「もう限界です。離婚届に判を押してください」47回殺された私が夫を諦めたら、氷の公爵が溶け始めました
第一章 47回目の朝、私は夫を諦めた
「もう限界です。離婚届に判を押してください」
私——リーゼロッテ・フォン・ヴァイスフェルトは、クローゼットの中で目覚めた瞬間、そう宣言した。
手には一本の古びたハンガー。
使い込まれた木製の、なんの変哲もないハンガー。
けれどこれが私の『セーブポイント』だと知っているのは、この世界で私だけ。
(47回目……いい加減、飽きましたわ)
目の前には、銀髪碧眼の美丈夫。
『氷の公爵』ヴィクトル・レオンハルト・アイゼンシュタット。
私の夫であり、47回連続で私を処刑台に送った張本人——ではないけれど、まあ、元凶みたいなものだ。
「……何を言っている」
相変わらず表情筋が死んでいる。
この人、笑ったことあるのかしら。いや、ないわね。47周見てきたもの。
「離婚届です。り・こ・ん」
私はベッドサイドのテーブルに書類を叩きつけた。
この3年間——正確には47周×3年間——で完璧に準備しておいた逸品だ。
「理由を聞いても?」
「愛されない妻を続けるのに疲れました」
あら、少しだけ眉が動いた。
珍しい。この人がこんな序盤で反応を見せるなんて。
(でも、もう遅いんですよ、旦那様)
「政略結婚とはいえ、不自由はさせていないはずだが」
「ええ、衣食住は完璧ですわ。ただ——」
私は窓の外を見た。
朝日が差し込む美しい庭園。豪華な調度品に囲まれた部屋。何不自由ない暮らし。
そして、3年間で数えるほどしか訪れない夫。
「——心が、死にそうなんです」
本音だった。
47回、愛されようと努力した。
47回、裏切られた。
47回、処刑された。
もう、十分でしょう?
「…………」
ヴィクトルが黙り込む。
その沈黙の意味を、私はもう考えない。
「お返事は急ぎません。ただ、私は本日より離れに移ります」
「離れだと?」
「ご安心ください。公爵夫人としての務めは果たしますわ。ただ、それ以外の時間は——」
私は微笑んだ。
47回分の諦めを込めて。
「——自分のために使わせていただきます」
◇
離れに向かう廊下で、フィリップが待っていた。
「奥様、お荷物の移動は完了しております」
「相変わらず仕事が早いわね」
「奥様のご決断を、お待ちしておりましたので」
穏やかな笑顔。けれど、その焦茶の瞳には確かな覚悟が見える。
(この人、絶対何か気づいてるわよね……)
「フィリップ」
「はい」
「私、仕立て屋を始めようと思うの」
「……それは、素晴らしいお考えかと」
一瞬の間。
けれど彼は何も聞かなかった。なぜ突然そんなことを、とも。公爵夫人がそんなことを、とも。
「材料の調達、手伝ってもらえる?」
「喜んで。——奥様」
「何?」
「奥様が幸せになれないのであれば、この屋敷ごと燃やす覚悟はできております」
笑顔で物騒なことを言う。
(やっぱりこの人、絶対何か知ってる)
でも、今は心強い味方だ。
「燃やさなくていいわ。私、もう——」
48回目の人生。
愛されなくても、死ななければ勝ち。
「——自分で自分を幸せにするから」
第二章 離れの仕立て屋、開店準備
離れの一室を工房に改装して、三日が経った。
「奥様、生地が届きました」
「ありがとう、フィリップ。……って、多くない?」
部屋の半分を埋め尽くす生地の山。
絹、綿、麻、ベルベット——ありとあらゆる素材が揃っている。
「少々、手配しすぎましたでしょうか」
「少々……?」
「奥様の腕前であれば、すぐに足りなくなると判断いたしまして」
(この人、私の『糸読み』のこと知ってる……?)
