婚約破棄されましたが、私は学者として生きるので構いません…と思っていましたが、侯爵様にプロポーズされました
「ああ、またあの男爵令息が何か言っているわ」
控えめな色合いのドレスに身を包んだ私が、庭の隅でひっそりと薬草の手入れをしていると、耳障りな声が聞こえてきた。婚約者のテオドールだ。今日もまた、取り巻きの貴族たちと大声で笑い合っている。おそらく、私のことを話題にしているのだろう。
「地味で、おとなしくて、何の趣味もない女。一体どこに惹かれたのか、昔の自分を問い詰めたいね!」
彼の言葉は、わざとらしく大きく響く。庭仕事をしている私の耳にも、はっきりと届くように。取り巻きたちは、それに合わせてけたけたと笑う。彼らにとって、婚約者の私を貶めることは、テオドールへの忠誠を示すための儀式のようだ。
(別に、あなたに気に入られようと思って生きてきたわけではありませんけれど)
心の中でそう呟いても、声に出すことはない。争いを好まない私の性分だ。それに、もうすぐこの関係も終わる。テオドールは、近いうちに私との婚約を破棄するつもりだと、噂で耳にしている。彼にとって、何の取り柄もない私との婚約は、家格だけが釣り合う、退屈なものなのだろう。
実際は、彼が「何の取り柄もない」と思っている私こそが、この世界で最も権威のある学者の一人であり、数々の賞を匿名で受賞している人物なのだが。私が研究に没頭するあまり、社交界での華やかな振る舞いを疎かにしてきたことは事実だ。しかし、それは私の価値を貶める理由にはならないはずだ。
私の才能を知っているのは、一部の理解ある貴族たちだけだ。彼らは、社交の場で私を見かけると、意味深な笑みを浮かべたり、こっそりと賞賛の言葉を囁いてくれたりする。
「男爵は、とんでもない宝を手放すことになるな」
「まさか、あの静かな令嬢が……驚きです」と。彼らの言葉は、孤独な研究生活を送る私にとって、ささやかな慰めであり、今後の人生を学者に捧げようと決意させるには十分だった。
そして、ついにその日がやってきた。テオドールは、豪華な晩餐会の場で、皆が見ている前で私に婚約破棄を告げたのだ。
「アデライン・エレオノーラ。貴嬢との婚約は、今日をもって破棄させていただく。貴嬢には、男爵家の未来を託すことはできないと判断した」
彼の言葉は、予想通りだった。驚きはなかったが、それでも、大勢の前で辱められるのは、決して心地の良いものではない。周囲の貴族たちは、様々な表情で私たちを見ている。同情、嘲笑、興味本位……そのどれもが、今の私には痛い。
しかし、そんな中で、数人の貴族たちが、明らかにテオドールを軽蔑した目を向けていることに気づいた。「愚かな男だ」「まさか、本当に手放すとは」「見る目がないにも程がある」彼らの声が聞こえてくるようだ。
テオドールは、私を見下ろしながら、勝ち誇ったように笑っている。
「これで、私はもっと相応しい伴侶を探すことができる。貴嬢のような、陰気で何の魅力もない女とは、二度と関わりたくない!」
彼の言葉に、私の心は凪のように静まり返った。怒りも悲しみも、不思議なほど湧いてこない。ただ、彼の浅はかさと、自分の才能を理解できないことへの憐れみだけが、じんわりと広がっていく。
私が何かを言い返すよりも早く、会場の入り口が騒がしくなった。豪華な装飾が施された外套を羽織った、見慣れない男性が、堂々とした足取りでこちらへ向かってくる。その人物の顔を見た瞬間、会場の空気が一変した。皆が息を呑み、その動きを注視している。
「これは……アルフレッド侯爵様!」
誰かが囁いた。アルフレッド侯爵。
この国の貴族の中でも、最も高位に位置する、知性と武勇を兼ね備えた名門の当主だ。彼が、なぜこのような場所に?
