第91話 夜明けの遠吠え
――東域 ドレヴァ公国――
小鳥のさえずりと共に、森に朝日が差し込んで来た。
東域特有の湿った空気が、冷気と共に肌に纏わり付く。
ジェイド・レインは手近にあった枯れ草や木の枝を集めると、魔術で小さな火をつけた。
パチパチと、火が音を立てる。
その音を耳にして、ジェフリー・レインは目を覚ました。
「起きたか」
倒木に座り、枝で薪をつつく兄の姿が目に入る。
控えめなあくびをしたジェフリーは、くるまっていた毛布をどけて兄の隣に座る。
「父上はもっと南の国にいるはずなんだよね」
「ああ」
ジェイドが短く答える。
あくまでも推測だ。もしアゼルニア軍が東域に攻め込むなら、海路を使って南方から侵入するのが最短ルートだ。
「父上、せっかちだからね」
ぽつりと、ジェフリーが呟く。
それに対し、ジェイドは「ふっ」と軽く笑う。
「どうするか決めた?」
ジェフリーが問う。どうするか、とは父エドワードに会って何を伝えるのかという意味だ。
「分からない。でもこの状況を指を加えて見てられない」
父に会った所で、自分達に何ができるのか分からない。むしろ追い返されるかもしれない、何なら殺される恐れだってある。
しかし、あのままエルガイア王国に居場所が作れるとも思えなかったし、他に行く先だってない。
「ジェイドは父上が心配?」
ジェフリーが更に問う。
「心配ってか……あの人の事は正直恨んでるし、あの人が負けるとも思えない。でもなんて言うか……わかんねぇや」
ジェイドの内心は複雑だった。何故父に会わなければならないと思い至ったのか、自分でもよく分かっていない。
しかし、それはジェフリーにしても同じだった。
「そうだよね……でもあのままエルガイアにいても何も好転しなかったさ」
兄を励ますようにジェフリーは言った。
ここの所、ジェイドはいつもの様な元気がない。だからこそ自分が彼を理解して、支えなければならない。
(メリセントの事もあるし)
兄がメリセントに恋心を抱いてたのも知っている。
しかし、彼女は兄を拒絶した。
そしてそのメリセントは、彼女の祖父であり、ジェフリー達の恩師マテウスを殺したエルガイア王太子に洗脳されている。
勿論、ジェフリー自身もそうだが、兄ジェイドの心労は計り知れない。
「もう出発する?」
ジェフリーは静かに焚き火を見つめている兄に尋ねる。
「ああ、そうしよう」
ジェイドが小さく頷き、立ち上がった。
――その時だった。
人の声が混じった歪な咆哮と共に、巨大な影が二人に襲いかかった。
辛うじて、二人は身を躱す。
「ジェフリー!」
ジェイドが叫び、すぐさま魔力を練る。
「こっちは大丈夫――」
ジェフリーがジェイドの言葉に応じつつ、襲いかかってきたそれに目を向けた。
そこにいたのは、まさに異形。
隆起した筋肉に、鋭利で巨大な牙と鉤爪。
眼は血走り、理性と狂気の狭間にある。
「じ、人狼?」
ジェフリーの声が震える。
半人半獣という表現が正しいだろう。それは人であり、人ではなかった。
しかし、ジェフリーの発した言葉は間違いであった。
「おいおい、そんなチンケなもんと一緒にすんじゃねぇ」
それは唸るような声で言った。
「俺にはアーリって立派な名があんだよ」
人狼もとい、アーリは二人に名乗った。
そして――
「ガキども、バーサークって知ってるか?」
そう言うなり、アーリは更なる変身を遂げる。全身は更に巨大化し、分厚い毛皮に覆われて行く。
「こいつ、何者なの!?」
「知るかよ!今は戦うしかねぇ!」
ジェイドとジェフリーは身構える。
その刹那、狂狼が動く。
その巨体からは想像できないスピードで二人に飛び掛かった。
カウンターのチャンスなど無い。二人は攻撃を回避するので精一杯だった。
「畜生!」
なんとか体勢を作り直したジェイドが火球を作り出し、アーリへと撃ち放つ。
しかし、アーリはそれに構わず突撃して来た。
その分厚い毛皮と筋肉はジェイドの炎を物ともしなかった。
「まずいっ!」
巨大な鉤爪がジェイドの体を引き裂くかに思われた。
しかし、アーリの攻撃は届かなかった。
「氷か」
アーリが巨大な口を歪ませる。
足元から伸びた氷が、アーリの動きを封じていた。
「ジェイド、今の内に距離を取るんだ!」
「お、おう!」
ジェフリーの魔術によって、ジェイドは命拾いした。
しかし、これによって優勢になったとは言い切れない。
「氷の魔術……テメェ、やっぱりあの男の息子だろ?」
首を捻り、アーリがジェフリーの方を睨む。
ギシギシと足元の氷が音を立てる。
「あ、あの男?どういう意味だ」
動揺しながら、ジェフリーが訊く。
「テメェはエドワード・レインの息子なんだろって意味だよ!」
氷が砕けた。
しかし、アーリの足は無傷。
(僕の魔力じゃこいつを止められない!)
