11話「それぞれの道」
藍とは何となく気まずい雰囲気のまま数週間が経った。
木々の葉は赤く色づき、空が少しだけ遠くなった。
私は大学の敷地内にあるベンチに腰を下ろし、来月末に実施される研究会の資料を広げていた。
自販機で買ったアイスコーヒーを喉へ流し込んでいると、目の前に見知った人物が現れた。
「あ、橘さんだ」
同じ生物学科の学生、ミナミ、コウトがそこにいた。
以前、明るい茶色だった彼の髪色が黒に変わっていた。そのため一瞬誰だか分からなかった。
私はぺこりと頭を下げた。
「俺の名前覚えてる?」
「ミナミ君だよね」
「お、よかった! 橘さん人の名前とかすぐ忘れそうだなって思ってたんだよね」
思わずその言葉に私の眉が動いた。
初めて話した時から思っていたが、この人の中での私は随分と酷いらしい。無邪気に笑うミナミ君。やはり悪意はなさそうだった。
「なんか久しぶりだね」
私は「そうだね」と返事をした。
彼の姿は度々講義などで見かけていたけれど、友人らしき人物と楽しそうに話していたため声をかける勇気が出なかった。それに、一度か二度話した程度だ。用も無く声をかけるのは馴れ馴れしいと感じた。
そのことを本人に告げると何故かショックを受けたような顔をした。
「えー、まじか……友達になったと思ってたのに」
彼の言葉に私は面食らってしまった。“友達”、彼にとって私はそうだったのかと今初めて知った。
そんな私の気持ちを察したのか、彼は焦りの表情を浮かべた。
「ご、ごごめん! な、馴れ馴れしかったよね」
気を悪くさせたならごめん、と彼は申し訳なさそうに言った。
「違う。ただ驚いただけ」
首を振る私を見て、「ほんと?」と恐る恐る聞いてくる彼に無言で頷いた。
友達なんて誰かに言われるのは初めてだ。こんなに嬉しいことなんだ――。
心が満たされ、自然と顔がほころんでいく。
彼はというとぽかんと口を半分開けたまま私の顔ををじっと見ていた。
「何?」
「え⁉︎ 何が⁉︎」
私の声に彼は肩を飛び跳ねさせてそう言った。
何が、はこちらの台詞なのだけれど。
よく分からないその返答に私の中でますます疑問が生じていく。
何とも言えない気まずい空気がしばらく続いた後、彼がいつもより声のトーンを落として話し始めた。
「……この前の実験室での話覚えてる?」
私は「うん」と返事をした。
数ヶ月前、私は実験室で彼の内に秘められていた悩みを聞いた。
他人の才能に嫉妬し、理想と現実を突きつけられ、自分の選んだ道から逃げたい。あの時の彼はそんなことを言っていた。
「あれから……よく考えたんだ。……やっぱ今投げ出すのはどうなのって。今逃げて後悔しないかって。ていうか俺、全然頑張ってなかったし」
ほんっと情けない、と肩をすくめて両手をポケットに突っ込んだ。彼の葛藤が垣間見えた気がした。
「とりあえず来月の研究会には出る。……そこからかな。もう一回いろいろと頑張ってみようと思う」
それから自信なさげに、「今さらかな」と付け足した。
「そんなことない。始めることに意味があると思う」
私は思ったことをそのまま口にした。
時間なんて関係ない。目標を達成するのに必要なのは、必ず叶えるという信念だけだと私は思う。
それだけじゃない。多分、彼なら大丈夫だと思った。
彼の瞳にすごく強い意志が宿っているように見えたから。
「橘さんと話すと、諦めたら駄目なんだって思えてくるよ」
彼ははにかむように笑っていた。
そして、いい機会だからと連絡先を交換した。電話帳に身内以外の名前があるのは初めてだ。
何だか少し胸がくすぐったくなった。
家に帰ると藍が一人で居間にいた。どうやら祖父は研究室にいるようだ。
藍とはしばらくまともに接していない。それは別に避けていたわけじゃなくて、たまたま時間が合わなかっただけだった。
様子をうかがうようにゆっくりと居間へ足を踏み入れると、藍は何かの本を読んでいた。まだ私の存在には気づいていないらしい。
私は彼に背を向けて腕組みをした。よくよく考えると、理不尽に怒ったのはこちらの方だし非があるのは間違いなく私だ。
謝ろう。そう決意して勢いよく振り返った瞬間、目の前に彼がいた。
「わあっ!」
あまりの衝撃に心臓が破裂するかと思った。どくどくと血液を全身に送り届ける音が自分でも分かるくらいだった。
そんな私を余所に彼は『何してるの?』と書かれたメモ帳を顔の前に持っていた。
「いや、その……た、ただいま」
しどろもどろになりながらも平静をよそおう私に『おかえりなさい』と、彼はすらすら書いた。
秒針が時を刻んでいく音だけが部屋に響いている。
彼は意味ありげにこちらを見つめてきた。まるで私の思いを察しているようだった。考えすぎかな、と一瞬思ったけれど、私が何か言うのを待っているようだった。
「……あのさ」
大きく息を吸って吐いてを2、3度繰り返し呼吸を整えてから続きの言葉を述べた。
「この前はごめん。私、大人げなかった」
私は頭を深く下げて言った。
少ししてから姿勢を戻すと、頼りない笑顔の藍が目に入った。そんな彼に言葉を続けた。
「ただ、これだけは約束してほしい。藍はもうただの他人じゃないから、だから……もしいなくなる時は必ず言って」
もうこれ以上、さよならの言えない別れを経験したくない。何も知らないまま誰かを失いたくない。
彼はメモ帳で文字を書く代わりに、小指を立ててそれを差し出してきた。おそらく指切りだ。私も同じように小指を立てて、彼のそれに静かに引っ掛けた。
「……約束だからね」
私達は互いに掛けた指をぐっと折り曲げた。
私は、彼がいなくなることが少しも想像できない。もしかしたらあの言葉は夢か何かだったのでは、とも思ってしまう。
でも、あの言葉はやはり本当なのだろう。時折彼が見せる悲しげな瞳がそれを物語っている。
それから一ヶ月が経過した。
辺りの木々を揺らす風が冷たくなり、太陽の位置も大分低くなったように感じた。
大嫌いなあの季節が刻一刻と迫る中、良いこともあった。
私の研究成果が学内で認められ、学者や大学教授が度々訪ねてくるようになったのだ。今週末には生物学に携わる著名人達も出席する研究発表会が控えている。
ゆっくりだけれど、生物学者という夢への道を歩むことが出来ていると感じた。
ある時、私はふと思った。
夢というのは、私の場合いろいろな積み重ねで構築されている。日々の生活の中の何処かしらで夢への筋道を踏んできた。
藍も、夢があると言っていたけれど、彼は様々なことに熱心に取り組んでいるが何か一つのことを追っているようには見えない。
才能もそこかしこに点在しているが、どれも違うように思える。
それに、ここでしか叶えられない、とも言っていた。
彼の言う『ゆめ』とは、一体何なのだろう。
気づけば、彼と出会ってから一年が経とうとしている。
――もうすぐ冬になる。