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紫青の蝶  作者: やなせ
13/18

12話「雪の日」

 居間の窓硝子が風によって音を立てながら揺れている。どうやら外は強い風が吹いているらしい。



 受験を控えている私はこの日も夜遅くまで勉強をしていた。

 自分の部屋には暖房器具が備えられてないため、寒さの厳しい季節はこうしてストーブのある居間で勉強をしている。


 眠い目を擦りながらペンを走らせていると、机の上に何かが置かれた。ココアの入ったマグカップだった。そこから湯気が立ち込め、甘い匂いが漂ってくる。

 それを用意してくれたのは藍だった。


「ありがとう……」


 そう告げてからココアの入ったカップを手に取り、何度か息を吹きかけてから一口飲んだ。口の中に甘味が広がり、体温が少し上がったような感覚がした。

 普段、珈琲を飲んでいる私にとってそれは少し甘かったけれど。



「寝ないの?」


 いつの間にか私の向かいに座っていた彼に問いかけると、いつものようにメモ帳で意思の疎通を図った。


『ねむくない』


 本人がそういうものだから私は勉強を再開した。いや、したかった。



「……あのさ、集中できないんだけど」


 私は手を止めて彼を見た。


『なにもしてないよ』


 彼はあっけらかんとそんな言葉を述べる。


「何もしてないのが気になるの。ずっと見られてると集中できないでしょ」


『気にしないで』


「藍……怒るよ」


 私が声を低くして言うと、彼はやばいやばいというような焦りの顔で慌てて退散していった。


 その姿を見て、やれやれと思いながらも自分の頰が緩んでいくのを感じた。







 次の日、全ての講義を終えて帰ろうとしていたところを先生に呼び止められた。


「どうしたんですか?」


 私が問いかけると先生は嬉しそうに話し始めた。



(かがり)教授がこの前の研究発表見て、お前に会いたいって言ってるらしい」


 その発言に私は瞬きを数回繰り返した。


「ほ、本当ですか?」



 篝教授とは、メディアにも多数出演している生物学界ではかなり有名な研究者だ。

 彼が先月の研究発表会に来ていたのは知っていたが、まさか私に目をつけてくれているとは思いもしなかった。


「やったな、橘。お前、教授の著書よく読んでたもんな」


 そうなのだ。その教授が書いた本は全て読んでいる。それくらい尊敬している人だ。


「明日来るそうだから、頼むな」



 先生が去って行った後、私は胸の前で拳を握りしめた。






 家に帰って、祖父と藍に篝教授のことを話した。


 2人はまるで自分のことのように喜んでくれた。そんな彼らを見ている私の心が幸せという気持ちで満ち満ちていった。


 その日の夕食は藍お手製のオムライスで、それがさらに私を幸福にさせた。


「腕上げたじゃん、藍」


 私が笑うと藍も笑った。




 最近、風向きが変わってきているように感じる。


 人生の転機があったのだとすれば、それはやはり藍と出会ったことなのだろう。



 今度、時間が空いた時、彼に勉強を教えてあげよう。彼にもっといろいろな知識を与えてあげよう。


 これは私なりの感謝の意だった。



 



 目が覚めて、朝日を部屋の中へ取り込もうとカーテンを開けた。でもそこに太陽の姿はなく代わりに白銀が絶え間無く降り注いでいた。


「雪……」


 一面真白の庭を見て呟いた。

 昨日の夜はやけに寒いと思ったが、まさか雪が降るとは。


 今日は大学に篝教授が来る。いくら悪天候だからって予定の時間に遅れるなんてもってのほかだ。



 ダイヤの乱れを懸念して、私はいつもより一時間半ほど早く出発することにした。




 早朝でなおかつ雪となると、辺りはひっそり静まり返っていた。


 まだ誰も歩いていない新品の雪道を、転ばないように一歩一歩確実に踏み込んでいく。


 傘の上に積もった雪が時折滑り落ちていた。

 