いや、考えすぎか。
単に有能すぎるだけだ。きっと。
「まあいいわ。さっそく——」
私は一枚の淡い水色の絹を手に取った。
瞬間、頭の中にデザインが浮かぶ。
Aラインのドレス。袖はふんわりと、でも手首で絞って。胸元には繊細なレースを——
(うん、見えた)
『糸読み』。
前世から引き継いだ、私だけの能力。
布を見ただけで、その素材に最適なデザインが頭に浮かぶ。
47回のループで唯一、役に立たなかったスキル。
だって、公爵夫人が自分で服を縫うなんて、許されなかったから。
「でも、もう関係ないわよね」
私は針を手に取った。
これからは、自分のために縫う。
◇
「——失礼いたします、義姉上」
ノックもそこそこに入ってきたのは、オスカー・アイゼンシュタット。
ヴィクトルの弟で、この屋敷で唯一まともに会話できる人間だ。
「あら、オスカー様。珍しいわね、離れまでいらっしゃるなんて」
「いやあ、噂を聞きまして」
飄々とした笑み。銀髪に紫の瞳。兄とは正反対の、柔らかい印象。
「義姉上が仕立て屋を始めると。本当だったんですね」
「ご迷惑でしたか?」
「まさか! むしろ——」
オスカーは部屋を見回して、目を輝かせた。
「——最高に面白い展開じゃないですか」
(この人も大概よね……)
「それで、兄上の様子なんですが」
「興味ありません」
「まあまあ、聞いてくださいよ。なんと——」
オスカーが声を潜める。
「——執務室の窓から、この離れをずっと見てるんですよ」
「……は?」
「仕事中も、食事中も、ちらちらと。部下たちが『公爵様が窓際で黄昏れている』って心配してます」
(……何それ)
「私に関心があるなら、3年間で態度に出してくれればよかったのに」
「ああ、それは無理ですね。兄上、不器用なので」
「不器用で済む話じゃないでしょう」
「ですよねえ」
オスカーはあっさり同意した。
「でも義姉上、一つだけ」
「何?」
「兄上が義姉上を嫌っているかというと——それは絶対に違います」
紫の瞳が、真剣な色を帯びる。
「むしろ、好きだからこそ距離を置いていた。……愚かですけどね」
(……何を今さら)
47回、信じて裏切られた。
今さら、そんな言葉で——
「まあ、信じる必要はありませんよ。ただ——」
オスカーはドアに手をかけて、振り返った。
「——義姉上が幸せになる姿を見れば、兄上も少しは変わるかもしれません。期待せずにお待ちください」
軽い足取りで去っていく。
残された私は、手元の布を見つめた。
(期待なんて、しないわよ)
でも——
(48回目は、自分のために生きる。その結果、何が変わるかは——)
知らない。
知りたくもない。
はずなのに。
「……窓から見てるって、何」
ちょっとだけ、心がざわついた。
第三章 最初の顧客は社交界の女帝
仕立て屋を開いて一週間。
正直、顧客なんて来ないと思っていた。
公爵夫人が針仕事? 正気?——そんな噂が立つのは想像に難くない。
ところが。
「あなたが噂の仕立て屋さん?」
離れの入口に立っていたのは、ふくよかな体型に派手なドレス。
朗らかな笑顔と、三部屋先まで聞こえそうな声。
マリアンヌ・フォン・ベルクシュタイン侯爵夫人。
社交界の重鎮にして、『女帝』の異名を持つ大御所だ。
(え、なんでこの人が?)
「お噂は伺っておりますわ、侯爵夫人」
「あらやだ、堅苦しいのは嫌いよ。マリアンヌでいいわ」
ずかずかと入ってきて、工房を見回す。
鋭い目が、並べられた布や道具を品定めしていく。
「——ふうん、本気なのね」
「と、おっしゃいますと?」
「公爵夫人の気まぐれかと思ったけど、違うみたい。この工房、プロの作りだわ」
(さすが、見る目がある)
「それで——」
マリアンヌが私の前に立つ。
「——私にドレスを作ってくれないかしら?」
「私に、ですか?」
「来月の王宮舞踏会用よ。今の仕立て屋に飽きちゃって」
(来月の舞踏会……)
47回のループで、いつもシャルロッテに陥れられる場所だ。
でも今回は、参加する気なんてなかった。
「お断りしても?」
「あら、どうして?」
「私、舞踏会には出ませんので」
「——だからこそ、でしょう?」
意味深な笑み。
「あなた、シャルロッテ嬢に何かされたのよね?」
心臓が跳ねた。
「……なぜ、そう思われるんですか」
「勘よ、勘。あの子の『可哀想な私』芝居、私は最初から胡散臭いと思ってたの」
マリアンヌが私の手を取る。
「ねえ、リーゼロッテ。私の目は節穴じゃないわ。あなた——」
「——何回、やり直したの?」
息が止まった。
「……何の、ことでしょう」
「ごまかさなくていいわよ。その目、若い娘の目じゃない。——何十回も何かを繰り返した人間の目だわ」
(この人……本当に、何者?)
