最終話「はじまり」
大学構内を移動中、遠くの方で聞き覚えのある声がしたため私は辺りを見回した。
あ、と私は息を吐いた。
少し後ろをミナミ君が友人らしき人物と歩いていた。
こういう時どうすればいいのだろう。声を掛けるべきなのだろうか。
そんなことを考えているとミナミ君が私に気づいて笑顔で駆け寄ってきた。
「おはよ!」
彼は笑顔のままそう言った。私もつられて笑顔になる。
変わらず明るい雰囲気の彼。だが、大きく変化した部分が一つだけあった。
「眼鏡……」
彼は黒縁の眼鏡を掛けていた。
「ああ、うん。最近コンタクトやめたんだよね」
ここ数週間、メールでのやり取りばかりで直接顔を合わせていなかったためその姿には大変驚いた。
どちらかと言えば童顔の部類に入る彼の顔を黒縁眼鏡がきゅっと引き締め、以前よりも少し大人っぽい印象を与えていた。
「昔から超ど近眼でこーんな分厚い眼鏡掛けててさ、ほんっとあの頃の自分嫌いだったなあ」
彼は身振り手振りを入れながら説明してくれた。私は黙ってそれを聞いていた。
「でも、昔の俺の方が多分生き生きしてた気がしてさ。まあ別にこうする必要なかったんだけど。眼鏡似合わないし。でもやっぱりやるならとことんってね。で、初心を取り戻そうと思って眼鏡に戻したんだ。だからーー」
彼は急に恥ずかしくなったのか、少しばかり頰を紅潮させ話すのをやめた。
全然恥ずかしいことなんてないのにと思った。むしろもっと彼の話を聞いていたかった。
「ていうか見て、これ! レンズ厚すぎだろって! めっちゃダサくない⁉︎ ウケるでしょ」
彼は眼鏡のフレームを指先でくいっと持ち上げておちゃらけた。でも、彼の自虐の言葉には微塵も賛同できなかった。
「私は好き。今のミナミ君」
彼は私の言葉に赤面した。
つい数秒前まで得意げな表情をしていたのに、今はもう耳まで赤くしてこちらから顔を背けている。
「もう、何それ……どういう意味?」
真っ赤になった顔を手で隠しながら彼は問いかけてきた。
「どういう……そのままの意味だよ」
「あー、もう……これだから……」
彼は私の答えがお気に召さなかったらしい。答えになってないよ、とため息を吐いた。
それから会話は途切れてしまい、私達の間に沈黙が訪れた。
けれど、少ししてミナミ君が何かを決心したように深呼吸した。
「橘さん……俺、橘さんのことただの友達だと思ってないからね」
「何それ、どういうこと?」
「だから、その……つまり橘さんがーー」
彼の言葉は最後まで聞こえなかった。なぜならそれと同じタイミングで私を呼ぶ声が聞こえてきたからだ。
その声の正体は先生だった。
「よかった探したぞ橘! 次の講義手伝ってくれないか? ちょっと人手が欲しくてな」
「分かりました。すぐ行きます」
先生に返事をしてからミナミ君に視線を戻すと彼は両手で頭を抱えていた。
「ミナミ君?」
私の声に彼ははっとなり背筋を伸ばした。
「ごめん、私行くね」
「そっ、そっか! 頑張って!」
笑顔で言う彼に、私もまた同じように笑顔で返事をしてその場を後にした。
「橘さん変わったよね」
「うん、なんて言うのかな……きらきらしてるよね」
先生の元へと向かう途中、何処からかそんな会話が聞こえてきた。
変わったという言葉は今の私にとって一番嬉しいものかもしれない。
でも、私が変われたのはあの2人のおかげだ。幼い頃から一緒にいてくれた祖父と、きっかけを作ってくれた藍のおかげだ。
ーー3年の月日が流れた。
私は大学院へと進み、バイトをしながら日々研究に励んでいる。
うららかな小春日和の午後、いつも通り祖父と2人で研究室にこもっていると、榊さんがお茶菓子を片手にやってきた。
「晴陽ちゃん、新聞見たよ。『若き研究者、ここに現る』って格好良いねえ」
「ありがとうございます。でもちょっとその見出しは恥ずかしいですけどね」
「あはは、いっきに有名人だねえ。正司君を超える日も近いんじゃない?」
榊さんはにやりと笑い、挑発するように祖父の方へ視線を向けた。
「もうとっくに超えてるよ」
祖父は取り乱すことなく淡々と答えた。