ジェフリーを絶望と驚きが襲う。
獣は咆哮し跳躍すると、脅威的なスピードでジェフリーへと牙を剥く。
「させるか!」
その時、豪炎がアーリに襲い掛かる。
ジェイドは先程よりも出力を上げて魔術を撃ち放った。
「くそっ!」
アーリの足が止まる。
その隙にジェフリーはジェイドの側まで後退した。
「ありがとうジェイド!」
「お互い様だぜ、ジェフ!」
二人は並び立ち、再び身構える。
アーリは身を焼き焦がしながらも二人と正対する。
「少しはやるな」
肉の焼ける匂いを放ちつつも、アーリは余裕の態度を崩さなかった。
「ならば、少々趣向を変えさせてもらうぜ」
アーリには、まだ手札がある。
筋肉が盛り上がり、骨の軋む音が森に響く。
狼の輪郭が歪み、崩れ、別の形を求め再構築されて行く。
「マジかよ……」
ジェイドは言葉を失う。
首は異様なまでに太く、牙は鋭く凶悪に突き出す。
脚は地面を削る程に重く、毛並みは鎧のように逆立った。
アーリは巨大な猪へと変身を遂げた。
「ぶっ潰す」
荒い鼻息と共にアーリが言う。
そしてその直後、先程以上のスピードで二人目掛けて突進する。
「ジェフ!横に飛べ!」
ジェイドとジェフリーは咄嗟の判断で跳躍し、アーリの攻撃をギリギリで躱した。
二人の間を裂くように通過したアーリは停止せず、後方の森へ突撃。地面が抉れ、木々が薙ぎ倒された。
「避けやがったな」
そして、急停止したアーリが兄弟の方へ顔を向ける。
ジェイドとジェフリーは、息を飲んだ。
「まずい、こっちが魔術を撃つよりも向こうの方が圧倒的に速い……!」
「魔力を練っている内にアイツはこっちに到達する!」
驚異的なスピードと破壊力。さっきは運良く避けられたが、今度は上手くいくとは言い切れない。
「焦ってるなぁ、ガキども」
猪の口が歪む。
「可愛い息子の首を土産にすりゃあ、エドワードの冷めた面も多少は面白くなるかもなぁ」
アーリが地面を蹴りながら言う。
「お前の目的はよく分かんねぇけど、そんな事じゃあの人は泣きも笑いもしねぇよ」
額に脂汗を滲ませるジェイドがそう返した。
「なんだ、嫌われてんのかテメェら」
「そうだよ。まぁ、こっちも向こうを恨んでるしな」
思わぬ返答だったのであろうか、獣の面とは言え、その表情に揺らぎが見えた。
「……どうした?来ないのか?」
その時、ジェイドは純粋に疑問を抱き、そう訊いた。それが図らずも挑発を与える事になった。
「舐めんな!」
アーリが怒鳴り声を上げ動く。しかし、先程に比べてスピードに精彩を欠く。
そして更に――
「今だ!」
ジェフリーが地面に手をつき、魔力を送り込む。
アーリの足元から巨大な氷の杭が噴き上がり、その分厚い胴体に突き立てられる。
「ぐはぁっ!」
巨大なその口から血が溢れる。
ジェフリーはアーリの動きが止まった隙を見計らい、彼の突進して来るであろうルートに座標を設定。
機会を伺って、魔術を発動した。
そして、兄弟の攻撃はこれに留まらない。
「ジェイド、チャンスだ!」
「任せろ!」
ジェイドはアーリに向けて両の掌を突き出し、ありったけの魔力を練る。
「悠久の雪原すら熔かす熱き血潮よ、烈火となり我が敵を滅せよ……!」
魔術の詠唱。
焼け付くような強い光を放ちながら巨大な火球が作り出され、身動きの取れないアーリへと撃ち放たれた。
「畜生がぁ!」
アーリが叫ぶ。
森が揺らぐ程の魔力の奔流。
氷柱を巻き込み、火球が爆発を起こす。
青空が、夕焼けのように赤く染まった。
「直撃だ!」
「やった!」
煙が辺りを覆う。
二人は、勝利を確信した。
――しかし、猛獣の吐息が止まる事はなかった。
「調子のんじゃねぇぞ、クソガキが」
煙の中から姿を見せたのは、余りにも異様な姿の獣だった。
猪の分厚い胴体。だが首元からは、狼の鋭い顎が突き出し、背中には逆立った獣毛が刃のように連なる。
前脚は猪の重さを保ったまま、後脚は狼の跳躍力を宿している。
「バーサーク――"混合獣"」
生物として正しい形ではない。だが、それでも動く。
バーサークの特性上、先程負った傷も変身の際に回復していた。
「そんな……」
「どうすれば……」
兄弟を絶望が襲う。
二人とも先程の大技で魔力が底をつきかけていた。
「貴様らを殺して、次はエドワードだ」
次の瞬間、アーリは猪のように突進し、狼のように跳び、獣でも人でもない速度で迫ってきた――
(やられる……!)
