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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

死期を悟った公爵令嬢はなぜか王家の影に溺愛される

作者: 村本彩子

久しぶりの投稿です!


「わたくしは、ここで貴方に殺されるのね」


 シルヴィア・フォン・リュリス公爵令嬢は、簡素な馬車の中に入って来た人物を見て、そう微笑んだ。灯のない車内を月が照らす。腰まである銀色の髪はややパサついているものの、月明かりによって煌めいていた。大きなグレーの瞳と白い肌。シルヴィアは常に伏し目がちで、周りから何を言われようとも無反応な令嬢であった。


 表情を何一つ変えない、幽霊みたいな気持ち悪い女。


 それが、シルヴィアに対する世間の評価だった。


 それなのに、今。シルヴィアは穏やかに微笑んでいる。その姿は月の女神のようだと、黒装束に身を包んだイアンは思った。


「いいのよ。()()()。貴方がいてくれたから……そんなに悪い人生ではなかったと思えるわ。今までありがとう。貴方に命を奪われるのであれば本望よ。ただ、あまり痛くないようにしてくださると助かるわ」


 長い睫毛に縁取られた大きな瞳は、以前イアンが感じていたようなすべてを諦め、何も感じないように心に蓋をした仄暗い瞳ではなく、眩い光を放つ力強いものだった。


 イアンは音もなく、腰に携えていた短刀を抜刀した。最後にもう一度微笑んだシルヴィアは、胸の前で両手を組み、瞳を閉じる。


 シュッ――――――


 暗闇を裂く刃音だけが響いた。

 

――――――――――――――――――――


 シルヴィア・フォン・リュリス。


 バールオルト王国の筆頭公爵家、リュリス公爵家の長女。それがシルヴィアの肩書きだ。シルヴィアは隣国から嫁いできた母、アナリアによく似た銀髪に父であるハルビス譲りのグレーの瞳を持って生まれてきた。アナリアとハルビスは、所謂政略結婚。隣国マルア公国の公女であったアナリアは、バールオルト王国との和平の証としてリュリス公爵家へと嫁いできたのだ。しかし、ハルビスはアナリアを冷遇し、夜会ではどうどうと愛人を連れ歩く始末。


 アナリアは国同士の繋がりを大切にするよう、この婚姻の意味を何度も説いたがハルビスは変わらなかった。


 そんな中、シルヴィアは生まれた。


 アナリアがシルヴィアを妊娠したとわかると、ハルビスは義務は果たしたと言って愛人宅へ入り浸るようになった。


 ハルビスの冷遇に同調するように使用人たちからも侮られ、心身共に疲れ果てていたアナリアは、シルヴィアを産み落とすと、まもなく亡くなった。


 アナリアの死を機に、ハルビスは堂々と愛人を後妻として娶り、2人の子どもをもうけた。


 生まれる前から疎まれていたシルヴィアへの待遇はさらに酷くなった。後妻であるマリアンナと異母妹のリリアナ・異母弟のアレクシスからの執拗な嫌がらせが加わって、何度もシルヴィアは生死の境を彷徨った。


 食事が与えられないのは当たり前。罵詈雑言だけでは飽き足らず、折檻という名の体罰も日常茶飯事だった。シルヴィアの部屋として割り当てられたのは、公爵家の地下のカビ臭い一室。下級メイドにも侮られ、シルヴィアは使用人同様に朝から晩まで働いていた。


 そんなある日、シルヴィアに転機が訪れる。


 バールオルト王国の国王が王太子であるラインハルトの婚約者にシルヴィアを指名したのだ。


 なぜ社交界デビューもしていない、ずっと公爵家に閉じ込められているシルヴィアが婚約者として指名されたのか。

 

 隣国のマルア公国が着実に力を付けていたからだ。和平条約を結んではいるが、以前はバールオルト王国の方が豊かで広大な土地を有していたため、人々は弱小国であるマルア公国を蔑んでいた。しかし、ここ10年ほどでマルア公国は目覚ましい発展を遂げたのだ。