「安心して。言いふらしたりしないから」
マリアンヌは私の手を離し、にっこりと笑った。
「私ね、昔、あなたと似た立場だったの。政略結婚で、夫に愛されなくて、姑にいびられて——」
「…………」
「でも私は、やり直す力なんてなかった。だから——」
彼女の目が、真剣になる。
「——あなたには、勝ってほしいの。何回やり直したか知らないけど、今度こそ」
◇
結局、私はマリアンヌの依頼を受けた。
「この色がお似合いになりますわ」
深紅のベルベット。
彼女の豊かな体型を活かす、大胆なデザインが頭に浮かんだ。
「任せるわ。——それと」
「はい?」
「あなた自身のドレスも作りなさい」
「……私は舞踏会には」
「出るのよ。——シャルロッテ嬢を倒すなら、あの場所でしょう?」
マリアンヌが意地悪く笑う。
「私が社交界に広めてあげる。『アイゼンシュタット公爵夫人の仕立ての腕前は本物』ってね。代わりに——」
「代わりに?」
「——最前列の席を用意なさい。最高のショーを、見せてちょうだい」
(……この人、本当に食えないわね)
でも。
不思議と、嫌な気持ちはしなかった。
「……47回」
「え?」
「私がやり直した回数です。——今回が、48回目」
マリアンヌの目が見開かれる。
そして——
「——最高じゃない。47回分の証拠、全部覚えてるってこと?」
「ええ、まあ」
「あっはっは! シャルロッテ嬢、終わったわね!」
豪快な笑い声が、離れに響いた。
(……味方が、できた)
48回目にして初めて。
私は、一人じゃなくなった。
第四章 氷の公爵、初めて妻を見失う
——ヴィクトル視点——
妻が離れに移って、二週間が経った。
「公爵様、こちらの書類に署名を」
「……ああ」
「公爵様」
「……何だ」
「窓の外ではなく、書類をご覧ください」
副官の呆れた声で我に返る。
また、やっていた。
離れの窓を、見ていた。
(……馬鹿か、俺は)
政略結婚だ。
愛など、最初から求めていない。
妻が離れに移ろうが、仕立て屋を始めようが、俺には関係ない。
——はずだった。
「旦那様」
ノックと共に入ってきたのは、フィリップ。
妻付きの執事だ。
「何だ」
「奥様からの伝言です。『本日の夕食は不要です。仕事が立て込んでおりますので』と」
「……そうか」
「また、『離婚届の件、お忘れなきよう』とのことです」
離婚届。
あの朝、妻が叩きつけてきた書類。
まだ、判は押していない。
押す気も——
(……押す気が、ないのか?)
「フィリップ」
「はい」
「妻は……リーゼロッテは、どうしている」
「大変お忙しくされております。侯爵夫人からのご依頼で、舞踏会用のドレスを——」
「舞踏会?」
リーゼロッテは、社交が苦手だったはずだ。
いつも俺の後ろで、小さくなって——
「ええ。奥様、来月の王宮舞踏会にご出席されるそうです」
「……初耳だが」
「旦那様にお伝えする義務はございませんので」
にっこりと笑うフィリップ。
その目が、明らかに俺を責めている。
「旦那様」
「……何だ」
「奥様のお気持ちを、お考えになったことはございますか?」
笑顔のまま、鋭い言葉。
「3年間、奥様がどれほど旦那様を想っておられたか。——ご存知ないとは言わせませんよ」
「…………」
知っている。
知っていた。
妻がいつも笑顔で俺を迎えてくれたこと。
俺が無視しても、諦めずに話しかけてきたこと。
夜遅くまで、俺の帰りを待っていたこと。
全部、知っていた。
知っていて——逃げた。
(愛すれば、傷つく。愛されれば、いつか失う)
幼い頃に見た両親の愛憎劇。
愛し合っていたはずの二人が、憎しみ合い、壊れていく姿。
俺は、あれを繰り返したくなかった。
だから、最初から愛さないことにした。
——愛してしまっていることに、気づかないふりをした。
「フィリップ」
「はい」
「……妻のところに、行ってもいいか」
「奥様にお聞きください。——私が許可を出す立場ではございませんので」
正論だ。
妻の使用人に、妻への面会許可を求める夫。
滑稽にもほどがある。
「……わかった」
俺は立ち上がった。
3年間、避け続けた。
47回——いや、それは妻の話か——とにかく、長い時間。
でも、今。
妻が離れていく。
俺の手の届かない場所に、行こうとしている。
それが——
(——耐えられない)
初めて、認めた。
俺は、彼女を失いたくない。
◇
離れの扉の前で、俺は立ち尽くしていた。
ノックをしようとして、手が止まる。
何度も、何度も。
(何を言えばいい?)
