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【秋の文芸展2025 友情】校舎の屋上で、僕らは名前を捨てた

Ⅰ 屋上のノート


 風が鉄柵を鳴らす音が、授業のチャイムより落ち着く日がある。

 僕は三階の踊り場で足音を数え、廊下の曲がり角の死角を一つずつ確かめてから、非常扉の前に立った。押し開けると、湿った空気が一息で肺の奥に入ってくる。

 昼下がりの屋上は、体育の歓声から少し遅れて届く。見下ろせば、サッカーゴールが白く、グラウンドの土は昼寝から覚めたばかりの猫みたいにぬるい色をしている。ここでは誰も僕を呼ばない。出席番号も、提出物の締切も、黒板の粉も、全部遠い。


 コンクリートのベンチの端に、薄いA6サイズのメモ帳を置く。背表紙がほどけかけて、角が柔らかい。

 ページの上のほうに、青いボールペンで一行だけ書いた。


ここにいる“誰か”へ。


 少し迷ってから、丸を付けた。

 続けて、書く。


もし昼休みにここへ来るなら、何か一言だけ置いていってほしい。ルールは一つ。“本名”は書かないこと。


 自分で読み返すと、思ったより切実に見えて、慌ててペン先を離した。

 ノートを閉じ、ベンチの端にテープで貼り、風がめくっていかないように上から文庫本を置く。タイトルの文字が太陽で褪せている。

 誰かが来るだろうか、と考えること自体が、もう少し誰かを信じたい証拠みたいで、少しだけ恥ずかしい。僕は鉄柵にもたれ、グラウンドの線に沿ってゆっくり歩く人影を眺めた。先生かもしれないし、ただの影かもしれない。どちらにしても、ここには届かない。


 翌日。

 僕はいつもより早く屋上に上がった。踊り場で足音を聞き、誰もいないことを確かめてから扉を押す。風が昨日より冷たい。

 ベンチの上の文庫本は、僕が置いたときの向きと違っていた。

 メモ帳の表紙をめくる。真新しい筆跡が、左上から右下へ斜めに落ちていくような、少し緊張した線で並んでいた。


生きるのって、宿題みたいだね。


 それだけだ。名前はない。

 けれど、その一行に、誰かの体温がいた。

 僕はページの下に、そっと書いた。


返事:たぶん提出期限も配点もないやつ。


 間を空けて、もう一行。


ここでは“名前”の代わりに色で呼ぼう。僕はアオ。きみは好きな色を。


 書いてから、少し笑ってしまった。

 名乗ることから逃げるのに、結局、呼びたいと思ってしまう。名付けないと人を掴めない自分の不器用さが、紙の上に晒されている感じがした。

 風がページを一枚、二枚めくっていく。昨日の迷いと今日の照れが重なって、紙は薄いのに、妙に重かった。


 その日の五時間目、教室の時計だけが動いていて、僕はその動きに合わせて呼吸を整えていた。窓の外の雲の影が黒板の端を流れていく。先生の声が遠く、ノートに書かれた「宿題」という単語だけが胸に引っかかっていた。

 放課後、もう一度屋上に行くと、ページの隣に、短い追伸が増えていた。


締め切り守るの、苦手。ミドリでいい?