 このままではバールオルト王国の立場が危うい。


 国王はどうにかならないかと策を練るが、どれも不発。それに加え、和平の証として嫁いできたアリアナは、すでに儚くなっている。


 国王の苦肉の策として閃いたのが、公女アリアナの忘形見であるシルヴィアと王太子ラインハルトの婚姻だった。


 ハルビスは母親譲りの気持ち悪い髪色をしたシルヴィアを心底嫌っていたが、国王の命令となれば異をとなえられない。


 それからシルヴィアの部屋は、地下ではなく地上階の一番陽当たりの悪い部屋に変わった。使用人のように扱われていたが、専属侍女がつけられ、身の回りのお世話をされるようになった。


 しかし、息苦しい生活は変わらない。


 むしろ、妃教育が始まってシルヴィアはより窮屈な想いをしていた。異母妹リリアナからの執拗な嫌がらせも相まってシルヴィアは辟易していた。


 王太子ラインハルトからも「老婆のような髪だな。気持ち悪い」と初対面で罵声を浴びせられた。快く受け入れられるとは思っていなかったが、挨拶もなしに突然罵られれば誰だって辛い。婚約者として尊重されることもなく、会うたびにラインハルトから心無い言葉を浴びせられたシルヴィアは限界だった。


「あんたの母親がマルアの公女じゃなかったら、ラインハルト様の婚約者は私だったのよ?!なんであんたみたいな幽霊女が婚約者なのよ!気持ち悪い!」


 いつものようにシルヴィアの部屋にやってきたリリアナは、シルヴィアを罵り、暴力をふるった。


 わたくしだって、なりたくてなったわけじゃない。


 腕を前に出し、なんとかリリアナからの暴力に耐えていたシルヴィア。身体を屈め、床に視線を落として時間が過ぎ去るのを待った。


「ラインハルト様はね、私のことを愛していると言ってくださっているのよ。あんたと違って美しいって。でもあんたがいるから私を妃に迎えられないって憤っていらっしゃったわ」


 今日はやたらしつこいと思っていたが、そういうことかとシルヴィアは納得した。何も反応をしないシルヴィアに苛立ち、リリアナが大きく振りかぶった時――


 ガシャン


 シルヴィアの部屋で唯一と言っていい調度品。花瓶が倒れて割れた。大きな音に興がそがれたようで、リリアナは「ふん、さっさと片付けておきなさいよ。このグズ」と捨て台詞を吐いて出ていった。


 静まり返った部屋。シルヴィアはぼうっと床に散らばった花瓶の欠片を見つめていた。


 どうしてわたくしは生まれてしまったの?

 どうしてわたくしは生きているの?

 誰からも必要とされない。

 生きている意味なんて……あるの?

 死んで、お母様のもとへ――――――


「やめろ」


 シルヴィアがはっと顔をあげると、目の前にいたのは黒い衣装をまとったイアンだった。痛みを感じて視線を落とすと、イアンがシルヴィアの手首を握っていたのだ。


 自分の手に握られた花瓶の破片と、ポタポタと滴り落ちる己の血にシルヴィアの頭は急速にクリアになっていった。イアンによって破片はシルヴィアの手を離れたが、パックリ裂けた手からは止めどなく血が流れ落ちている。


「わ、たくしは……な、にを?きゃあ!」


 まだ頭の中が混乱していたシルヴィアを、イアンは横抱きにするとベッドへと下ろした。そっと手を取ると、自身の衣装を口で千切り、巻いていく。


「あの……貴方は?」


 その質問に、イアンは答えることはない。ただ黙々と傷の処置をしていく。


 通常の令嬢なら闇夜に溶けるような真っ黒な衣装に身を包んだ男が突然現れれば、身の危険を察して怯えるはず。しかし、シルヴィアは自分の身を案じてくれたイアンに恐怖など微塵も感じなかった。


