正義の英雄「カニマッスル」
正義の英雄「カニマッスル」
「私の名はカニマッスル!熱い心を持つ、正義のカニ!カニのヒーローだ!」
カニマッスルは、海に向かって叫んだ。自身の心を奮い立たせる為に、そう叫んだのだ。彼はこれから世界にはびこる、怪物達との戦いに臨もうとしている。怪物達は、人間も動物も、見境なく襲い傷つける。その魔の手から、か弱き人々や動物達を守る為に、彼は日々の修業に耐え抜き、屈強な肉体を手に入れ、ヒーローとなったのだ。
「誰か助けて!誘拐よ!」
カニマッスルの研ぎ澄まされた聴覚は、助けを呼ぶ誰かの声を聞き逃さなかった。急ぎ声の聞こえた場所へ向うと、そこには女性から赤ん坊を奪おうとする、カメレオンの怪物がいた。カメレオンの能力で透明になり、突然現れて、不意打ちで子供をさらおうとしたのだ。女性の抵抗もむなしく、怪物は長く伸びる舌を使い、赤ん坊を力づくで奪い、逃げ去ろうとしている。カニマッスルは怪物の前に立ち、ハサミを掲げた。
怪物はカニマッスルを一瞥し、無表情のまま逃走した。カニマッスルは怪物を追い、全力で走ったが、彼はここで自身の弱点に気付くことになった。”カニは横にしか移動出来ない”のだ。修業によって体を鍛え上げても、生物的な弱点は克服出来ていなかった。怪物が逃走方向を変える度に、ぐるりと体の向きを変えねばならず、その距離は離れていく一方だったのだ。
「カニはしょせん、カニでしかないのか……」
心の中で燃えていた正義の炎が、消えようとしていた。しかし諦めかけたその瞬間、カニマッスルの頭の中で、過去の記憶が走馬灯のように流れた。そこに視えたのは、カニマッスルがヒーローを目指したきっかけだった。まだ赤ん坊だったカニマッスルは、怪物に襲われ、悪のアジトへと連れ去られようとしていた。そこに駆け付けたヒーローが怪物を打ち倒し、彼は救われたのだ。
赤ん坊の頃の記憶で、その光景をはっきりと覚えていたわけではなかった。そのヒーローは、なにもない場所から突然姿を現し、長く伸びる武器を使って、怪物を倒したことを、うっすらと覚えていた程度だ。しかし去り際に言ったこの言葉だけは、はっきりと記憶に残り続けていた。
「私は、正義の、英雄。ヒーロー、だ」
それが、カニマッスルがヒーローを目指したきっかけ。カニマッスルは強く願ったのだ。自分も強くなりたいと。自分を救ってくれたヒーローのように。自分もヒーローになりたいと。
消えかけた正義の炎が、再び心に灯った。その炎はカニマッスルに力を与え、種族の限界を超えた、爆発的な進化を発生させた。カニマッスルの脚の筋肉が膨れ上がり、人間の脚の形へと進化したのだ。カニの体から、筋肉質な人間の脚が生えているその姿は、不気味という以外に形容しようがなかったが、弱点を克服したカニマッスルは、怪物へと猛スピードで接近していった。怪物はカメレオンの舌で、赤ん坊を包み込むように捕えている。カニマッスルは怪物に追いつくと、ハサミでその舌を両断し、赤ん坊を救い出した。怪物は苦悶の声を上げ倒れ込む。カニマッスルは赤ん坊を傷つけぬように、優しく抱きかかえると、怪物へと疑問を投げかけた。
「なぜ貴様は、怪物になどなったのだ?なぜ怪物になることを望んだのだ?」
「……それを、望まれたからさ」
「……どういう意味だ?」
「なぜオレが、透明になって逃げなかったと思う?追いついてもらいたかったからさ。本気で逃げる気なんてなかった」
「答えろ、どういう意味なんだ」
「お前は、ヒーローになれるかい……?」
怪物はそう言い残し、絶命した。カニマッスルは困惑していた。怪物の死に顔は、長年の苦しみから解放されたように、安らぎに満ちていたからだ。そのとき背後から、女性の叫び声が聞こえてきた。赤ん坊を取り戻したい一心で、ここまで走って来たのだろう。カニマッスルが赤ん坊を渡そうと駆け寄ったその瞬間、女性はカニマッスルを見て、こう叫んだ。
「誰かそのカニの怪物から、わたしの赤ちゃんを取り戻して!」
カニマッスルには、その言葉の意味が理解出来なかった。カニの怪物とは、誰の事を言っているのか。周囲を見回してみたが、そんな怪物は見当たらない。見えるのは自分を取り巻く人々だけだ。その人々の目に、自分を見るその眼差しに、恐怖の感情が込められていることに気付いたとき、カニマッスルは何も考えることが、出来なくなった。カニマッスルは抱いていた赤ん坊を、そっと地面に寝かせた。赤ん坊は、じっとカニマッスルを見つめている。そして赤ん坊が笑みを浮かべたとき、カニマッスルの口から、無意識に言葉が漏れ出ていた。
「私は、正義の、英雄。ヒーロー、だ」
おわり