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紫青の蝶  作者: やなせ
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9話「母の手帳」

 突然明るくなった視界に、私は反射的に瞼へ力を入れる。

 カーテンで遮られていた光が一気に室内へ差し込んできて、その明るさに耐えきれず枕に顔を押し付けた。


「藍君、晴陽は起きたかな」


 私の耳に祖父の声が聞こえてきた。その口振りからするとカーテンを開けたのはどうやら藍らしい。


 欠伸をしながら布団を出るとカレンダーが目に入った。今日の日付の部分に赤い丸印が付いている。

 それを見て私は思い出した。



 今日が、母の命日だということを。






「3人で海に行こうと思う」


 朝食を食べ始めてから祖父の第一声がそれだった。

 私はその発言に驚いて、持っていた箸を机の下に落としてしまい慌てて拾った。


「う、海?」


 こくりと頷く祖父。


「えー、今日レポート書こうと思ってたのに」


 私は、口ではそう言っておきながら内心嬉しさで弾むような気持ちだった。

 何故なら今まで一度も海に行ったことがなかったからだ。

 テレビや雑誌で見かける度、本物を見てみたいという欲求に駆られていた。21歳にしてようやくその小さな夢を果たすことが出来るらしい。


 不意に藍からの視線を感じて目を向けると含み笑いをしていた。


「何、その顔……」


 私は眉を寄せながら彼を軽く睨んだ。

 嬉しいという気持ちが見透かされたようで少し悔しくなった。





 電車に揺られること3時間。

 太陽に照らされてきらきらと輝く海が見えた瞬間、思わず電車の窓を開けて身を乗り出した。大きく深呼吸をすると潮の匂いがした。

 一緒になって海に釘付けな藍に「すごいね」と言うと彼は深く頷いた。



 意外にも海水浴を行っている人は少なかった。祖父が言うにはここは穴場らしく、自身も学生の頃友人に教えてもらった所だそうだ。



 初めて見る海は思っていたよりもずっと大きい――。



 私と藍は裸足になって波が打ち寄せる浜辺を気の向くままに歩いていた。


 祖父はというといつの間に行ったのやら、海の家でのんびりと団扇を仰いでいる。


 私は一度足を止めて、海と平行に立った。


 雲一つない快晴のためか空と海の境界線がぼやけている。


「なんか……このまま海を泳いでいったら空まで行けそうだね」


 私がそう言うと、彼はうんうんと頷いた。





 周りの海水浴客達が次第に帰り始めた頃、藍は浜辺にちょこんと座ってスケッチブックに絵を描いていた。気づけば彼はいつも絵を描いている。絵を描くことが本当に好きなのだろう。


 私の隣に立って穏やかな顔を彼に向ける祖父。それはもう孫を見るような瞳だった。


「……晴陽」


 不意に祖父が私の名を呼んだ。先ほどとは打って変わり真剣さを帯びた瞳をしていた。


「話しておきたいことがある」


 潮風が私達の間を流れていった。そして次に告げられた言葉は思いもしなかったものだった。




美晴(みはる)……君のお母さんのこと」



 一瞬、呼吸を忘れていたような気がした。



「晴陽……君は、美晴に捨てられたと思っているね」


 どくどくと、心臓が激しく動いている。

 私は何も答えられず、ただ俯いていた。



 幼い頃、私を実家に置いて都内に働きに出た母は、一度も帰ってこないままこの世界からいなくなった。捨てられた。そう思ってしまうのは当たり前のことではないだろうか。



「あの日の、2日前くらいに電話がかかってきたんだ」


 祖父は静かにそう言った。


「あの日」、祖父が言うそれには察しがついた。

 きっと、母が亡くなった日、16年前の今日のことだ。


 私は黙って祖父の話を聞いた。



 亡くなる2日前、祖父のもとに母の携帯から連絡があったらしい。

 短いながらもやっと休みが取れたから実家に帰る。母はそう言ったという。

 祖父はそのことを私に告げようとしたのだが、母はそれを拒んだ。私を驚かせたかったらしい。


 でもあの日、信号待ちをしていた母のもとに一台のトラックが突っ込んだのだ。




 私は胸が苦しくなった。母は私の存在が迷惑だったから実家に置いていったのだと、ずっとそう思ってきた。



 祖父は不意にポケットから小さな手帳を取り出して私へと手渡した。今から16年前の年の茶色い手帳だった。


 ページをめくってみると沢山の予定が書かれていた。母の字だ。すぐにそう分かった。

 黒のボールペンで仕事の予定が事細かに記されている。空白の日付は一つも存在しない。文字の羅列に息苦しさを感じた。


 でも、8月のページに一つだけ、赤色のペンで目立つように書かれたものがあった。



「晴陽と海に行く」そう書かれていた。


 事故の翌日の日付だった。



「晴陽に海を見せてあげるんだって、すごく張り切っていたよ」



 私の瞳から涙が零れ、手帳の上に落ちた。赤色で書かれた文字がじんわり滲んでいく。


「ここがその海だよ」


 祖父の言葉に私は顔を上げ、改めて海を見渡した。母と浅瀬を歩く自分の姿を想像してしまった。


「……晴陽のこと本当に心配していたよ」


 祖父の話によれば、私を預けた後、母は何度も電話をかけてきていたらしい。



『晴陽は元気?』


『晴陽は風邪引いてない?』



『晴陽に、会いたい』




 そう何度も、何度も。私がそれを知らなかったのは、母が電話のことは内緒にしてほしいと頼んでいたからだった。


「今の君なら受け止められると思ったから教えたんだ」


 祖父の声は優しかった。祖父は母の思いを知りながら今までずっと過ごしてきた。そう思うとさらに胸が苦しかった。


「どうか、捨てられたなんて思わないでほしい。お母さんを信じてあげなさい」


 私は深く頷いた。

 だけど、わざわざ内緒で電話をしなくてもいいのにと思った。私も話をしたかったのに、と母を少し恨んだ。



 母の本当の思いを知って、胸の奥深くに刻まれていた傷が広がり始めた。

「捨てられた」今までと同じようにそう思っていれば、その傷は気づかぬ内に消えていくのだろう。


 しかし、それは私を大切にしてくれていた母への裏切りになると思った。そのようなことはできない。


 私は、誰よりも母が好きだったのだから。





 海の帰り、久しぶりに母の墓参りへ行った。


 私は自分の生物学者になりたいという夢や、藍という少年に出会ったこと、大学での出来事、沢山のことを告げた。



「お母さん、ありがとう」


 私が供えた線香の煙が天を目指して上っていた。煙はある程度の高さまでいくと見えなくなった。空気に溶け込んで、自然の流れの中へと帰っていくようだった。

 この世から去ってしまった人の意思もこんな感じなのかもしれない。私はそう思った。





 翌朝、居間へとやってくると机の上に見覚えのあるスケッチブックが置いてあった。私がプレゼントしてから藍が肌身離さず持っている物だ。


 私はそれを手に取り、ぱらぱらとページを捲っていった。


 庭の梅の木、祖父の研究室、フラワーパークで見た紫陽花、家の玄関先、昨日訪れた海、数ページに渡って沢山の絵が描かれていた。

 麻婆丼の絵を見つけた時は思わずくすりと笑ってしまった。

 彼にとってこれはアルバムみたいな物なのかなと思った。



 でも一つだけ、どうしてそれを描いたのか、分からないものがあった。


 その絵が気になってしまうのは多分、私が思い入れのあるものだったからだ。



 そのページには、オオムラサキが描かれていた。

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