「……貴方は…………わたくしに付けられた王家の影……なのかしら?」


 シルヴィアは知っていた。王太子の婚約者となり、妃教育を受けている自分に王家の影が常に護衛としてついていることを。身の安全を守るという体ではあるが、不貞や将来の妃として問題のある行動を行っていないかという監視の意味合いの方が大きい。


 あっという間に手当を終えると「もう寝ろ」と言葉を残してイアンは姿を消した。


 手に巻かれた黒い布を見た後、シルヴィアは目を閉じた。


「影さん、ありがとう」


 シルヴィアは初めて、人に優しくしてもらえた。


 翌朝、目が覚めるとシルヴィアの枕元の台には白い包帯と軟膏が置かれていた。イアンが持って来てくれたのだろう。


 天井に向かって「ありがとう」と呟くと、シルヴィアは包帯を巻き直す。傷は思ったより深く、ジクジクとした痛みと熱を帯びている。イアンがしてくれたように上手くは巻けなかったが、不恰好な包帯を見てシルヴィアの心は少しだけ暖かくなった。


 イアンは代々王家の影として仕えている、サルベルク伯爵家の次男だ。現当主である父、モリス・サルベルクはもちろん、母アマリアと兄マルクスも王家の影として勤めている。


 王家の影としての仕事は大きく二つ。一つ目は対象を護衛すること。もう一つは不穏分子を除去すること。つまり、王家から依頼があれば人の命を奪うこともあるのだ。


 イアンはどちらかというと暗殺を生業にしている。生まれた時から王家の影として英才教育を受け、幼い時から人の生き死にに関わってきた。あまりにも人の死が近すぎて、イアンは人として大切なものが欠けていた。家業を遂行するにあたり、イアンは最適な人材であったが、人としての心を失った彼を両親と兄はとても心配していた。


 そんな中、イアンは次期王太子妃となるシルヴィアの護衛に着くことが決まった。しかし、護衛というのは建前で、王家にとって害がない人物か監視しろ、いざという時は殺めても構わないというのが本当の意味だ。


 マルア公国と緊張状態である今、シルヴィアの存在は貴重だった。だが、国王は心の奥底でマルア公国を蔑んでいたのだ。そしてシルヴィアのことも。


「何か不穏な動きがあれば、マルアの陰謀としてシルヴィアを始末してもかまわぬ。あちらが我が国へ手を出して来たのだ。困るのはマルアであろう」


 国王はほくそ笑む。


「……ただ、勝手に死なれるのは困る」

「御意」


 イアンはその日からシルヴィアを監視した。初めて見たシルヴィアは、白くて細く、髪はボサボサだった。そして何より気になったのは、何も光を宿さないグレーの瞳。誰に何を言われようとも、暴力をふるわれようとも表情ひとつ変えない。人形のような子だと思った。


 ただ、なんとなく自分に似ているとも思ったのだ。


 何も感じない。

 痛みも喜びも悲しみも……


 何の感情も宿さないシルヴィアを、イアンは監視し続けた。


 妃教育が始まると、さすがにこれではまずいと思ったのか、リュリス公爵家の人間は目に見えるところには傷を付けなくなった。一応侍女が付き、少しはマシな見てくれになった。だがその分、暴言や食事を抜くことが多くなった。


 妃教育では、無表情なシルヴィアを気持ち悪いと教師たちがこぞって噂する。婚約者であるラインハルトも人の目がある場所で「相変わらず気持ち悪い女だな。姿を見せるな」と暴言を吐く。


 シルヴィアの婚約者としての立場はない。


 与えられた課題をこなし、家では息を潜めるように生活する日々。ただ生きている。それだけだ。


 イアンは命令された通り、シルヴィアを監視し続けた。家族から虐げられていようとも、影として目の前に現れるわけにはいかない。それに、シルヴィアに何か特別な気持ちを抱くわけでもない。


