小話①
ミカが異世界にトリップしてから一カ月くらいの頃です。
三人称です。
「あの娘の様子はどうですか?」
アランは、執事グールドを自室に呼びよせてたずねた。
アランの別邸のバラ園で、兄と弟、お忍びの皇太子殿下と宰相でお茶を飲んでいたときに、空から落ちてきた……若い娘。
ちょうど落下してきてから、一カ月ほどたっていた。
「ミカ様ですか?ずいぶんと落ちつかれました。ですが、やはり言葉の問題がなかなか解消されません」
「あぁ、古語がわかる使用人が必要なんですね」
「はい」
執事グールドがうなずき、アランも思案顔になった。
「わかりました。マーリ嬢に来てもらいましょう」
「歴史学者の一人娘の?」
「そうです。マーリの父親は私とリードの家庭教師にもこの館に来てくれたこともあります。マーリ嬢とは幼いころ何度か遊びましたが、あの子であれば状況を察してうまくあの娘に付き添えるでしょう」
「わかりました。連絡をとる手配をいたします」
執事は一礼する。そして、続けた。
「それからアラン様、ミカ様のドレスなんですが……」
「ドレス?」
「はい、今まで女中頭が見つくろったものをミカ様にお渡ししていたのですが、そろそろミカ様の身体に合ったドレスをお作りした方が良いかと」
アランは首をかしげた。
「女中頭が用意したものでは駄目?」
「一カ月たちますが、ミカ様はどうやらフレア国のドレスに慣れていらっしゃらないのではないかと」
「慣れていない……?」
「女中頭が申しますには、裾を踏んで破いてしまったり、レースやリボンを家具などにひっかけてしまうとのことです」
アランはますます首をかしげた。
アランの記憶では、初めて落下した時に抱きとった風情も、その後の少し怯えたような雰囲気も、そんなお転婆娘のようには見えなかったからだった。
「わかりました、手配を考えましょう。ですが、その前に一度会っておいた方がいいかな。グールドも一緒に」
アランは椅子横に立てかけてあった剣を帯剣し、執事グールドとともに廊下奥に位置するミカがいる部屋へと向かった。
***
ノックをすると、「はい」と軽やかな返事が聞こえてきた。
こちらにきて一カ月、一番の明るい声にアランはちょっと驚く。
中に入ると、娘……ミカが笑顔とまではいかないにしても、穏やかで明るい顔で立ちあがってアランを出迎えた。
不思議な娘の黒の瞳が、アランを見つめる。
「……ミカ、ごきげんいかがですか」
アランは、娘の名を呼ぶときに、少し緊張する自分がいることに気付いていた。
落ちてきたその日に、名を問うと答えてきた不思議な響き。『ミカ……』という声を、アランは何度も思い出す。
……黒い瞳が少し濡れたようにうるんでいて、アランを見つめていた。あきらかに怯えと怖れがあった。だが怯えつつも、なんとか答えようとして唇にのせたであろう、声、だった。
フレア王国ではめずらしい名であったが、発音しにくい響きではない。
なのに、アランは呼びかけようとすると、なぜか少し気が張ってしまうのだった。
そんな緊張をおしころして声をかけたアランにむかって、
「ごきげんはいいですよ!」
と、そう言ってミカは笑った。
頬が上気し、唇がにこやかに弧を描いていた。
最近、ミカが笑うようになったとアランの元に報告が届いていたが、アランがそれを目の当たりにするのは初めてだった。
「そう……良かった」
ミカは今まで泣き顔はほとんどみせなかったものの、眉根をよせたり、思案顔だったりすることが多かったので、アランにはミカの笑顔はまぶしくうつる。
するとめずらしく、ミカがアランに話しかけてきた。
「バラをね、一本いただいて飾らせてもらったんだけど……良かったかな?」
アランが、ミカの指さした方を見ると、淡いピンク色のバラが一輪ざしに飾ってあった。
アランはそれを見つめる。
「もう、見頃が終わりつつあるとかで剪定しているのが窓から見えたから……その……ちょっと頼んで一本もらったの。とったんじゃないよ?庭師さんにちゃんと言ったんだけど、いけなかった?」
アランが黙っていたのを怒りと誤解したのか、ミカは慌てたように言った。
「いいえ、飾ってかまいませんよ。このバラが、あなたの心を明るくしたのですね」
「今日の私、明るいかな?……あぁ、うん、花が一本あるだけで、部屋が明るくなるし、心も明るくなるのかも」
ミカのふとしたその言葉を聞いたとたん、アランは自分の胸が痛むのを感じた。ミカはまだ不審人物として扱っていたので、この部屋にほとんど閉じ込めている状態だったからだ。
「……いくらでも飾りましょう」
自覚ないままに、アランの唇は言葉を紡いでいた。
「花……花であなたの心が明るくなるなら、いくらでも」
「え?」
黒髪をさらりと流して、驚いたように見開かれた黒眼がアランを見上げる。
アランはその眼を見つめ返していた。
「出かけることはまだできませんが、部屋を明るくすることはできます。あなたが笑顔になるなら」
「アラン、なにを……」
「笑顔を見られるなら、花を……」
アランは、今、そこで、自分が何を口にしているのかを自覚した。
……私はなにを?
