


「仕方ない。警察に……」



 110番をしようと携帯を取り出したその瞬間、少年が慌ててそれを奪い取った。


「は!? ちょっと!」


 走り出そうとした彼の腕を掴んで携帯を取り返した。だが、しつこく何度も奪おうと手を伸ばしてくる。その度に彼の髪の毛から雫が落ちて、私の顔や服にかかり冷たかった。


「ス、ストップ! 待って! 分かったから!」


 彼は自分の行為に反省したのか私の隣に正座をした。



 一体どうしろと言うのか。


 どうやら彼は自宅に帰ることを望んでいないらしい。ただ単に反抗期という可能性もあるが。




 悩んだ末に私が出した結論。



「今日はここで休んで」


 彼を一泊させた後、祖父の研究室に連れて行くことに決めた。明日は大学の講義もなく都合が良い。



 私の言葉に表情を明るくする彼に「ただし」と鋭い目線を送った。


「下手な真似したら、違う意味で警察に連れていくのでよろしく」


 子供だからといって油断は禁物だ。物取りの線だって捨てきれない。


 何度も首を縦に振る少年。それに偽りはないように見えた。



 誰も使っていない六畳ほどの部屋に来客用の布団を敷いてあげると少年は素直に寝転がった。



 時計を見ると日付が変わっていた。



 まさかの出来事もあり疲労がピークに達していた私は、シャワーも浴びずに眠りについた。







 一晩中降り続いた雪は見事に積もり、太陽に照らされきらきらと輝いていた。



「おじいちゃん」


 研究室に着くと、祖父は休憩中だったらしく、珈琲を飲みながら窓の外へ目を向けていた。



「今日は早いね。……って、あれ?」


 私の隣にいる少年の姿に目を丸くする祖父。



「玄関の前でうずくまってたの。質問しても答えてくれないし、どうしたらいいか分からなくてとりあえず一晩泊めて此処に連れて来たの」


 私が状況を説明している中、祖父は少年に近づいていく。少年は身を固くして祖父の一挙一動に反応していた。



「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」


 少年の頭に手をおいて穏やかな表情をする祖父。少年の身体から少しだけ力が抜けたように見えた。


「名前を聞いてもいいかな」


 祖父の問いかけに、私の時と同じく何も答えない少年。だが、祖父は彼から何かを感じ取ったのか、ふむ、と片手を顎に置いた。



「君、字は書ける?」


 少年は小さく頷く。祖父は近くの棚からメモ用紙とボールペンを取り出して彼に渡した。


「そこに、自分の名前を書いてもらえるかな」


 少年は言われた通りにペンを動かした。書き終えて、祖父へと渡したメモ用紙には一つの漢字が書かれていた。


(あい)……藍君か。いい名前だね」


 少年は照れ臭そうに首もとをさすった。


 私は、彼が意思表示のできない子供なのだと思っていた。しかし、ただ声を発することができなかっただけなのだと分かった。


「精神的なものかもしれないね」


 呆然とする私に、祖父はさらに信じ難い言葉を続けた。




「藍君はしばらくうちで預かろう」



 私は聞こえてきた言葉に耳を疑った。一体何を言っているのだろうか。



「な、何言ってるの? 預かるって……本気?」


「私はいつだって本気だよ」


 どうやら祖父はそう決めたらしい。きっと私が何を言おうと変えないだろう。今までそうだったのだから。一度決めたことは何があっても変えない、とんだ頑固者だ。



「彼には、何かやりたいこともあるようだし」


 祖父の言葉に藍は心底驚いたような顔をした。


 私は、もうどうにでもなれと投げやりになりながらも数回頷いた。言いたいことは次から次へと溢れてくるが、祖父の生き生きとした表情を見ているとこれが正解なのかもしれないとも思う。



「よろしく、藍君」


 祖父のその言葉を聞くと藍は慌ててメモ用紙に何かを書き始めた。




 そこには歪な字で『よろしくおねがいします』と書かれていた。

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