 しかしあの日。割れた花瓶を握り締め、首元へ当てがおうとしたシルヴィアを見て、イアンの身体が動いてしまった。


 シルヴィアはイアンを見て、大きな瞳を丸くしていた。何一つ表情を変えなかったシルヴィアが驚いている。


 そんな顔ができるのか。


 緊迫する状況下で、イアンはそんなことを思った。掴んでいた破片を取り上げ、ベッドへ運ぶと手早く包帯を巻いて止血する。


 本来、影が対象者の前に姿を現すなど御法度だ。任務失敗と見做され、何かしらの処分を受けても致し方ない。


 ……だが、王からの命は守った。


 勝手に死なれては困る、そう王はイアンに言った。その命を守るために仕方ないことだったのだと自分に言い聞かせた。


 シルヴィアがいくら質問をしても、イアンは何も応えなかった。「もう寝ろ」と乱暴な言葉を残して姿を消した。普通なら不気味に思うイアンの存在に対して、シルヴィアは僅かに口角を上げて「影さん、ありがとう」と言ったのだ。


 イアンの中で、言葉にできない感情が生まれた。


 それから傷が塞がるまで、イアンは朝と夕にシルヴィアへ包帯と軟膏を届けた。傷が化膿して命を落としたらいけないから……そうイアンは自分の行動を正当化した。


 シルヴィアの食事が抜かれた日には、包帯セットの横に小さなパンが添えられていることもあった。イアンはシルヴィアを抱き上げたときのことをしっかり覚えていた。いくらなんでも軽すぎる。慢性的な栄養失調だ。このままでは生死に関わるとイアンは判断した。


 シルヴィアにとって、顔の見えないイアンの優しさは生きる糧になっていた。すべてを捨ててしまいたいと思ったあの日。シルヴィアを救ってくれたのはイアンなのだ。


「影さん、いつもありがとう」


 きっとどこかで自分を見ているイアンに向けて、シルヴィアは微笑む。名前も素顔も知らないあの人。けれども、こうして自分を思い遣ってくれる人物。


 いつしか、シルヴィアは今日あった出来事について、寝る前に話すようになった。


「今日は過ごしやすい日でしたわ。少し涼しくなって。妃教育を受けに王城へあがったのですが、庭にダリアが咲いていたのよ。すごく綺麗だったわ」


 もちろんイアンから返答はない。ただ一方的にシルヴィアが話しているだけだ。けれど朝目覚めた時、テーブルの上に花瓶に昨日までなかったダリアが生けられているのを目にして、シルヴィアの心はぽかぽかと温かくなる。


 「影さん、ありがとう。嬉しい」


 人形のようなシルヴィアの表情がふと緩む。


 イアンはそんなシルヴィアの表情を見るたびに、胸が締め付けられるように苦しくなった。


 2人のささやかな交流は2年ほど続いた。その間、2人が顔を合わせたことは一度もない。イアンが姿を現したのは、シルヴィアが自死しようとしたあの日の夜だけだ。シルヴィアは名を知らないイアンのことを影さんと呼び続け、イアンはシルヴィアの声に耳を傾け、時々彼女へささやかな贈り物をした。


 そうしているうちにシルヴィアは無事に妃教育を終え、王太子ラインハルトとの婚姻まで半年となった。


「……夜会なんて、久しぶりすぎて気が重いわ」


 シルヴィアは今日もイアンに話しかける。シルヴィアは滅多に夜会へは出席しない。招待状も届かない。婚約者であるラインハルトがエスコートしてくれるわけでもない。


 表向きは身体が弱いことになっているが、リュリス公爵家の面子を守るためにあることないことを言いふらしているのだろう。


 シルヴィアは決してバカではない。妃教育を受けに王城へ行けば、それなりに噂も耳にする。だからといって、何かしようとも思わなかった。それだけだ。


 それなのに今回は絶対に出席するようにと父ハルビスから言いつけられた。到底似合うとは思えないフリルたっぷりのピンクのドレスを身につけたシルヴィアは、ただ時が来るのを待った。


