16話「前進」
2週間が経った。
あの事故が起きてから、最寄り駅から次の駅まで列車が運休している。
何しろ酷い事故だったので復旧するまでかなりの時間を要するらしく、通常通りの運行になるまでは隣町の駅から電車に乗る形となった。
そのため私は以前よりも少し早く自宅を出るようになった。
隣町の駅へと向かう際、普段利用していた駅の前を通る。その駅の改札前には献花台が設けられており、いつも沢山の花が供えられていた。
最近、キャンパス内を歩いていても学生達の嫌な視線はほとんど感じなくなった。
私に興味が無くなったのか、態度を改めたことによってこうなったのか、理由は分からないけれど今のこの状況はとても過ごしやすいものだった。
夜の10時を回った頃、やっとこさ自宅へと辿り着き玄関を開けると、真っ暗だった室内に明かりが灯った。奥から祖父が出てきて「おかえり」と言った。
「ただいま、おじいちゃん」
「お風呂沸いてるよ。夕飯はどうする?」
「ありがとう。お腹が空いてるから少し食べようかな」
藍は何してる? そう開きかけた口を手のひらで覆った。
「……もういないんだった」
私はそっと呟いた。
彼がいなくなってから2週間も経つというのに、私は本当に馬鹿だ。
風呂から上がって居間へ行くと、食卓の上にあのスケッチブックが無造作に置かれていた。私はそれを手に取って、色鮮やかな思い出が描かれているページをぱらぱらめくった。
その瞬間、圧倒的な喪失感が私を襲った。そのせいでしばらく何もする気が起きず、私はただ椅子に座ってスケッチブックを見つめていた。
「晴陽……」
呼ばれて振り返ると、祖父が壁にもたれかかってこちらを見ていた。
「……大丈夫?」
そう言いながら近づいてくる彼に頷いた。
「藍のことがやっぱり気になっちゃって……」
私はスケッチブックを閉じて机の上に戻した。
「心残りがあるんだね」
その言葉に私は唇を噛み締めた。口の中で鉄の味がほのかに広がった。
「私……もっと藍にいろいろ教えてあげたかった」
3人でいろんな場所に行きたかった。あの公園でまた星空を見たかった。誕生日おめでとうって言いたかった。「おかえり」って笑顔の藍が待つ場所にもう一度帰りたかった。藍も幸せになってほしかった。
私は幼い子供のように泣きながら言った。この時までずっと我慢していた。
藍の前では「幸せだよ」なんて強がったけど、本当は孤独で心細くて胸が張り裂けそうだった。
流れ続ける涙を袖口で拭っていると、祖父が静かに口を開いた。
「晴陽は酷く聞き分けのいい子供だったから……心配だった」
私と目が合うと彼は顔をほころばせた。
「美晴が働きに出た時も、分かった、って二つ返事で受け入れてわがまま一つ言わなかったよね」
でも、と彼は続ける。
「……安心したよ」
それからぽんぽんと頭を軽く叩かれて、私はすっかり泣き止んでいた。話に脈絡というものがなくて、何が言いたいのかよく分からなかった。
視線を上に向け悩んでいると、ふっ、と息の漏れる音が聞こえた。
「大丈夫。藍君は幸せだったと思うよ。少なくとも私にはそう見えた」
彼の発言に、私の頭の中でここ一年の記憶がまるで走馬灯のように駆け巡っていった。
今にして思えば藍はよく笑っていた。泣くことも多かったけど、涙の後には必ず笑顔を見せていた。
最後の時も、彼は笑っていた。
「藍君の言ったことのどこまでが本当なのかは分からない。でも、そんな暗い顔をしていたら彼はきっと悲しむよ」
再び溢れそうになった涙を堪え、鼻をすすりながら「はい」と返事をした。
年が明けてから数日経った頃、私は合格祈願のために地元の神社へと来ていた。
参拝を行う者は少なく、人混みが苦手な私にとってそれは喜ばしいことだった。
「お姉ちゃん、待ってよっ」
「もう、早くしてよ」
子供が2人、横を通り過ぎていく。私は振り返ってその子達を見た。
