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紫青の蝶  作者: やなせ
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10話「すれ違う心」

 いつも通りの食卓を囲む中、私は今朝のことを思い出していた。




 藍のスケッチブックにはオオムラサキの絵が描いてあった。


 どうしてそれを描こうと思ったのだろう。


 そもそも私は何でその絵が気になってしまうのだろうか。オオムラサキはとても綺麗な蝶だし、彼もそれに惹かれて描いたのかもしれない。何ら不思議なことはない。


 でも、私にとってオオムラサキはとても思い入れのある蝶なのだ。小学生の頃、寝る間も惜しんで世話をした。



「オオムラサキ……」


 私が小さく呟くと、祖父と藍2人揃ってこちらを見た。



「いや、えっと……今もここら辺にいるのかなって思って」


 私ははっと我に返ると適当な言葉を繋げて、食卓に並んでいる野菜炒めを箸ですくった。


「どうだろう。最近はあんまり見ないね」


「そ、そうだよね。確かに……」


 祖父の言葉に相槌を打ちながら藍をちらりと横目で見た。彼は特にこれといった反応はせず、もぐもぐと白米を食べていた。


 藍はただオオムラサキが綺麗だったから描いたのかもしれない。それ以上深くは考えなかった。





 その後、洗濯、掃除などの家事を一通りこなしてから、私と藍は研究室へ向かった。祖父はいろいろと準備などがあるため私達が向かうよりも一時間早く出発していた。


 

 研究室に着くと室内から談笑する声が聞こえてきたため私と藍は一度顔を見合わせた。


 こんな朝早くに一体誰が来ているのだろう。


 扉を開けると奥の方に祖父の背中が見えた。そして、さらに奥で珈琲らしきものを飲みながら穏やかな表情を見せる老人がいた。何度も会っているためそれが誰なのかすぐに分かった。祖父の古い友人の榊さんだ。


 榊さんは不意に視線をこちらに向け、顔に皺を作りながら微笑んだ。


「こんにちは。晴陽ちゃん、と藍君……だったかね」


 私は軽く頭を下げてから手荷物を近くの机へ置いた。藍も頭を下げてからひょこひょこと本棚の前へと向かっていった。どうやらそこが彼のお気に入りの場所らしい。



「晴陽ちゃんは大学を卒業したらどうするの?」


 榊さんは珈琲の入ったカップを傾けながらそう言った。


「働きながら大学院に通うつもりです。これ以上祖父に金銭面で迷惑をかけられないので」


 レポート用紙を鞄の中から取り出しながら答えると彼は、「そうかそうか」と柔らかく微笑んだ。


「お、そういえば、海に行ったんだってね」


 あの場所は私が教えたんだ、と榊さんは得意気に言う。私が初めて見た海の感想を述べると嬉しそうに何度も頷いていた。


「……私も妻とよく行ったなあ」



 思わず作業をする手を止めた。私は、何か言わなければ、そう思ったが言葉が出てこなかった。


 榊さんは2ヶ月程前に奥さんを亡くしたばかりだ。大切な人との別れの辛さは私自身よく知っている。安易に慰めの言葉を口にしたらさらに傷を抉ってしまうかもしれない。そう思うと喉に鉛が詰まったかのように声が出てこなかった。