 インクがまだ少し濡れていて、指先で触ると、緑色の線が指の腹に移った。

 僕は、笑った。心の奥の方で、音もなく何かがほどけた。

 ここでなら、提出期限を守れない誰かとも友達になれる気がした。


Ⅱ 名前を捨てた日


 翌日から、僕らは昼休みの初めと終わりにだけノートに触れるようにした。

 ルールは増えない。

 本名を書かないこと。

 時間を強制しないこと。

 書きたくない日は書かないこと。

 そして、読み返すときは、前日の自分にひとつだけ優しい言葉を足すこと。


 妙な決まりだったが、紙の上では守れた。

 ミドリは、昼休みの終わりに短い文章をよく残した。

 「今日の空、薄いゼリーみたい」「体育館の床って、朝だけ甘い匂いしない?」

 僕はそれに返す。「ゼリーはたぶん洗剤のせい」「体育館の匂いは、ワックスと靴底のゴムが混ざる匂いだと思う」。

 どうでもいい観察の応酬が、妙に楽しかった。クラスで名前を呼ばれるより、ここで匿名で色を呼び合う方が、よほどまっすぐに人と繋がっている気がした。


 数日が過ぎると、僕らはついに屋上で顔を合わせた。

 扉が開く音と同時に、影が差し、誰かが息を止める音がした。

 目が合った瞬間、僕らは視線を逸らし、同時に笑った。

 年齢は同じくらい。制服のリボンの結び目が、教室より少しだけほどけて見える。ミドリは髪を耳にかけ、僕のほうを真っ直ぐ見ない。その真っ直ぐ見ないまなざしが、まっすぐで、少しだけ安堵した。