『離婚は認めない』?
——妻を縛る権利が、俺にあるのか。
『お前が必要だ』?
——3年間無視しておいて、今さら。
『愛している』?
——言ったことも、ない。
「——あら、旦那様」
扉が開いた。
「どうされました? 扉の前で突っ立って」
蜂蜜色の髪。琥珀色の瞳。
いつもと同じ、妻の姿。
でも、何かが違う。
「……お前」
「はい?」
「——綺麗に、なったな」
言ってから、後悔した。
以前は綺麗じゃなかったみたいな言い方だ。
案の定、妻は眉を上げた。
「それは、褒め言葉ですか?」
「……ああ」
「ふうん」
興味なさそうな返事。
以前の妻なら、頬を染めて俯いていたのに。
「それで、ご用件は?」
「…………」
「ないなら、私は仕事に戻りますけど」
「待て」
思わず、妻の腕を掴んだ。
「——っ」
妻が、わずかに息を呑む。
その反応に、胸が騒いだ。
「……離婚届」
「はい」
「まだ、判は押していない」
「存じております」
「押す気も、ない」
「——は?」
妻の目が見開かれる。
「お前は俺の妻だ。——離婚など、認めない」
「……今さら、何を」
「今さらだ。今さらだが——」
言葉が詰まる。
喉の奥で、何かがつかえている。
「——俺は、お前を手放したくない」
沈黙が落ちた。
妻は、じっと俺を見つめている。
琥珀色の瞳に、何の感情も読み取れない。
そして——
「嫌です」
「……何?」
「手放したくないって言われても、嫌です。——3年間、散々無視しておいて」
妻が俺の手を振り払う。
「旦那様。私、もう疲れたんです。愛されようと努力するの」
「…………」
「だから、もう諦めました。——自分で自分を幸せにするって、決めたんです」
扉が、閉まる。
俺は、閉ざされた扉の前で立ち尽くした。
(……拒絶された)
当然だ。
3年間、俺がしてきたことを思えば。
でも——
(諦めない)
今度は、俺が追う番だ。
何回拒絶されても、何年かかっても。
——お前を、取り戻す。
第五章 悪女の企み、48回目の罠
王宮舞踏会まで、あと一週間。
「リーゼロッテ様の仕立て、もう予約がいっぱいですって?」
「マリアンヌ様があんなに褒めるなんて、本物なのね」
「私もお願いしようかしら——」
社交界では、私の名前がちらほら囁かれるようになっていた。
(順調、順調)
47回分の知識と、『糸読み』の能力。
ようやく、本来の力を発揮できている。
でも——
「奥様、シャルロッテ嬢がお見えです」
フィリップの報告に、手が止まった。
(来たか)
「お通しして」
「……よろしいのですか?」
「ええ。——48回目の挨拶を、受けてあげないと」
◇
「まあ、リーゼロッテ様。ご機嫌麗しゅう」
艶やかな黒髪に翡翠の瞳。
儚げな微笑み。完璧に計算された『可憐な令嬢』の佇まい。
シャルロッテ・メルヴィーユ。
47回、私を殺した女。
「シャルロッテ様、お久しぶりですわ」
私も微笑む。
47回分の経験で、表情筋の制御は完璧だ。
「離れで仕立て屋を始められたと聞いて、驚きましたわ。公爵夫人ともあろう方が——」
「あら、お気に召しませんでした?」
「いえ、そういう意味では……ただ、ヴィクトル様がお可哀想で」
きた。
『可哀想なヴィクトル様』作戦。
「妻が商売なんて、ヴィクトル様の沽券に関わりますもの。周りがどう思うか——」
「ご心配には及びません」
私は針を手に取り、縫い物を再開した。
「夫は何も言っておりませんもの。——あなたに心配していただく必要はありませんわ」
「っ——」
シャルロッテの目が、一瞬だけ鋭くなる。
すぐに儚げな笑みに戻ったけれど——
(47回見てきたのよ、その演技)
「そうですか……では、私の余計なお世話でしたわね」