 雪は相変わらず苦手だけれど、この雪がなかったら多分藍とは出会えてなかっただろう。


 そう思うと、雪とかいう存在もそこまで悪い奴じゃないのかもしれない。




 駅のホームで一人静かに電車を待つこと10分。


『1番線に電車が参ります。黄色い線の後ろまでお下がりください』


 駅員のアナウンスと共に近くの踏切が鳴り出した。どうやら私が乗る方面の電車が到着するらしい。

 腕時計の針は定時よりも大分早い時間を指している。


 私は不思議に思ったがすぐに、ああ、となった。おそらく雪のせいで電車が遅れているのだ。たった今目の前に止まった電車は私が乗る予定だったものより一本早いやつだろう。


 今日は朝からついてるな、と思った。



 温かい車内へと足を踏み入れようとした、まさにその瞬間だった。




「きゃっ――」


 下から巻き上げるような強風が私を襲った。首に巻いたマフラーがぱたぱたと風に煽られる。


 あまりにも強い風に目を開けられないでいると、遠くで私の名前を呼ぶ声が聞こえたような気がした。



 旋風が弱まると共に、背中に強い衝撃を感じた。


 私はバランスを崩し、少しばかりよろけてしまった。だが、お腹の辺りに回された2本の細い腕がそれを受け止めてくれた。



「な、何……?」


 何だ。何が起きたのだろう。状況が分からない。

 私の脳は現状を把握しようとフル回転していた。


 とりあえず、体にまとわりつく腕にそっと触れてみた。なんだか初めて触った気がしなかった。どうやら私はこの腕を知ってるらしい。




「藍……?」



 無意識にそう呟いていた。



『1番線ドアが閉まります』


 その音声で我に返るも時すでに遅し。

 目の前で虚しくも閉まるドアに私の口から「あ……」と情けない声が漏れた。



 電車が小さくなってもう見えなくなっても彼は私の体にしがみついたままだった。


 そんな中、小刻みに震える呼吸音が聞こえた。私ははっとして彼の腕を掴んだ。


「泣いてるの……?」


 私の体に顔を押し付けたまま、彼はすすり泣いていた。


「何で泣いてるの? ねえ、藍ってば……」



 彼は泣くばかりで何を言っても反応してくれなかった。






 ホームに置かれた椅子で休んでいると、藍はようやく落ち着きを取り戻した。


 真っ赤に腫れ上がった彼の瞳を見ていると胸が締め付けられて痛かった。


 一体何があったというのだろう。




 雪の粒が次第に大きくなっていく中、顔に深い皺の刻まれた年配の駅員が私のもとへやってきた。


「お客さん、申し訳ないけど今日はもう電車動かないよ」


 深刻な表情でそう言った。


「どうしてですか?」


 駅員はその質問に答えるのを躊躇したが、私がもう一度同じ言葉を繰り返すと観念したように話し始めた。


「何でも……さっきここ出発した電車が途中で脱線したらしくてね。詳しいことはまだはっきりと分からないんだが」



「脱線……?」


 私の呟きに駅員はこくりと頷く。



 その時、不意に携帯の着信音が鳴り響いた。

 祖父からの着信だった。


『晴陽、今どこにいる?』


 祖父は珍しく切羽詰まった様子だった。


「まだ駅だけど……」


 私が答えると、通話口の向こうで彼は大きく息を吐いていた。


『よかった……』


「何かあったの?」


『あったよ……駅員から聞いてない?』


 私は駅員が発した、脱線、というワードを思い出した。


「脱線して電車動かないって……」


『それだけじゃないみたいだよ。今どのテレビ局もその事故で持ちきりで――』



 祖父の話によると、私がいるこの駅から一キロほど離れた場所で脱線し、線路から外れた電車は運悪くトンネルに入る直前でそのまま外壁に衝突、一両目は大破しそれ以降の車両は横転してしまったらしい。



 私はそれを聞いて恐怖心を覚えた。


 だって、あの時私は一両目に乗ろうとしていた。もしも、あのまま電車に乗っていたら私は確実に死んでいた。



 藍がいなかったら、私は――。



「……あれ?」


 私はふと疑問を感じた。



 藍は、どうしてここにいるのだろう。



 そう思いながら隣に目を向けると、さっきまであった彼の姿が消えていた。



「藍……?」


 私の声は白く残り雪の中へ紛れていった。


 周りを見ても、彼はどこにも見当たらない。




 酷く胸騒ぎがして椅子から勢いよく立ち上がると、濡れたコンクリートの上にぱさりと何かが落ちた。



「何……」


 白無地の封筒だった。




 私は足下に落ちた封筒を拾い上げ、もう一度椅子に座り直した。



『大切な2人へ』


 表面にそう書かれていた。


 これが藍の字だとすぐに分かった。まだ形を上手く取れていない歪な文字。時々、読むことが困難だった下手くそな字。


 封筒の中には、三つ折りにされた紙が数枚重ねて入っていた。


 私はそれをゆっくりと取り出した。4、5枚の紙が折り重なっているそれから沢山の文字が透けて見えた。


 一度息を吸って、吐いて、意を決して折り畳まれている紙を両手で開いた。

 緊張のためか手が震えている。



 辺りが段々と白く塗り潰されていく中、そこに連なる言葉達を目で追っていった。





 全てを読み終えた時、私は涙を流していた。

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