「……アオ?」

「ミドリ?」

 名前を捨てたはずなのに、最初に呼んだのは名前だった。

 僕らはベンチの端に、少し距離を置いて座った。

 ミドリはノートを開かず、代わりに空を見た。

「本名、言わないの、いいね」

「うん」

「言っちゃうと、帰らなきゃいけない感じするし」

「どこに?」

「“自分”に。学校にいるときの」

 風がひゅう、と鳴って、柵の影が足元を斜めに横切る。

 僕は頷いた。言葉の代わりに頷くことで、無傷のまま渡せるものがある気がした。


「ミドリは、どうしてここ?」

「アオは?」

 同時だったので、二人で少し笑う。

「じゃあ、同時に言う?」

「言わない」

 ミドリは即答し、また空を見上げた。

「言わなくていいことって、あるよね」

「あると思う」

「でも、何かは置いていきたいから、色にした」

 彼女は自分の胸元を見た。制服のポケットから小さな付箋が覗く。緑色。

「ミドリの緑、好き?」

「うん。目にやさしくて、逃げるときに便利」

「逃げる?」

「書き込めるでしょ。ノートに。『ここにいます』って」

 その響きに、妙に救われた。ここにいる。名前なしで、ここにいる。

 僕は、胸の奥にあった硬い石が、指で触れると少しずつ角を失っていく感じを覚えた。角が落ちるたび、呼吸が楽になる。


 それから僕らは、ノートだけじゃなく、言葉も交換するようになった。

 それは“秘密の交換”ではなく、“重量の軽い会話”だった。

 今日読んだ本の一節のこと。体育で転んだ誰かのこと。家のカーテンが朝だけ膨らむこと。

 ミドリは「音」の話をよくした。

「廊下の端っこの蛍光灯、ひとつだけちがう音するの知ってる?」

「知らない」

「たぶん寿命が近い。あの音、朝は優しいけど、帰りのチャイムのあと、急に不安になる」

「音って、時間のかたちなんだね」

「その言い方、アオっぽい」

 アオっぽい、という言い方に、僕の名前より僕を表す何かが宿る。匿名のくせに、個人的だ。矛盾が心地いい。


 ある日、風の強い午後、ミドリが先にベンチに座っていた。

 ノートは閉じられている。

「アオ、宿題終わった?」

「たぶん一生終わらない」

「それはそう。じゃあ今日のは、締切なし」

 ミドリは緑色の付箋をちぎって、ノートの表紙に貼った。

 そこには、白いペンで一行だけ。


来てくれて、よかった。


 “ありがとう”と書かないところが、彼女らしかった。

 僕は頷くしかできなかった。言葉を足すと、どこかが壊れる気がしたからだ。

 風が柵に絡んで、太陽の位置がゆっくりずれる。影が伸びて、ベンチの端まで届く。僕らは、その影の中で、名前を捨てたまま、少しだけ笑った。


Ⅲ 風の午後


 六月の終わり、天気予報が台風の進路を赤い線で描いた。

 朝から空が落ち着かず、湿った白い布を吊り下げたみたいに校舎全体が重たかった。

 僕は二時間目の途中で保健室に行くふりをして、廊下の角を曲がり、非常扉の前に立った。

 扉の向こうの風は、もう屋上を仕事場にしている。あの音は、何かを片付ける音だ。

 ベンチまで数歩。ノートは、文庫本の下から半分ほど顔を出していた。テープが剝がれ、ページの端が雨で膨らみ、繊維がほつれている。

 僕は慌てて文庫本を押さえ、ノートを持ち上げた。水を吸った紙は、驚くほど重い。手の中の重さが、誰かの欠席届みたいに現実だった。


 表紙の裏に、緑のインクが滲んでいた。

 文字は流れて、ところどころしか読めない。けれど、真ん中あたりだけ、インクの濃度がなぜか保たれていた。


アオがいてくれて よかった


 よかった、の「よ」の下に、手が止まったような跡がある。

 雨は均等ににじませるのに、この部分だけ、指で覆われていたみたいに輪郭が残っていた。

 僕は、周りを見た。誰もいない。

 何か言わなきゃ、と思った。誰に、だろう。

 ミドリに? それとも、ここにいるはずの“僕ら”に?


 昼過ぎ、学校は早めの下校を告げた。

 風の向きが変わり、木々の葉が一斉に裏返る。グラウンドの白線はあっけなく崩れ、誰かの声が半音外れて空に上がった。

 僕は帰り道で、自分のポケットの中のスマホが鳴らないことに、初めて気づいた。充電がほとんどなく、スタンプの通知で息絶えたらしい。充電器を持っていない。家に帰るまで、世界とつながる方法がなかった。


 屋根を叩く雨音の下で、僕はノートのことを考えていた。

 “匿名”は、便利だ。自分を守れる。相手を傷つけずに済む。

 けれど、守ることと、何かを見捨てないことは、違うのだと、あの濡れたページが告げていた。

 名前を知らないから、探しに行けない。

 顔を知っているのに、呼べない。

 僕は布団の中で、スマホの黒い画面を見つめた。雨音の粒が、画面の中でだけ踊っている気がした。

 ミドリに連絡を――できない。

 明日、学校はたぶん休校。屋上は鍵がかかる。

 何もできないことが、こんなにもできないなんて。


 翌朝、予報どおり学校は休校になった。

 午前中は雨、午後から風が強くなる。テレビのテロップが淡々と注意を繰り返し、アナウンサーが「不要不急の外出は」と言うたびに、僕の“不要”がどんどん拡張され、外に出る理由が削られていく気がした。

 夕方、雨が上がり、風だけが残った。街路樹が長い髪を振るように揺れる。

 僕は玄関で靴を履き、傘を持たずに外に出た。

 校門までの道は、薄い葉っぱの破片で滑りやすくなっている。信号待ちの間に、スマホの電源を試しに入れてみる。黒い画面のまま、僕の顔だけが映る。“アオ”ではない僕の顔。

 ――どうして名前を捨てた?

 問いが風に混ざって、耳の奥に入り込む。

 捨てたほうが、軽く歩けると思ったからだ。自分の荷物の重さをごまかすのに、名前はちょうどいい取っ手だった。

 でも、今は違う。今、僕は誰かの荷物の持ち手を探している。名前という取っ手がないから、手を差し出せないでいる。


 校門は閉まっていた。

 フェンスの向こうに、淡い夕焼けが、まるで昨日の続きみたいに溜まっている。

 僕は指をフェンスの隙間にかけ、屋上の方を見た。コンクリートの縁には、濡れた暗いラインが残り、風がそれを乾かしていく。

 もし今、屋上に行けたら。もし今、ノートを開けたら。

 僕はそこで、何を書くのだろう。


本名を教えて。探しに行けるように。


 書いた瞬間、僕らの関係は別の形になる。

 それでも、書くだろうか。

 風が答えの代わりに頬を叩いた。冷たくて、痛くはない。

 僕はフェンスから手を離し、ゆっくりと家の方へ歩き出した。

 無力感は、痛みより後に来る。痛みはまだ、何かを変える力を持っている。無力感は、何も動かさない。ただ、そこに座る。

 その夜、僕は眠れず、何度も天井の角度を確かめた。

 ミドリの「来てくれて、よかった」という一行が、瞼の裏に残る。誰かがどこかで、まだそれを守っているような気がした。インクを濡らさないように、手のひらで覆っている誰かの姿が、何度も浮かんだ。