 夜会へエスコートも無しに踏み入れたシルヴィアを待っていたのは、寄り添う王太子ラインハルトと異母妹のリリアナだった。


「シルヴィア・フォン・リュリス!今日を持って貴様との婚約は破棄する!お前には国家反逆罪の嫌疑がかけられている。異議があるのであれば、ここで申せ」


 ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべ、壇上よりシルヴィアを見下ろす2人。シルヴィアは小さく溜息を吐いた。ここで何を言ってもこの人たちは聞き入れないだろう。そんな茶番になぜ付き合わなければならないのか。


「お言葉ですが殿下、わたくしには身に覚えのないことでございます」


 シルヴィアは表情一つ変えない。


「ほう。しらを切るつもりか。ならば証拠を見せてやろう」

 

 ラインハルトの声を合図に、後ろで控えていた側近ツヴァイ・サルバージュが資料を読み上げる。隣国へ送ろうとしたとされる手紙や国家機密に関わるリスト。数々の証拠が述べられるが、シルヴィアは一つも身に覚えがない。


「私、ずっと怪しいと思っておりましたのよぉ。ですから、お姉様が送ろうとした手紙や書類を確認させていただきましたのぉ。そしたら、国家反逆など……」


 リリアナがラインハルトの胸に縋り、おいおいと泣いている。ラインハルトは「よくやった」とリリアナを撫でながらシルヴィアを睨みつけた。


「これほどの証拠が揃っているのだ。言い逃れはできまい。裁判ののち刑を確定させるのが筋ではあるが、十分立証できる証拠が残っていることを理由に、すでに元老院で話し合いを行った。シルヴィア・フォン・リュリス。お前を国外追放とする!」


 シルヴィアは、奥でことの成り行きを見守る国王へすっと視線を移した。国王はただ冷めた瞳でシルヴィアを見ているだけ。


 そこでシルヴィアは全て悟った。


「承知いたしました。ではみなさま、ごきげんよう」


 シルヴィアは完璧なカーテシーを披露すると、会場を後にした。会場を出たと同時に衛兵がシルヴィアの腕を捻りあげる。痛みに悲鳴をあげそうになったが、シルヴィアはぐっと堪えた。


 牢へ連れて行かれると思っていたが、シルヴィアの予想に反して乱暴に放り込まれたのは簡素な馬車。


 どうやらこのまま国外追放となるらしい。


「穢らわしい女だな。さっさと出せ」


 先ほどまでシルヴィアを拘束していた兵士だろうか、扉をどかっと蹴る音とともに馬車が動き出した。


 馬車は凄いスピードで荒れた道を進んでいく。大きく揺れる馬車内で、何度も身体が壁に打ち付けられた。


 そんな中、シルヴィアは自分が辿り着く結末が死であることを悟っていた。


 ――野盗に襲われるか、馬車ごと崖に落とされるか、もしくは――


 シルヴィアは妃教育を受けて、すべて習得してしまった。そう、妃教育を終えてしまったのだ。妃教育はただ振る舞いや国の歴史を学ぶだけではない。国の中枢に関わることや王族しか知らないことも学ぶのだ。


 そんなシルヴィアが国外追放となる。


 王家が生かしておくはずがないのだ。これが妃教育を始めたばかりであったなら、極秘事項を学ぶ前であったなら……


 あの国はそこまでしてわたくしを殺したかったのね。


 シルヴィアは眼を閉じた。一度終わらせてしまおうと思った命。少し時間が伸びただけ。すでに自分の運命を受け入れていた。


 ただ、願わくば……あの人に会いたい。


 そう思い、眼を開けると目の前には真っ黒な衣装を纏った男性がいた。いつの間にか馬車は止まっている。


「わたくしは、ここで貴方に殺されるのね」


 シルヴィアは嬉しかった。最後に会いたいと思っていた人に会えたから。王命でそばにいただけだろう。だけど、シルヴィアはイアンから確かに思いやりを受け取っていた。シルヴィアはイアンの顔も名前も知らない。でもあの日から今まで生きてこれたのはイアンがいたからだ。そんなイアンが最後に手を下してくれる。シルヴィアはそれで満足だった。


