0話「別れ」
父がどのような人だったのか私は知らない。
母から聞いた話とアルバムに映っている姿から、こういう人だったのではと人物像を作ったこともあった。
しかし、時が経つにつれ父への興味は薄れていった。
会いたいかと問われても答えるのは「はい」か「いいえ」ではなく「どうでもいい」だった。周りは私のことをなんて冷血な人間なのだろうと思ったに違いない。
それでも、そんな冷血人間でも母のことは大好きだったし「お仕事行くからいい子で待っててね」と突然祖父の家に預けられた時もその言いつけを守っていい子にしていようと思った。
母の父で私の祖父にあたる橘正司は優秀な生物学者だ。
祖父との生活は初めからとても楽しかった。
彼は私の素朴な疑問にも一つ一つ丁寧に答えてくれた。感情の起伏がなく、淡々と物事を述べていくその姿にいつしか憧れを抱くようになっていった。
それからしばらくして祖父は自身の研究室への出入りを許可してくれた。
そこは初めて目にする生物の標本や資料で溢れている未知の世界だった。
私は毎日のように通い、幼い体には大きすぎる生物に関する本を夢中で広げた。
そんな時だった。一報が届いたのは。
母が死んだ。トラックに跳ねられたらしい。即死だったそうだ。
母の通夜が行われている最中、私はどこか上の空だった。
だが決して母の死を「どうでもいい」と思ったわけではない。
ただ実感が湧かなかったのだ。
なぜなら私がここに来て以来、母とは会っていなかったから。
前に、何かの本で読んだ。死ぬということはその人に会えなくなるということ、だと。
この時の私には今まで置かれていた状況との違いがわからなかった。
小学校に上がってからも変わらず祖父の研究室に通っていた。
すっかり生物について詳しくなった私は、たまに研究の手伝いをさせてもらえるようになった。
だが、手伝いといっても研究資料をホッチキスでまとめたり、たまに研究室に顔を出す祖父の助手の人達にお茶を出す程度だった。
顕微鏡を覗く祖父の目には何が見えているのか、きっとそれはとても素敵なものに違いない、そう思っていた。
だから、顕微鏡を使っていいと言われた時は嬉しくて飛び跳ねた。
いつも祖父が座っていた椅子、冷んやりとした顕微鏡の感触。触れているもの全てが私の胸を高鳴らせた。
覗いた先には新たな世界が広がっていた。
「君はいい学者になりそうだ」
祖父はそう言った。
この時私はいつか同じ学者として彼の隣に立ちたいと思った。
あれはよく晴れた夏の日のことだっただろうか。
いつものように祖父の研究室へと向かう途中、道端に傷だらけの蝶が落ちていた。
羽は破れ、足は一本足りず、時たま痙攣していた。
私はその蝶を両手で掬い、祖父の元へと一緒に連れて行った。
研究室でその蝶を祖父に見せると、オオムラサキという種類の蝶なのだと分かった。
祖父の提案により私はその蝶の世話をすることになった。
少しばかり怖気付いていた私に、彼は「何事も経験だよ」と背中を押してくれた。
その日、一日中蝶の様子を見ていた。
元気に羽を動かすようなことは決して無かったけれど、目の前に与えられた栄養にしがみつき命を必死に繋いているその姿は弱々しくも逞しく、頑張れ、頑張れ、と心の中で応援した。
けれど、現実とは非常に酷なもので、数時間後、その蝶は微塵も動かなくなった。
自宅にある梅の木の下に、その蝶を埋めた。
目の前で動かなくなった蝶を見た時、心に穴が空いたようだった。
その穴から今までの嬉しいとか楽しいとかの感情が抜け出していくようだった。
またあの逞しい姿を見たい、そう声に出して願ったけれど、祖父に「それは無理だよ」と言われた。
私は涙を流していた。
この時、やっと分かったのだ。
死を受け入れる、ということを。
母が死んだ時実感が湧かなかったのは、その死を受け入れられなかっただけと気づいた。
母はきっと何処かにいて極平凡に生きているのだろうと。
「待っててね」と笑った母の帰還をひたすら待ち続けていたのだ。
「晴陽、今は思い切り泣いていいんだよ。涙が出るのは成長した証だよ」
祖父のその言葉が私の涙の堰を切ったのを覚えている。
「死」は本当に突然で一瞬だ。
その一生はこの世界から切り取られ、過ごすはずだった時間は虚空へと消えていく。
理解すれば理解するほど心に穴が空いていき、否定すれば否定するほど虚しくなっていく。
残された人間の心に、目には見えない確かな痛みを刻んでいくのだ。
それは、共に過ごした時間の分だけ深く鮮明になっていくのだと思う。例外はきっとない。
それから、私は祖父のような優秀な生物学者を目指し、彼の研究室に通いながら勉学に励んだ。
時折感じる胸の痛みを現在で塗りつぶすように、襲ってくる悲の波に呑まれないように。
気づいたら、私は20歳になっていた。