 明け方、少しだけ眠って、夢を見た。

 屋上のベンチに、僕とミドリが座っている。

 僕はノートを開き、彼女は空を見ている。

 名前はやっぱり言わない。

 でも、僕は呼ぶ。

「――ミドリ」

 風の音で、声はほとんど消える。

 それでも振り向く気配だけが、確かにあった。


Ⅳ 告白ではなく、正体


 台風が過ぎた次の週、空は妙に青かった。

 湿気が抜けきらないまま、校舎の窓がきらきらと光を返す。

 僕はしばらくぶりに登校した。保健室登校の延長みたいなものだ。

 教室に戻る勇気はなく、午前中の授業が終わると、美術室へ足を運んだ。

 廊下の奥で、絵の具の匂いがした。乾きかけたアクリルと溶剤の匂い。

 その匂いを吸った瞬間、胸の奥がざわついた。


 壁に飾られた作品の中に、ひとつだけ見覚えのある空があった。

 灰色と水色の境目を、淡い緑が縫うように横切っている。

 雲の縁の形が、屋上で見た午後そのままだった。

 右下の端に、サインがある。

 ――「緑川 美咲」。


 その名前を目にした瞬間、心臓が音を立てて落ちた。

 “ミドリ”。

 匿名のまま守ってきたその響きが、現実に輪郭を持った。

 急に呼吸が浅くなる。

 展示の横に貼られた紹介文を読もうとして、指先が震えた。

 《二年A組 緑川美咲 テーマ:居場所》

 ――彼女は、僕のクラスではなかった。

 隣のクラス。

 いつも窓越しに見えていたはずの、隣の時間。


 職員室の前を通ると、担任の先生が話している声が聞こえた。

 「緑川さん、転校したんですよ。お父さんの仕事の都合で。先週末に」

 その言葉が、現実を締め切った。

 もういない。

 名前を知った瞬間に、彼女はいなかった。


 屋上に行く勇気は出なかった。

 代わりに下駄箱の前で立ち尽くし、ポケットの中の折れたペンを握る。

 ノートはもう持っていない。風の日に濡れたページを、僕は乾かそうとして失敗した。

 その代わり、ページの破片を一枚だけ財布に挟んでいる。

 そこに滲んだ文字――“アオがいてくれてよかった”。

 その行の上に、今なら僕はもう一言だけ足せる気がする。


ミドリがいてくれて、僕は名前を思い出せた。


 匿名は、傷を隠すための仮面だった。

 でも彼女は、その仮面の裏に“僕という形”を描いてくれた。

 僕は本名で呼ばれたことより、アオと呼ばれた日の方を、ずっと覚えている。


Ⅴ 屋上のその先で


 数年後。

 春の風は、かつてより柔らかかった。

 大学の入学式を終え、僕は遠回りして母校へ立ち寄った。

 屋上の扉は今も重い。

 錆びた蝶番の音が、昔と同じ高さで鳴る。

 誰もいない昼の屋上。柵の向こうに、ビルの影が伸びている。


 僕は新しいノートを開き、最初のページに青いペンで書いた。


生きるのって、宿題みたいだね。


 同じ言葉。

 でも今は、少し違う意味で響く。

 生きるという宿題は、提出先がない。

 それでも、書き続けていくしかない。

 彼女がそうしていたように。


 ページの下に、もう一行だけ足す。


返事:まだ途中だけど、ちゃんと書いてるよ。


 風がノートをめくり、ページが宙で踊った。

 その音が笑い声みたいに聞こえて、僕は空を見上げた。

 どこかで緑の風が吹いている。

 その向こうに、彼女の名前が、やさしく滲んでいく。


エピローグ


 ノートの最後のページに、薄い付箋が一枚貼られていた。

 風が運んだのか、それとも誰かが置いたのか。

 そこには、白いインクで小さく書かれていた。


ちゃんと提出してね。――ミドリ


 僕は笑って頷いた。

 風が頬を撫でる。

 名前を捨てたあの日の二人は、きっとまだここにいる。

 名前を取り戻した僕は、その証明を胸の奥にしまった。


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