「いいのよ。()()()。貴方がいてくれたから……そんなに悪い人生ではなかったと思えるわ。今までありがとう。貴方に命を奪われるのであれば本望よ。ただ、あまり痛くないようにしてくださると助かるわ」


 紛れもない本心だった。


 眼を閉じたシルヴィアへイアンが近づく。刃物を振りかざす気配を感じ、シルヴィアの意識は途切れた。



 ――――――――――――――――――――


 冷んやりとした感触を頬に感じ、シルヴィアは眼を開けた。


「気が付いたか?」


 ぼんやりとした視界がクリアになると、飛び込んできたのは黒い短髪にはちみつ色の瞳をした美男子だった。その美男子の長い指がシルヴィアの頬を撫でている。


「えっ?…………え??」


 眼をぱちくりと開けたまま、動けないシルヴィアに美男子が微笑んだ。


「まだ混乱しているようだな。水を持ってこよう。少し待ってて」


 部屋を出て行く美男子の姿を見送ると、シルヴィアは勢いよく身体を起こした。ベッドがふかふか過ぎて、思わずバランスを崩したが、ゆっくりと辺りを見回す。


「えっと……天国かしら?わたくしの命は影さんが…………」


 そう思えば納得できる。白を基調とした上品な部屋。真っ白なカーテンレースから差し込む光はまさに天国。


 それなら、とシルヴィアはベッドから足を下ろした。少しふらつくが、それよりも好奇心の方が優った。


「シルヴィア!まだ寝ていないと!」


 窓の外を見ようと、カーテンレースに手をかけたシルヴィアへ、部屋に戻ってきた美男子が慌てて駆け寄る。


 ふわりと抱き寄せられたシルヴィアは、あっという間にベッドへと戻された。男性にお姫様抱っこをされたのは人生で2度目。いや、死後は1度目??バクバクと大きく脈打つ鼓動。シルヴィアの白い肌はあっという間に赤く色付いた。


「顔が赤いな。また熱がぶり返したか?」


 おでこに冷んやりとした美男子の手が当てられる。眼前に迫る優しく慈愛に溢れた美しい顔に、シルヴィアはパニック状態だ。


「わ、わ、わ!!だ、大丈夫ですから!!それに、わたくしはすでに死んでいるので、熱とかないと思いますし……?」


 シルヴィアの言葉を聞いて、美男子の動きが止まった。


「そうか……そうだよな。ちゃんと説明しよう。シルヴィア、君は死んでいない。ちゃんと生きている。話が長くなるから……まずは水を飲んだほうがいい」


 シルヴィアは差し出されたコップを受け取ると、少し落ち着きを取り戻した。顔に集まった熱も幾分か和らいだのうな気がする。


「まずは自己紹介から。俺はイアン・サルベルク」

 

 サルベルクという家名、そしてどこか聞き覚えのある声。シルヴィアは目の前にいる美男子が誰なのか瞬時に悟った。


「あなたは……影さん?」

「ご名答。俺はずっと影として君のそばにいた」


 シルヴィアはわけがわからなかった。なぜ自分の命を奪うはずのイアンがここにいるのか。なぜ目の前に姿を現しているのか。


「なぜわたくしを殺さないのですか?」


 シルヴィアは不安だった。イアンには自分を始末するよう王命が下っていたはずだ。それなのに、殺されず生きている。


 つまり……


「王命に叛いたのですか?」


 影が王命に叛くなど大罪だ。イアンだけではない。イアンの家族、縁戚まで罪に問われることになる。青褪めるシルヴィアに、イアンは優しく微笑んだ。


「あぁ、俺は王命に叛いた。シルヴィアの命を奪うなんて……俺にはできない」

「だ、だめです!そんなことをしたら貴方の家族が……!」


 慌てるシルヴィアの手を、イアンの温かく大きな手が包む。


「大丈夫。俺の家族も縁戚もみんな、あの国から亡命している。俺たちはバールオルト王国を捨てた。あの国に仕えるべき主はもういない。だから今の俺は王家の影ではない、ただの……イアンだ。今シルヴィアがいるのはマルア公国のアーネスト大公の居城だから、安心してほしい」