「ええ、本当に」
「ふふ、リーゼロッテ様、変わられましたわね」
「そうかしら?」
「ええ。以前は、もっと——」
シャルロッテが言葉を切る。
「——弱々しくて、可愛らしかったのに」
その目が、獲物を見る捕食者のように細まる。
「今のあなたは、なんだか——怖いわ」
(言ってくれるじゃない)
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
「……ふふ」
シャルロッテが立ち上がる。
「来月の舞踏会、楽しみにしておりますわ。——リーゼロッテ様が、どんなドレスをお召しになるのか」
「ええ、ご期待ください」
扉が閉まる。
——直後。
「奥様」
フィリップが入ってきた。
「今の会話、全て記録いたしました」
「ありがとう。——あの女、何か仕掛けてくるわよ」
「承知しております。既に屋敷内の全使用人に、シャルロッテ嬢の動向を監視するよう指示しております」
さすがの手際だ。
「47回分の悪事——覚えておりますか?」
「もちろん」
私は引き出しから、一冊のノートを取り出した。
「毒殺の濡れ衣、不倫の捏造、国家反逆の冤罪——全部、記録してあるわ」
フィリップが、そのノートを見て目を見開く。
「これは……」
「証拠よ。47回分の、あの女の悪事の証拠。——今回の舞踏会で、全て暴く」
「奥様……」
「私、もう負けないわ」
48回目の人生。
もう、殺されてあげない。
「シャルロッテ——覚悟しなさい」
第六章 舞踏会前夜、氷の公爵の告白
舞踏会前日。
私は自分用のドレスを仕上げていた。
深い紺色のベルベット。星空のような銀糸の刺繍。控えめだけれど、誰の目にも留まる逸品——のはず。
「奥様、素晴らしい出来栄えです」
「ありがとう、フィリップ」
「明日の舞踏会、きっと——」
ノックの音。
「……こんな時間に?」
時計を見れば、もう夜の10時を過ぎている。
フィリップが扉を開けると——
「——入っても?」
ヴィクトルが立っていた。
◇
「何かご用ですか、旦那様」
私は縫い物の手を止めず、問いかけた。
ヴィクトルは、部屋の中を見回している。
工房と化した離れの一室。布や道具が所狭しと並ぶ空間。
「……ここで、寝ているのか」
「ええ、そうですけど」
「ベッドは」
「あちらに」
小さなベッドを指差す。
公爵夫人にはふさわしくない、質素なものだ。
「…………」
ヴィクトルの眉間に、シワが寄る。
(何よ、その顔)
「不満でしたら、本館に戻ればいいとでも?」
「そうは言っていない」
「じゃあ何が言いたいんですか」
「——俺の部屋に来ないか」
針が止まった。
「……は?」
「俺の部屋だ。お前が使っていい。広いし、ベッドも——」
「お断りします」
「なぜだ」
「意味がわかりません。3年間、一度も誘われなかったのに」
「……それは」
「今さら夫らしく振る舞われても、困るんです」
私は再び針を動かし始めた。
沈黙が落ちる。
重い、重い沈黙。
「リーゼロッテ」
「何ですか」
「明日の舞踏会——」
「出ます。一人で」
「俺も行く」
「ご勝手に」
「お前と、一緒に」
手が止まる。
「……なぜ」
「夫婦だからだ」
「今さら——」
「今さらでも、だ」
ヴィクトルが、私の前に膝をついた。
「——っ」
『氷の公爵』が、妻の前で跪いている。
その姿に、心臓が大きく跳ねた。
「リーゼロッテ。俺は——」
碧眼が、真っ直ぐに私を見つめる。
「——お前を、愛している」
息が止まった。
「3年間、逃げていた。愛することが怖くて、お前を傷つけることが怖くて——」
「…………」
「でも、お前が離れていって、やっとわかった。——俺はとっくに、お前なしでは生きられなくなっていた」