そんな反応が気に入らなかったのか、榊さんは「からかい甲斐がないなあ」と退屈そうにため息を吐き、両手を頭の後ろへと持っていった。
一呼吸置いて榊さんは、ところで、と両腕を下げた。
「晴陽ちゃんは今年でいくつだっけ?」
「えーと……にじゅう……24になります」
一瞬自分が何歳なのか分からなくなり、年齢を聞かれただけなのに答えに手間取ってしまった。
歳を重ねるごとに自分の年齢が分からなくなるこの現象はなんなのだろうか。
「24か……まだまだ若いなあ。ん、正司君がちょうど結婚した年じゃない」
ねえ、と榊さんは祖父へ話を振った。
「あの時はたまげたよ。まさか学院のマドンナと君がそういう関係にあって突然結婚だなんて。直美さん本当に綺麗だったよねえ」
「さあ。もうよく覚えてない」
感慨深い面持ちで遠くを見る榊さんを横目に、祖父は相変わらずドライな対応を見せた。
いつも通り軽くあしらわれる榊さん。もう幾度となく見た光景。
でも、今回は少しだけ違った。
「ふうん。ああ、そう。よく言うよねえ。アタックしたのは正司君の方だって皆知ってるんだよ」
その瞬間、祖父の顔色が変わった。明らかにうろたえている。
それから榊さんの逆襲が始まった。
「『俺は結婚なんて興味ない。学者として世に出たいだけだ』なんて格好つけてたくせにねえ。一番最初に結婚しちゃってさあ。しっかりやることやってるんだから、ねえ晴陽ちゃん」
私は何も答えずに片手で口を覆った。
祖父には悪いけれどさっきから私の口元は緩みっぱなしだ。あの泰然自若としている彼の弱点というやつがわずかに顔を出したように思えた。
「榊……もう無駄なお喋りは」
「晴陽ちゃんは誰か良い人いないの?」
榊さんは祖父の話を最後まで聞かずにそう問いかけてきた。
突然標的が私へと変わったことに驚いて答えるのを躊躇していると、榊さんの表情がぱあっと明るくなった。
「ええっ⁉︎ まあまあ! 誰、誰? 同じ学部の男かい? 同い年? イケメンかい⁉︎」
身を乗り出してそう詰め寄ってきた。こんなにもきらきらと輝く榊さんの瞳をかつて見たことがない。
「ーー榊‼︎」
地鳴りが聞こえてきそうな祖父の怒声が研究室中に響き渡り、私と榊さんは肩を飛び跳ねさせた。
「いい加減にしろ。……分からない?」
蛇に睨まれた蛙の如く、身を縮こませる榊さんの首根っこを掴み、祖父はこちらに視線を向けた。
「ちょっと出てくるよ」
私は苦笑いして2人を見送った。
しんとした室内で、私は大きな伸びをした。
鳥のさえずりが聞こえる。さわさわと草木が揺れる音がする。
窓に取り付けられたカーテンが風によって揺れ、近くに置いてあった資料がそれに押されて床に散らばった。
私は小さくため息を吐いてから膝を折って資料を拾い集めた。
ふと、背後に何かの気配を感じた。
はっとして勢いよく振り返った。せっかく手に取った資料が再び床へと散らばる。
視界の奥にあった窓に目がついた。心地よい暖かな風が頰を撫でていく。
抜き足差し足忍び足、私は生唾を呑み込んで窓の方へと近づいた。
窓のすぐ下に、まだ大人になりきれていない黒猫が座って毛づくろいしていた。
私に気づくと小さく鳴いた。
「なんだ、猫か……」
私は胸を撫で下ろした。
何故だか分からないけど、がっかりしたようなほっとしたような不思議な気持ちになった。
黒猫は何かを訴えるように私をじっと見ていた。その姿はとある人物と重なって見えた。
「……なんか藍に似てる」
明確な理由はない。何となくそう思ったのだ。
もしかして、藍が猫に生まれ変わって会いにきてくれたのだろうか。なんてことを考えて一人で微笑む自分がいた。
不意に、ポケットの中にある携帯電話が鳴り出した。画面に表示された名前を確認してから通話ボタンを押した。
「もしもし、光人? ……今? うん、大丈夫だよ。どうしたの?」
携帯から聞こえてくる声に返事をしながら、目の前の小さな存在に「おいで」と言うように窓のサッシを叩いた。
黒猫はぐっと後ろ足を踏み込んで、勢い良くこっちに向かってジャンプした。
「……おかえり」
そう言って黒猫を撫でた。
了