 いろいろと情報が多過ぎてシルヴィアはパニック状態だったが、イアンの家族が無事とわかり、ほっと胸を撫で下ろした。


「まだ混乱しているだろう。温かいスープを持ってくるから、飲んでもう少し休んだ方がいい。アーネスト大公もゆっくり静養するようにとおっしゃっていたよ」

「ありがとう、ございます……」


 シルヴィアはイアンの心配りがありがたかった。これ以上、新しい情報が入ってきても処理できる自信がない。遠ざかる背中を見送ると、改めて窓の外へと視線を移した。


 風でなびくカーテンの隙間から見えるのは、バールオルト王国では見たことのない美しい街並みだった。緑に溢れ、多くの人が行き交う。


 マルア公国は年中雪に包まれているような国だと聞いていたけれど……違うのかしら?


 シルヴィアが本で得た知識と、目の前に広がる景色がまったく違う。もう何がどうなっているのかわからない。シルヴィアはイアンが戻るまで、少し休もうと身体を預けた。


 ――――――――――――――――――――――――


「イアン殿、シルヴィアの様子はどうかな?」


 イアンが振り向くと、銀髪に紫の瞳を持つ美丈夫がいた。マルア公国の大公、アーネスト・マルセイユ。作物のあまり育たなかったマルアの地を大きく変貌させた天才魔術師。そしてシルヴィアの母、アリアナの兄である。


「先ほど目を覚しましたが、まだ混乱しています。温かいスープを飲んだ後は落ち着かれましたが、今は眠っておられます」

「そうか……。イアン殿、改めてお礼を言う。シルヴィアを守ってくれてありがとう。あの国にはきちんと罪を償わせるよ」


 アーネストは穏やかな笑みを携えているが、眼は鋭い光を放っている。


「どうかよろしくお願いします。サルベルク家の忠誠はアーネスト大公、貴方に」


 イアンは一年ほど前からアーネストとコンタクトを取っていた。シルヴィアを排除しようとラインハルトが動き出したからだ。あろうことか、王もラインハルトの動きを容認していた。


 許せなかった。


 イアンはもう随分と前からシルヴィアへの気持ちを自覚していた。誰にも抱いたことのない、熱く苦しい感情。すぐそばにいるのに、触れられない。嬉しそうに自分へ喋りかけてくれるシルヴィア。本当はシルヴィアの目の前に立って、会話を交わしたい。理不尽な暴力から守りたい。抱きしめたい。


 でも、自分の立場ではそれは叶わない。


 苦しくてどうしようもないのに、シルヴィアのそばを離れることはできなかった。


 シルヴィアを守るため、イアンはアーネストに近づいた。初めは警戒されていたが、シルヴィアの名とラインハルトたちの企みを伝えると徐々に信頼してくれるようになった。


 アーネストは、妹であるアリアナや姪のシルヴィアが周りからどのような扱いを受けていたのか知らなかった。イアンから聞いたのちに、改めて自身で調査を行った結果、イアンがもたらした情報はすべて真実だった。


 自国の発展に力を注いでるうちにアリアナは死に、シルヴィアは心を閉ざした人形のような子になっていたのだ。


 バールオルト王国から自国を守るために結んだ和平条約。そのためバールオルト王国の望むまま、妹のアリアナを嫁がせた。あちらが望んできたのだ。妹の立場はある程度優遇されていると思っていた。それなのに、アリアナは酷い扱いを受けて命を落としてしまった。さらに忘形見であるシルヴィアへの虐待内容は耳を疑った。


 アーネストはイアンとともにシルヴィアを守ろうと心に決めた。この十数年でマルア公国は大きな変貌を遂げた。バールオルト王国など畏れるに足りぬ。いつまでも昔の栄光にしがみつき、マルア公国を見下した態度を取り続けるバールオルト王国に不信感を持っていたのもアーネストの決断を後押しした。