(……やめて)
心が揺れる。
47回分、聞きたかった言葉。
47回分、待ち望んだ瞬間。
でも——
「信じられません」
声が震えた。
「47回——いえ、3年間、愛されなかった私に、今さらそんなことを言われても」
「47回?」
「っ——」
しまった。
ヴィクトルの目が、鋭くなる。
「リーゼロッテ。——47回とは、何だ」
「……なんでも、ありません」
「嘘をつくな」
「嘘じゃ——」
「お前の目を見ればわかる。——何か、隠しているな」
(この人、こういう時だけ鋭い……)
「……信じないでしょうけど」
私は諦めて、ハンガーを手に取った。
「これが、私の『セーブポイント』です」
「……何?」
「このハンガーに触れて眠ると、最悪の結末を迎える前の『あの朝』に戻れるんです。——既に47回、やり直しました」
沈黙。
「……信じられないのはわかっています。でも——」
「信じる」
「——え?」
「お前が言うなら、信じる」
即答だった。
「なぜ……」
「お前の目だ」
ヴィクトルが立ち上がり、私の頬に手を伸ばす。
「最初に会った時から、お前の目はどこか遠くを見ていた。——今、その理由がわかった」
「…………」
「47回。——47回、お前は何を見てきた?」
「……あなたの幼馴染に陥れられて、処刑される未来です」
「シャルロッテか」
「ええ」
「——殺す」
物騒な言葉が、氷のように冷たい声で放たれた。
「待ってください。殺さなくていいです」
「なぜだ」
「私が、自分でケリをつけます。——明日の舞踏会で」
私は立ち上がり、ヴィクトルと向き合った。
「だから、邪魔しないでください」
「……俺は何もするなと?」
「はい」
「できない」
「——は?」
「お前が戦うなら、俺は隣にいる。——それだけは、譲れない」
碧眼が、まっすぐに私を射抜く。
(……ずるい)
47回、聞きたかった言葉。
47回、望んだ姿。
今さら、今さらなのに——
「……勝手にしてください」
私は顔を背けた。
耳まで熱くなっているのが、自分でもわかる。
(チョロい。私、チョロすぎる……)
「ああ、勝手にする」
ヴィクトルの声が、少しだけ柔らかくなった気がした。
第七章 華麗なる逆転劇
王宮舞踏会、当日。
「あれが、アイゼンシュタット公爵夫人?」
「なんて綺麗なドレス……」
「ご自分で仕立てたというのは、本当だったのね」
会場に入った瞬間、視線が集まった。
深い紺色のベルベットに、星空のような銀糸の刺繍。
ヴィクトルの軍服と並ぶと、まるで夜空の星と月のようだ——と、誰かが囁いた。
(上々の滑り出し)
「リーゼロッテ」
「何ですか」
「——美しい」
隣のヴィクトルが、小声で言った。
耳が、微かに赤い。
(……今、なんて?)
「聞こえなかったふりをしますね」
「……なぜだ」
「心臓に悪いので」
「——そうか」
ヴィクトルの口角が、ほんの少しだけ上がった。
笑った……のか? この人が?
(47回で初めて見た……)
「義姉上!」
オスカーが駆け寄ってくる。
「最高です! 兄上の表情が! 今日、既に三回も眉が動きましたよ!」
「カウントしてるの……?」
「もちろん! 日課ですから!」
この兄弟、本当に仲がいいのか悪いのかわからない。
「ところで義姉上、シャルロッテ嬢が——」
「知ってるわ」
視線を向ける先に、黒髪の女がいた。
翡翠色のドレス。
儚げな微笑み。
今夜も完璧な『悲劇のヒロイン』を演じている。
「——リーゼロッテ様」
シャルロッテが近づいてくる。
「素敵なドレスですわね。でも——」
視線が私の首元に向く。
「——アクセサリーがないのは、少し寂しいですわね。これ、よろしければ——」
差し出されたのは、美しいネックレス。
