彼には、世界一綺麗な恋人がいました。
彼には、世界一綺麗な恋人がいました。
彼女はとても美しい人。
対して彼は、大抵の人は顔を背けるような、世にも醜い顔をしておりました。
「お願い、わたしを信じて。あなたを愛しているの」
彼女はいいます。
でも彼は、深い深い劣等感のせいで、心の何処かでは彼女を信じられませんでした。いずれ他の男の手を取って離れて行くのだと、いつも怯えていました。
だからこれ以上彼女を好きにならないように、いつも冷たく接したのです。
ある日、彼が家に帰ると、彼女は他の男に抱きしめられていました。
彼は思いました。
くる時が、きたのだと。
「ああ、もう俺などに用はないということか。お前など顔も見たくない。さよならだ」
そう言ってドアを閉め、すぐにそこを立ち去りました。
彼女の悲痛な声がしましたが、振り返らず、ただただ歩き続けました。
なんだか全てが、どうでも良い気分でした。
それから5年後。彼はかつて彼女と出会い、恋をしたその町に、仕事の用事で訪れました。心の傷は、時間が徐々に風化させてくれました。未だ恋をすることは出来ませんでしたが、心をかき乱す大切な物がない分、とても気楽でした。
そんな中、ふと自分のかつての家が今どうなっているか、無性に気になり、彼は懐かしい道を辿りました。
あたりに立っていた家も大分変わり、道に迷いそうになった彼は近くにいた男に道を訪ねました。
男は彼の顔をみると一瞬眉をひそめたのち、答えてくれました。
「ああ、その家ならあっちだよ、今は、醜い女がひとりで住んでいる」
彼は驚きました。かつて彼女と過ごしたあの家には、勝手に他人が住んでいる、と言うのです。
彼は急に腹が立ってきました。
「人の家を勝手に使うなんて」
これならまだ、取り壊されていた方がましだった、とさえ思いました。
足並み荒く家にたどり着くと、勢いよくドアを開けました。
「どなた?」
暗くてジメジメした室内には、吹けば飛びそうな、枯れ木のような女がひとり、立っていました。
彼女は逆光に立っていた男がよく見えないらしく、フラつきながら近寄ってきました。そして、彼の顔を認めた途端、大きく目を見開いて、その場に崩れ落ちました。
ーーー彼は、自分の目が信じられませんでした。
けれど一目でわかりました。
この枯れ木の様な女は、かつて彼が愛した、彼女だったのです。
彼は恐る恐る、彼女に近寄りました。
彼女は、床に手をついてはらはらと涙を流していました。流れて行く涙がキラキラと光を反射して、まるで宝石の様でした。
骨の浮いた手、パサパサで、ゴワゴワした髪。肌なんか乾燥しすぎて、粉を吹いていました。
全身真っ白で、これほど生気のない人間も珍しいくらい。
だけど彼女は、こんなにみすぼらしい姿をしていても、何も変わりませんでした。
彼女は、世界一うつくしい人でした。
その時、彼は唐突に理解しました。彼女は、たとえどんな姿をしていようと、その存在自体が、うつくしいのだと。
彼は眩しそうに目を眇めて、くずおれた彼女の前に膝をつきました。
「ここで、何をしているんだ?」
自分でも驚くほど、優しい声が出ました。
それを聴いた彼女は、何かをいいかけ、堪えきれず、声をあげて本格的に泣き出しました。赤ちゃんの様に、でもその声は、老婆の様にしわがれていました。
男は彼女を震える手で優しく抱きしめ、ポンポン、と彼女の背中をあやす様に叩きました。
やがて彼女の涙が枯れるまで、ずっと。ずっと。
そしてさらに5年後。
その家には、世にも醜い男と、世にも美しい女の夫婦が、幸せそうに住んでいます。
美しい妻に横恋慕しようとする男は絶えませんでした。
男たちは、お前の様な醜い男より、自分の方がよほど似合っている、と彼に詰め寄りました。
けれどそんな時、彼はその醜い顔を最大限に歪めて、不敵に笑いました。
「俺の妻は、俺の隣にいる時が一番美しい。だから、これでいいんだよ」
その隣で、彼の妻が世界一幸せそうな顔で、花開く様に笑いました。
完