 いよいよ愚かなラインハルトの計画が実行される。


 そう耳にしたイアンは、シルヴィアとともにマルア公国へ逃げられるよう準備を始めていた。表向きにはシルヴィアが死んだということにして、イアンとともにどこか静かな場所で身を隠しながら暮らす。それがイアンの計画だった。しかし、その動きを敏感に察知したのはイアンの家族。こうなれば強硬突破するしかない、そう思っていたが父の言葉は驚くべきものだった。


「私たちもマルア公国へ亡命しよう」

「それは……国を裏切るということでしょうか?」


 イアンは思わず父に問うた。サルベルク家は代々王家に忠誠を誓ってきた家系だ。当主になると同時に王国への忠誠を誓うという催事が行われるほど。


「今の王家を見ろ。この国のことを考えているものがいるだろうか?」


 父、モリスの問いにイアンは首を横に振った。国王、王妃、王太子ラインハルトも――今の王族は自分の私利私欲のために国政を行なっていると言っても過言ではなかった。そんな国王たちに異論を唱えるものは、すぐにサルベルク家に依頼して消す。それが今の王族だった。


「このままバールオルト王国に仕えてよいのか、ずっと考えていたのだ。それに、今のお前の計画では罪のない民や隣国マルア公国に被害が及ぶ。それはお前やシルヴィア嬢も望まないのではないか?」


 こうしてサルベルク家はバールオルト王国を捨てた。


 ――――――――――――――――――――――

 

 バールオルト王国は数ヶ月後、地図上から名を消した。マルア公国がバールオルト王国を吸収し、マルア王国と名を変えたのだ。

 アーネストは大公から国王へとなった。その際、バールオルト王国内で後ろ暗いことを行なっていた多くの貴族が粛清された。


「シルヴィア、どうした?」


 イアンはシルヴィアの銀髪を指で掬い、口付けを落とす。マルアに来てから丁寧に磨き上げられたシルヴィアは、誰もが見惚れるほど凛として美しく輝いた。バールオルト王国から逃れてちょうど一年。相変わらず表情は乏しいが、毎日シルヴィアを見つめているイアンからすると、だいぶ表情が豊になったと感じている。


「いっ、いえ。何も……」


 照れる姿も可愛い。

 

 イアンは蕩けるような笑みをシルヴィアへ向ける。イアンからの愛を毎日一身に受けているシルヴィアだが、こういった触れ合いはまだ慣れていない。白く透き通る肌がほんのり色付く姿を見ると、大切に抱きしめたいという気持ちとぐちゃぐちゃにしてもっといろんな表情を見せてほしいという気持ちがイアンの中でせめぎ合う。


「信じられないな……と思って」


 イアンを見上げるシルヴィアの目は少し潤んでいて暴力的だ。


「何が?」

「こうして、生きてイアンのそばにいられることが」


 そっとシルヴィアの頬に触れる。


「ずっとシルヴィアのそばにいるよ。今までも、これからも。シルヴィア……愛しているよ」


 シルヴィアにとってイアンが唯一の救いであったと同時に、イアンもシルヴィアに救われた。ずっと足りない感情の一部をシルヴィアが埋めてくれた。初めて自分の意志で誰かを救いたいと思ったのだ。そしてずっとそばにいてほしい。願わくば、自分だけを見ていてほしい。自分とシルヴィアだけの世界で生きていたい。そんな仄暗い感情すら、シルヴィアが与えてくれたものだと思うと愛おしい。


 でも、シルヴィアはずっと鳥籠の中に閉じ込めておけるような女性ではない。マルアに来てから美しく輝くシルヴィアを見て、イアンはそう感じた。


 ならば閉じ込めるのではなく、自由に羽ばたくシルヴィアのそばに自分が常にいればいい。


「わたくしも……愛しているわ。イアン」


 イアンはさくらんぼのように熟れた瑞々しいシルヴィアの唇にそっと自分の唇を重ねた。

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