……なぜ、この娘の笑顔を見らるなら、花で部屋を埋め尽くしたっていい…なんて、一瞬にでも考えていたのか…。
アランは、戸惑った。そして、慣れない自分の気持ちを前に口をつぐんだ。
そういうアランを前にしてミカはすこし小首を傾げて考えるそぶりをした後、
「アランは、本当に女性に優しく接するんだね。私みたいな、突然、落っこちてきた人にですら……」
そう言い、小さく笑った。
「そういうわけではありませんが」
アランは、ミカが言うような「女性を守ろう」という気持ちで「花を…」と言ったわけではなかった。けれど、自分の気持ちをうまく表現できずにいた。
その迷う間に、ミカはどんどん言葉をつづけてしまう。
「うん、また窓からキースが剪定してるのが見えたら、分けてもらうね。ありがと」
「……」
キースという庭師の名が出たとたん、アランは自分の胸に靄がかかる気がした。
アランはふっきるように、話題を変えることにした。
「……ところでミカ、今、着ているドレスは過ごしにくいですか?」
「ドレス?」
「えぇ、裾を踏んだり、ひっかけるとの連絡が……」
「あっ!あっ!ごめんなさい!」
アランの言葉に、ミカはあたふたと慌てだした。
「あの、私が元いた世界、日本というところでは、こんなに長くてヒラヒラしたスカートで生活していなかったの……。だから、ちょっと……その……動きにくくて」
「では、もう少し丈と飾りを変更しましょう」
「そんな、もったいないよ……。ごめんなさい、破いて。なんとか慣れるように頑張るから」
ミカはうなだれてうつむいた。
アランは、無性にそのうつむいた顔を先ほどのように上げさせたくなった。
「ミカ、庭ぐらいは歩きたくありませんか?」
「え?」
アランの思惑通り、ミカはアランの言葉にさっと顔を上げた。
きょとんとした顔をして、見上げてくる。
……本当にくるくると表情が変わるのだな。面白くて……可愛い。
アランは自分の言葉で、ミカの表情が変わっていくのが楽しくなってくるのを感じた。
「今は、まだ部屋にいてもらいますが……。なんとかして、この館の庭の散歩くらいは出来るように手配してみましょう」
「ほんと!?」
……ほら、顔が輝いた。
アランも笑みになった。
ミカが、笑顔になっている。『自分の言葉で、笑顔になった』ただそれだけで、嬉しくなってくるのだった。
「そうです。散歩するには、ドレスももう少し歩きやすいものにしないといけませんね。裁縫が得意なものたちに用意させておきましょう」
「うん。あ……」
「なんですか?」
ミカがおずおずとこちらを見上げた。
「アラン、ありがとう」
黒の瞳が感謝の灯をともして、こちらを見た。
まっすぐに、穏やかにむけられる視線。
アランは、その眼を見つめ返して……そして、自分の方からはずしてしまった。
いつでも見ていたかったのに、照れてしまったのだった。
「どういたしまして。これからも何か不都合があれば、すぐにでも言ってください……」
言いかけて、ふと、アランは気付いた。
そうだ、今私は……。
アランが振り返ると、予想通り執事グールドが美しいシャンとした姿勢で立っていた。
……私は、今、グールドの存在を忘れていた……。
顔にださなかったが、アランは自分自身の失態に驚いていた。
「私がいないときには、このグールドに頼むように」
付け加えたようにグールドを紹介したアランに、グールドはチラッと視線をよこしてから、ミカの方を向いて軽く礼をした。
そんなグールドに、ミカは、
「あ、グールドさんには、すでにたくさんお世話になってるから……」
「……」
アランは、グールドの方を向いた。グールドはシレっとした顔をして前を向いている。
たしかに、古語の使える使用人の件も、今ミカに話したドレスの件も、グールドがアランに話したことだった。
アランはこの一カ月、ミカについてはグールドに状況をたずねて、ミカ本人には少し顔を見せに来るような関係だったのだ。
……もちろん、食事も別であった。(なんせ、不審者認定だったのであるから…)
アランは反省した。
……私は、どうやらミカと話す時間が短かったようだ。グールドにまかせすぎた。もっとミカと時間を過ごさねばなるまい。
と、深く考え直したのだ。
この日から、アランは朝食、夕食、そして王城から早く戻れたときはお茶の時間を……ミカと毎日過ごすようになった。
そして、そっとミカの部屋に花を生けることと、シンプルなドレスの手配を忘れなかった。
これが、ミカが異世界に落下して、一ヶ月目のこと。