死を直感する。
二人が反射的に目を瞑った。
その時だった――
――凄まじい金属音が響く。
自分の体に衝撃は伝わってこない。
ジェイドは恐る恐る、目を開いた。
そして、その翡翠色の目に映ったのは――赤髪の女騎士の姿だった。
「また会ったな、アゼルニアの王子様」
「アンタは、トルミアの!」
トルミア騎士団副長ローラ・アンジュ。彼女は剣を手に、アーリの突撃を止めていた。
「誰だテメェは!」
アーリが叫び、力づくで押し通ろうとする。
しかし――
(嘘だろ……動かねぇ!)
自然の摂理から外れ、異様な筋力を持つはずの混合獣が、完全にパワーで押し負けていた。
「そろそろ離れろ」
ローラは冷徹な眼差しをアーリに向ける。そして、その剛力を持ってアーリを弾き返した。
自身の突進の速度よりも速く、アーリは地面を抉りながら後方へ吹き飛んだ。
(強い……!)
ジェイドは息を飲む。ジェフリーは言葉を失った。
そんな二人に対して、落ち着き払った様子でローラは訊く。
「怪我は?」
「……ありません」
「そうか、なら良かった。とりあえず――」
ローラの視線は前方に向けられている。
獣が、再び立ち上がった。まだ決着は付いていない。
「話は後にしよう」
鋭い殺気と共に、剣の切先を獣へと向ける。
剣を構えるローラを目にして、アーリは動き出せなかった。
(なんだこの女……俺よりもずっと小さいはずなのに)
アーリは、自身を踏み潰してしまう程に大きな闘牛と相対している錯覚を覚えた。
そして、理解する。この女は獲物ではない。
(勝てねぇ!)
直感する。そして判断する。
ここから逃げなければならない。
全魔力を変身に集中させ、その時間を大幅に短縮、巨大な翼を生やすと、上空へと飛び上がった。
「待て!」
ローラが駆け出す。
しかし、その剣は空までは届かなかった。
アーリの持つ生への無意識な強い執着は、彼自身を救う事となった。
「私とした事が……」
剣を鞘に納めつつ、空を睨むローラ。
そんな彼女の元に仲間達の声が聞こえてきた。
「ローラ!」
「ローラさん!」
キリアンとマリーだ。
二人は周辺を警戒していた為、少々遅れてこの場に辿り着いた。
「申し訳ありません。逃しました」
キリアンに頭を下げるローラ。
それに対してキリアンは、彼女の肩に手を置いて微笑む。
「彼らは無事なようだし、それだけで充分さ」
キリアンはそう言った後、ジェイドとジェフリーに向き直る。
「大丈夫かい?」
「ええ、何とか……」
動揺した様子のまま、ジェイドが答えた。
ジェフリーも驚きの表情のまま固まっている。
そんな二人を見て、マリーが驚きの声を上げる。
「ああ!この二人、アゼルニアの王子じゃん!」
思わぬ再会だった。グラディウスで顔を合わせた以来である。
「私も駆けつけて驚いたよ」
そう言いつつもローラは落ち着いていた。
「アゼルニアの王子……どういう事か説明してもらえるかな?」
キリアンがローラとマリーを見遣って言う。
彼はグラディウスで起きた事の顛末については既に報告を受けていたが、今この状況で上手く整理できるはずもない。
とにかく、この場で話してても落ち着かない。
ジェイドとジェフリーも気が動転しているであろう。
一同は、トルミア騎士団が新たに設置した野営地へと移動し、事の次第を整理する事にする。
いつしか森は静けさを取り戻していた。
追う者と追われる者。
その因縁はすでに絡まり合い、解ける事はない。
そして、行き着く先は未だ誰も知り得ない。