(来た)
47回中、12回はこのパターンだった。
毒を塗ったアクセサリーを贈り、後で『リーゼロッテ様に毒を盛られた』と訴える。
「まあ、ありがとうございます。でも——」
私はにっこりと微笑んだ。
「——遠慮しておきますわ」
「あら、どうして?」
「だって——」
声を張る。
周囲の貴族たちが、こちらを見た。
「——そのネックレス、毒が塗ってありますもの」
会場が、静まり返った。
◇
「な……何を言っているの、リーゼロッテ様?」
シャルロッテの顔が引きつる。
「私が、毒を……? そんな、濡れ衣を……」
目に涙が浮かぶ。
完璧な『被害者』の演技。
——47回、見飽きた。
「証拠がございますわ」
私はフィリップに目配せした。
彼がマリアンヌ侯爵夫人をエスコートして、こちらに向かってくる。
「やあやあ、楽しそうなことをしてるじゃない」
マリアンヌが扇子で口元を隠しながら、にやりと笑う。
「侯爵夫人……?」
「シャルロッテ嬢。——そのネックレス、私も見覚えがあるわよ」
「なっ——」
「3年前、私の夜会で似たようなものが出回ってね。あの時は原因不明で済んだけど——今なら、検査できるわよね?」
マリアンヌが指を鳴らすと、王宮の衛兵が近づいてきた。
「そ、そんな……私は何も——」
「まだありますわ」
私は一歩前に出た。
「シャルロッテ様。——あなた、私に何をしてきたか覚えていらっしゃる?」
「何を……」
「毒殺の濡れ衣。不倫の捏造。国家反逆の冤罪——」
一つ一つ、指折り数える。
「——47回分、全部覚えていますのよ」
「47回……? 何を言って——」
「証拠もございます」
私はフィリップからノートを受け取り、高く掲げた。
「あなたが買収した使用人の名前。偽造した書類の筆跡。協力者への支払い記録——全て、ここにありますわ」
シャルロッテの顔が、青ざめていく。
「う、嘘よ……そんなもの、偽造だわ……」
「偽造かどうかは、調べればわかりますわね」
「リーゼロッテ」
ヴィクトルが、私の隣に立った。
「俺からも一つ」
氷のような視線が、シャルロッテを射抜く。
「お前が俺の妻を陥れようとしていたことは、知っている。——幼馴染のよしみで見逃していたが」
「ヴィクトル様……」
「もう、限界だ。——衛兵」
衛兵が、シャルロッテを取り囲む。
「い、嫌……嫌よ……」
シャルロッテの目から、本物の涙が溢れた。
「私は……私は、ただ、ヴィクトル様を——」
「俺を?」
「愛していたの! なのに、あんな女に取られて——」
「あんな女?」
ヴィクトルの声が、さらに冷たくなる。
「——俺の妻を、『あんな女』と呼ぶのか」
「……っ」
「俺はお前を愛したことはない。——勝手に期待して、勝手に逆恨みしたのはお前だ」
シャルロッテが、崩れ落ちる。
「そんな……私は……私こそが、ヴィクトル様にふさわしい——」
「ふさわしいかどうかは、俺が決める」
ヴィクトルが、私の手を取った。
「——俺の妻は、リーゼロッテだ。それ以外に、いらない」
会場が、ざわめいた。
『氷の公爵』が、妻の手を取り、公の場で愛を宣言している。
前代未聞だ。
「連れていけ」
衛兵に連行されるシャルロッテ。
最後まで、恨みがましい目でこちらを睨んでいた。
——でも、もう怖くない。
「奥様、お見事でした」
フィリップが、静かに微笑んだ。
「あっはっは! 最高のショーだったわ!」
マリアンヌが、豪快に笑う。
「義姉上、かっこよすぎます……」
オスカーが、感動の涙を流している。
そして——
「リーゼロッテ」
ヴィクトルが、まだ私の手を握っている。
「踊らないか」
「……は?」
「舞踏会だ。——妻と踊るのは、当然だろう」
(この流れで踊るの……?)