 そんな私に気づいたのか、彼は珈琲を一口飲んでから一つ問いかけてきた。



「君は、死、とはなんだと思う?」



「死」その単語の重さにはどうにも慣れない。いや、慣れてしまったら駄目なのだろう。


「……最大の別れ、だと思います」


 私のそれに小さく息を吐いた榊さん。彼はそれから穏やかな表情で話し始めた。


「私は……一種の旅立ちだと思っている」


「旅立ち」その単語を頭の中で繰り返した。



 旅立ちと別れは違う。別れはお互いが背を向けて、全くの別世界に行ってしまうことだ。だが、旅立ちは同じ軌道の上を行き、離れてしまっているが違えてはいない。

 榊さんはそう言った。



「寂しいとは思う、とても。だがね、一生の終着はそれなんだよ。そして再び繰り返す。輪廻ってやつだねえ」


 彼はそう言いながら目尻に皺を作り微笑んだ。それは全てを受け入れ、愛しているような笑みだった。


「老いぼれ(じじい)戯言(たわごと)だと思ってくれて構わんよ」


 彼は声を出して穏やかに笑った。


 榊さんの言葉は、言うなれば私にとって魔法の言葉のようだった。


 母は遠い何処かへと旅立っていった。そう思うと何故だか心が軽くなった気がした。



「榊……。晴陽の邪魔をしない」


 祖父が本を片手にため息混じりでそう言うと、榊さんは「はいはい」と渋々腰を上げた。



 研究室から出て行こうとする榊さんを私は呼び止めた。相変わらず穏やかな表情の彼に「榊さんの考え、私は好きです」と告げた。


 彼は返事をする代わりに、目を細めて口角を上げた。






 

「晴陽、藍君。西瓜(すいか)だよ」


 家の縁側で夜風に当たって涼んでいると、祖父が西瓜を持ってきてくれた。赤くみずみずしい西瓜だった。

 私と藍はそれぞれ一つずつ手に取った。


 頰にあたる風はだいぶ冷たく、もう秋が近いのだということを知らせていた。時間というのは本当に駆け足なものだと思った。



「藍は大切な人を失ったことはある?」


 西瓜を美味しそうに食べる彼に、なんの脈絡もなくそう問いかけた。

 それに対して彼は一瞬戸惑ったような表情を見せたけれど、少しして小さく頷いた。


 私は「そっか」と返事をしてから西瓜をかじった。

 大切な人を失う怖さを彼も知っていたのだ。


「榊さんはすごいよね。あんなに前向きに思えるなんて。……私には無理だった」


 年の功ってやつなのか、それとも生まれ持った感性の違いなのだろうか。


 祖父に、以前言われた。もっと他人と関わるべきだと。


 本当にその通りだと思う。関わることで、面と向かって話すことで、表面に現れていない気持ちを知ることが出来る。


「私も、藍も、まだまだ未熟者だから」


 これからいろいろな経験を積んで、強く、前向きに生きれるようになりたい。


「だから、一緒に……頑張って成長していこう」



 そう、思った矢先だった――。


 彼はメモ帳を差し出した。



『むりだよ。ずっとここにはいれないから』



 その瞬間、耳から辺りの音が消えた。目に焼き付いて離れないその文字に心臓が嫌な鼓動を打ち続けた。




「なんだ……やっぱり、いなくなるんだね」


 私がそう言い放っても、彼はボールペンを握りしめたまま俯いていた。

 どうして何も答えてくれないのだろう。


「……もういい」


 食べかけの西瓜を片手に私はその場から立ち去った。






 あれから3時間以上が経ち、夜も更けた。


 私はベッドの上に寝転がり、自分の大人気ない態度に反省していた。



 藍は一つの目的のためだけにここにいるのだ。それを果たした後、去っていくのは当然のことなのかもしれない。


 私は彼が進む道の障害にはなりたくない。彼の夢を踏みにじるようなことはしたくない。

 けれど、悲しかった。藍がいつかの別れを平然と告げる姿が寂しかった。



 まだ出会ったばかりの頃、私は藍と関わることで得られるものに惹かれ、彼を受け入れた。


 でも、今は確実に違う。

 彼と関わって得られる何かではない。もう何もいらない。ただ、彼のいる今を終わらせたくない、そう思うのだ。



 私は瞼を閉じて自分の気持ちを整理した。そして出た結論(こたえ)は意外にも単純なものだった。




 私は、藍を好きになっていたんだ。



 藍にとって、私は、祖父は、この場所は、どのくらいの存在なのだろう。

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