侯爵は、まっすぐに私の前に進み出て、深々と頭を下げた。
「アデライン・エレオノーラ。先ほどの無礼な言葉、どうか気になさらないでください」
彼の声は、低く、しかし深く、会場全体に響き渡る。テオドールは、侯爵の登場に完全に狼狽え、言葉を失っている。
「私は、かねてより貴女ーーエルと言う名で発表された研究成果を、陰ながら拝見しておりました。その卓越した知識と、類まれなる洞察力に、深く感銘を受けております」
侯爵の言葉に、会場の貴族たちはざわめき始めた。
彼らは皆、侯爵が告げた著者が書いた数々の論文を知っている。そして、それが目の前にいる、地味な令嬢アデラインその人であることを知り驚愕したのだった。
「男爵テオドール殿は、実に愚かなことをされました。自ら、変え難い宝石を捨てたのですから」
侯爵は、嘲弄の色もなく、淡々とそう言った。
その言葉は、テオドールの顔から血の気を失わせるど強烈だった。周囲の貴族たちは、堪えきれずに吹き出す者もいる。
そして、侯爵は再び私に向き直り、片膝をついた。
「アデライン様。もし、よろしければ、私と結婚していただけませんか?貴女の知性と、その奥に秘められた高潔な精神に、私は心底惹かれています」
会場は、完全に静まり返った。皆が、私の返事を待っている。テオドールは、信じられないといった表情で、私たちを交互に見ている。彼の顔には、後悔と屈辱の色が浮かんでいた。
私は、侯爵の真摯な眼差しを見つめ返した。彼の瞳には、 打算も、見下しも憐れみもない。ただ、純粋な敬意と好意だけが宿っている。
長年、誰にも理解されず、孤独に研究を続けてきた私にとって、侯爵の言葉は、乾いた大地に染み込む雨のようだった。初めて、私の内面を見て、その価値を認めてくれる人が現れたのだ。
ゆっくりと息を吸い込み、私は静かに答えた。
「喜んでお受けいたします、侯爵様」
私の言葉が終わると同時に、会場からは、祝福の拍手が湧き上がった。それは、テオドールへの嘲笑と、私への祝福が入り混じった、複雑な感情のこもったものだった。
テオドールは、その場で愕然と立ち尽くしている。婚約を破棄した相手が、より高位の侯爵に求婚されるなど、想像もしていなかったのだろう。彼の顔は、青ざめ、唇はわなわなと震えている。
侯爵は、優しく私の手を握り、立ち上がらせてくれた。
「アデライン、私の傍へ」
彼の温かい手に触れ、私は初めて、心が安らぐのを感じた。これまで押し込めてきた感情が、溢れ出してくる。
喜び、安堵、そして、ほんの少しの復讐心。
テオドールは、まだ何か言いたそうに口を開閉させているが、侯爵の威圧的な視線に射すくめられ、結局何も言えずに黙り込んだ。周囲の貴族たちは、彼を憐れむような、あるいは嘲笑するような視線を送っている。かつて彼に取り入っていた者たちも、今は侯爵と私に恭しく頭を下げている。
侯爵は、私をエスコートするように、会場の中央へと歩き出した。その背中は、頼りがいがあり、温かい。私は、彼の隣で、初めて心からの安堵感を覚えた。
振り返ると、テオドールはまだ同じ場所に立ち尽くしていた。彼の目は、絶望の色に染まっている。自分がどれほど愚かなことをしたのか、今頃になってようやく理解したのだろう。しかし、もう遅い。失われた信頼と機会は、二度と戻らない。
侯爵との新しい生活が、どのようなものになるかはまだ分からない。しかし、少なくとも、私の才能を理解し、尊重してくれる人がいるという事実は、何よりも心強い。
私は、侯爵の腕にそっと手を添えた。彼の温かさが、私の冷え切った心にじんわりと広がっていく。
(さようなら、愚かな男爵。あなたの無知が、私に新たな未来をくれたのですから)
心の中でそう呟き、私は侯爵と共に、祝福の拍手の中を歩き続けた。私の人生は、今日から大きく変わる。
新たな章の始まりだ。そして、その隣には、私の知性と心を理解してくれる、 大切な伴侶がいる。これ以上の幸せが、他にあるだろうか。