でも、周囲の視線が期待に満ちている。
断れる雰囲気じゃない。
「……好きにしてください」
「ああ、好きにする」
ヴィクトルに手を引かれ、ホールの中央へ。
音楽が流れ始める。
47回——いや、48回目にして初めて。
私は、夫と踊った。
第八章 48回目の、最後の選択
舞踏会から、一週間。
シャルロッテは社交界から追放され、実家で謹慎。
私の仕立て屋は大繁盛。
そして——
「奥様、旦那様からのお花です」
「また?」
「はい、本日で15回目でございます」
フィリップが、呆れたように花束を差し出す。
薔薇、百合、カーネーション——毎日違う花が届く。
メッセージカードには、いつも同じ言葉。
『愛している——V』
(本当に、今さらなんですけど)
でも——正直に言えば。
嫌じゃない。
「奥様、お顔が赤いですよ」
「……うるさいわね」
「旦那様がお待ちです。——そろそろ、会ってあげてもよろしいのでは?」
一週間、私はヴィクトルを避けていた。
舞踏会でのあれこれが恥ずかしくて、顔を合わせられなかったのだ。
「……わかったわ」
◇
本館の執務室。
ノックをすると、すぐに「入れ」と声がした。
「失礼します」
扉を開けると——
ヴィクトルが、窓際に立っていた。
銀髪に光が差し込んで、まるで絵画のよう。
(……やっぱり、綺麗な人よね)
「来てくれたか」
「フィリップに急かされたので」
「……そうか」
微かに、肩を落とす。
(あ、ちょっとかわいい)
——いや、何を考えてるの私。
「それで、ご用件は?」
「ああ」
ヴィクトルが、こちらに歩いてくる。
そして——
私の前で、跪いた。
「——また跪くんですか」
「これしか、やり方がわからない」
「不器用ですね」
「ああ」
碧眼が、まっすぐに私を見上げる。
「リーゼロッテ。——俺を、もう一度だけ選んでくれないか」
心臓が、大きく跳ねた。
「3年間、いや、47回——お前を傷つけた。取り返しがつかないことは、わかっている」
「…………」
「それでも。——もう一度だけ、やり直させてくれ」
跪く『氷の公爵』。
その姿は、47回のループで一度も見たことがなかった。
「……ずるいです」
「え?」
「そうやって跪かれたら、断れないじゃないですか」
「——断らないでくれ」
「……チョロいって思われますよ」
「思わない」
「思ってるでしょう」
「思っていない。——お前がチョロいのは、俺への信頼の証だ」
(それ、フォローになってないから……)
私は深呼吸した。
47回、愛されようとして、裏切られて、殺された。
48回目は、諦めて、自分のために生きようとした。
そして今——
「お断りします」
ヴィクトルの顔が、一瞬で凍りついた。
「……そう、か」
「——と、言いたいところですが」
「?」
私は微笑んだ。
48回分の諦めと、少しだけの期待を込めて。
「——48回目の人生、少しくらい甘やかされてもいいかもしれませんね」
ヴィクトルの目が、見開かれる。
「……いいのか」
「いいわけないでしょう。——でも」
私は、ヴィクトルの手を取った。
「あなた、これからどうやって償うつもり?」
「一生かけて返す」
「足りないわね」
「なら、来世も」
「大げさ」
「本気だ」
碧眼が、炎のように燃えている。
氷の公爵が、こんな顔をするなんて。
「……じゃあ、まずは」
「何だ」
「離婚届、破っていいですか?」
「——当然だ」
即答。
そして——
ヴィクトルが、私を抱きしめた。
「っ——」
「……ずっと、こうしたかった」
耳元で囁く声が、震えている。
「お前が笑うと、胸が苦しかった。お前が泣くと、世界が終わる気がした」
「…………」
「愛していた。——最初から、ずっと」
(……ずるい)
そんな言葉、47回分の私に言ってくれればよかったのに。
でも——
(まあ、いいか)
48回目の人生。
最後の人生。
セーブポイントはもう必要ない。
「ヴィクトル」
「何だ」
「——私も、愛しています」
ヴィクトルの腕に、力が込もった。
「……もう一度」
「え?」
「もう一度、言ってくれ」
「嫌です」
「頼む」
「一生に一度しか言いません」
「……そうか」
残念そうな声。
でも、耳が真っ赤だ。
(……かわいい)
私は、ヴィクトルの背中に手を回した。
これが、私が選んだ最後の人生。
愛されなくても生きていけると思っていた。
でも——
愛されるのも、悪くないかもしれない。
エピローグ 氷の公爵は今日も溶けている
——後日談。
「義姉上、兄上が溺愛モードに入りすぎて正視できません……」
「奥様、旦那様がまたプレゼントを——」
「リーゼロッテ様、新作ドレスまだですか? 旦那様に邪魔されてるなら言ってくださいね?」
周囲は大騒ぎだけれど。
私は——
まあ、幸せだ。たぶん。
「リーゼロッテ」
「何ですか」
「愛している」
「……今日、何回目ですか」
「47回」
「数えてたの……?」
「47回分の謝罪だ。——これから毎日、続ける」
(この人、絶対不器用を通り越してる)
でも、嫌じゃない。
「……好きにしてください」
「ああ、好きにする」
氷の公爵は、今日も溶けている。
そして私は——
48回目の人生を、生きている。
◇
クローゼットの奥で、古びたハンガーが静かに眠っている。
もう、触れる必要はない。
これが——私が選んだ、最後の人生だから。