お姉ちゃん、と呼ばれた女の子が隣にいる男の子の手を握りそのまま走り出した。
その光景に、藍と初詣でへ来たことを思い出した。私達もあんな風に手を繋いでいたっけ。
参拝を済ませ、何となしに横を向くと沢山の絵馬がそこにあった。私は誘われるようにそれへ近づいていった。
去年の元旦、藍もここで絵馬を書いた。
その時のことを思い出しながら、彼の書いた絵馬を探した。まだ一年しか経っていなかったためか、すぐに見つけることが出来た。
『強くなれますように』
手に取って、少しばかり色褪せたその文字を親指でなぞった。
すると、奥の奥の方にあった絵馬が小さな音と共にひょっこりと角を覗かせた。藍の絵馬を動かしたせいだろう。
飛び出した角を押して整列させようとしたが、手を離した途端にまた元に戻ってしまった。
一度外に出して押し込めばいけるだろうかと、ずれた絵馬を片手で引っ張り出した瞬間、私は目を見開いた。
「これって……」
昔、私が残した絵馬だった。
『もう泣かないように強くなる』
そう綺麗とは言えない字で書いてあった。
「私、こんなこと……」
どういう心情でこのようなものを書いたのかはもう思い出せないけれど、2人して同じような願いを書いていることに笑ってしまった。案外私達は似た者同士だったのかもしれない。
自分の絵馬から手を離し、藍が書いた絵馬を優しく撫でた。
「大丈夫……藍はここにいたんだもんね」
彼がここにいた証はこの街に溢れている。
それから私は自分の思いを再び絵馬に託すことにした。
「前へ進めますように……か」
自ら書いた願いを声に出して読んだ。
自分が選んだ道をちゃんと進めるように。そんな思いを込めて。
願い事を書き終えた絵馬を適当な場所にぶら下げ、空を見上げてみた。
澄み渡った冬の大空は今の私の気持ちと少し似ていると思った。
先月の事故の日、私は大学へ行けなかったため篝教授と会うことができなかった。
いくら交通の手段を断たれたとは言え、すっぽかしたことに変わりないのだから面会の話は完全になくなったと思っていた。
「教授のご厚意で先延ばしにしてくれたよ。また後日顔を出すって言って下さった」
それを言われたのが約一週間前。
そして今日がその「後日」だ。
篝教授は私が想像していた人物と少し違っていた。
「おお、橘晴陽くん! 会えて嬉しいよ」
私の手を強く握り、上下に振った。何というかとても友好的な人だ。彼の雰囲気は私の緊張を和らげてくれた。
「こちらこそ、お会いできて嬉しいです。それと……先日は申し訳ありませんでした」
「いやいや、急に押し掛けたのはこちらだし気にしないでくれよ。それに、無事で良かったよ」
「篝教授……ありがとうございます」
私の言葉に頷いてから彼は、そうそう、と言葉を繋げた。
「ショウちゃんは元気かい?」
「ショウ……さん? どなたですか?」
「君のおじいちゃんだよ」
最初、彼が何を言っているのか理解できなかった。数秒経ってから私は「ええっ!」と声を上げた。
篝教授が何故祖父を知っているのだろうか。しかも“正ちゃん”と、かなり親しげだ。
「ど、どうして祖父のことを?」
私の言葉に彼は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「正ちゃんから聞いてないの? 昔、一緒の研究室にいて仲良しだったんだよ」
私は驚きを隠せず開いた口が塞がらなかった。祖父はそんなこと一言も言ってなかった。
教えてくれてもいいのに、と私は頬を膨らませた。
そしてやっぱり祖父は凄い人だと思った。
「いやあ、それにしても君の研究は本当に素晴らしい! 研究室に来てほしいくらいだよ」
初めて見た時の感動は忘れられないね。そう言って腕を組み何度も頷く彼に、「光栄です」と頭を下げた。
この時、私は密かに思った。
祖父のような生物学者を目指すのではなく、いつか祖父を超えられたらと。