14話「溢れた涙」
藍からの手紙を握りしめて研究室に飛び込んできた私に、祖父は少しばかり気圧されながらも「おかえり」と言った。
慢性的に運動不足の私には全力疾走はさすがに辛く、呼吸が整うまで少し時間がかかった。
「そんなに急いでどうしたの?」
怪訝な顔をする祖父にあの手紙を差し出した。
「何?」
「藍が私達にって……」
彼は私と手紙を交互に見てからゆっくりと受け取った。
「おじいちゃん、私、藍のこと探してくる!」
間を置かずに研究室を出ようとした時、「待ちなさい」と祖父の腕が行く手を阻んだ。
「どういうことか説明してもらえる?」
私は急く気持ちを抑え、言われた通り事の詳細を説明した。藍のおかげで私が助かったこと。そんな彼が置き手紙をして突然いなくなってしまったこと。全て伝えた。
話を終えて走り出そうとしたが、祖父が私の手首を掴んだ。
「だから待ちなさい。この雪の中長時間走り回るのは危険だよ」
「そんなこと言ってられない! ……探さないと」
そう言って彼の手を振り払ったが、再び強く掴まれた。
「落ち着きなさい、晴陽!」
今まで見たことのない剣幕だった。それは祖父が私を心配してのことだっていうのは痛いほど伝わる。
でも、それでも私は――。
「落ち着けないよ、無理だよ、だって……だって藍がいなくなっちゃったんだよ⁉︎ もう会えなくなるかもしれないんだよ⁉︎ そんなの絶対に嫌だ!」
私は喚き散らすように言って、祖父の手から無理矢理腕を引っこ抜いた。
それから、藍が行きそうな場所を一通り回った。
初詣に行った神社、星空を見上げた公園、全てくま無く探した。勿論、自宅だって見た。しかし、彼はどこにもいなかった。
「どこ行っちゃったの……?」
真っ赤になった指先に向かって軽く息を吐いた。長い間雪の中を走り回っていた所為かほとんどの感覚が麻痺し、もはや寒いと感じられない。睫毛に乗っていた雪が雫となって頬を滑り落ちた。
街中を歩いていると、シャッターの閉まった店の前に2人の女性が立っていた。一人はしきりに誰かへ電話をし、もう一人はその様子を不安気に見守っていた。
「駄目、全然連絡つかないよ……」
「こんなことが起きるなんて……とりあえず駅員に状況聞いてこよう」
そんなやり取りをしている彼女達を見て私はすぐに悟った。きっと雪崩事故のことを言っているのだ。会話内容からして親しい人間が巻き込まれたのだろう。
“こんなことが起きるなんて”、大抵の人間はそう思っている。誰も予想なんてつかなかった。
でも、ただ一人、藍だけは知っていたのだ。
あれから二時間くらい、いや、もっと経っただろうか。雪は次第に雨へと変わり始めていた。
私はずっと走り続けている。でも、彼は一向に見つからない。態と隠れているんじゃないかと思うくらい、彼を見つけることができない。
子どもの頃にできなかった隠れん坊を今こうして体験することになるとは思いもしなかった。
住宅地へと続く狭い路地を走っている最中、雪の中に埋まっていた何かに足を取られ、私はそのままうつ伏せで滑り込むように転んでしまった。服と雪が擦れ合いなんとも不快な音が響いた。
「いっ……」
右足を動かすと激痛が走った。今ので挫いたのかもしれない。
あーあ、とため息を吐き、私は動くのを止めてそのままの状態で休憩することにした。
「だから雪は嫌なんだよ……」
自分でも何故ここまで必死になっているのか分からない。
彼は約束を破ってここから何も言わずに去って行ったのだから放っておけばいいじゃないか。彼が離れることを望んだのだからそれでいいじゃないか。
私の中の理性という存在がさっきからそう訴えている。
「もう……帰ろうかな……」
一人小さく呟いた。
その時、だった。
不意に視界が暗くなったかと思えば、目の前に小さな薄汚れた靴から伸びる二本の足があった。
自分の意思とは反して瞼が大きく開いていく。
私は少しだけ体を起こし、目線を足から胴体、胴体から顔へと移していった。
その人物と視線が交わった瞬間、私の瞳からぽろぽろと涙が溢れ出した。
どうしてこうもずるいタイミングで現れるのだろう。
「あ、藍……」
彼の名前を呼ぶと、顔の前に小さな手が伸びてきて私の頰に流れる涙を袖で拭っていった。
その行為がさらに私の涙腺を刺激した。
「探してた……すっごく探してたの……」
私は嗚咽しながらそう言った。
多分、今の私は過去最高に一番見っともない。雪の上に這いつくばって泣きじゃくるなんて、側からみれば酷く滑稽だ。
でも、感情が抑えられないのだ。胸の中のもっと内側の方からこぼれ出る痛くて苦しくて、けれども温かいものが雫となって冷たい雪を溶かしていく。
滲んで揺れる視界の中で藍が笑っているのが微かに見えた。