第89話 差し伸ばされた手
ノーシア諸侯の会議。大公ヴォルフラムは息つく間もなく、各公一人一人に淡々と命令を下していった。
永久凍土と化したベルザン公国の北隣を治める若い公へは、ベルザンの難民の保護と、傭兵を連れてすぐに帰国するように命じる。
西方を治める公達へは、アポロヌス側へ余計な刺激を与えないように厳命し、今日この場には呼んでいない、アポロヌスに恭順する動きを匂わせる公国の監視を命じる。
そして南方の海に面した国へは、海軍を動かして侵攻してきたアゼルニアの補給路を脅かすように命じる。
言葉は短く、迷いは無い。それぞれの役割が最初から決まっていたかのように、自然と割り振られて行く。
そして、近くに控えていた吏僚に、猟犬を呼び出すように伝える。
「血濡れの影を呼べ」
その言葉に吏僚は生唾を飲み込むと、一礼してこの場を後にした。
これらの指示を明確に下したヴォルフラムは、背を向けて広間を出て行った。
「何と大きな背中であろうか」
誰かがそう漏らした。
大公の命令に、この場の誰も異論を唱えない。この決断に代わるものを持たない。
ノーシアを導けるのはヴォルフラムしかいない。
そう確信するには充分な光景だった。
会議後、城を後にする公達の足取りは重くもあり、同時に安堵を帯びていた。
嵐の中でも舵を握る者が確かに存在している。
それだけで人は救われるものだ。
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一方――
ヴァルグリム城の高層、私室へと戻ったヴォルフラムは、誰の目もない場所で、ゆっくりと息を吐いた。
すでに日は落ちて、窓の外には凍てつく風と月明かりだけがあった。
(また選んだ)
胸の奥で言葉にならない何かが蠢く。
正しかったのか、他に選択肢は無かったのか。
自身の命令は確かな物であったか。
しかし、憂う時間はない。迷いは許されない。
それでも、ヴォルフラムの視線は西方へと向けられていた。
数ヶ月前に勃発したアポロヌスとの戦争――緒戦は優勢であったが、結果は紛う事なき負け戦。
(私の決断が、多くの兵を殺した)
敗北の記憶は消えない。
ヴォルフラムは静かにベランダへと足を運んだ。
冷たい冷気が、外套の裾を揺らした。
その時だった。
月明かりの中に、誰かが立っていた。
同時に、どこか哀愁の漂うリュートの音が聞こえてくる。
その誰かは吟遊詩人の装いをしていた。
大公は即座に腰の剣に手をかける。
ただ背筋を伸ばし、静かに吟遊詩人を見据える。
「何者だ。名乗れ」
声は低く、よく通っていた。
威圧でも虚勢でもなく、問いとして明確だった。
吟遊詩人は軽く頭を下げる。羽飾りのついた帽子が月光を受けて揺れた。
「名は重要ではありません……私はしがない吟遊詩人」
妖しい甘美な声音。
それでもヴォルフラムは一歩も引かない。
「ヴァルグリム城は招かれざる者を許さん」
「そうでしょうね。ですから私は門を通ってここに来ていません」
吟遊詩人は茶化すように言った。
(不気味だ)
異質。そうとしか言いようがなかった。
ヴォルフラムは直感で一人で対峙すべき相手ではないと悟る。
「衛兵!」
私室のドアの外には護衛の兵が控えている。ヴォルフラムはそれを呼んだ。
しかし、返答はない。
「今宵は静かな時間が流れている。衛兵も居眠りしてしまう程に」
クスクスと笑う吟遊詩人。
彼の言う通り、護衛の兵はドアの外で寝息を立てていた。
ヴォルフラムの背中に冷たいものが走る。
「用件は何だ。呑気に詩を聴いている時間はない」
ヴォルフラムのそんな言葉に、吟遊詩人の口角がわずかに上がった。
「よく存じております。あなたは常に決断を迫られている。そして、間違いは許されない……」
その言葉に、ヴォルフラムの眉がわずかに動いた。
「先の戦争で、ノーシアは手痛い敗北を喫した。これ以上の誤った判断は許されないのでしょう?」
吟遊詩人はまるで世間話をするかのように続ける。
「南から凍土が迫り、西からは怪しい影が迫る。その対策をしくじれば、さらに多くが死ぬ」
空気が凍りついた。
「もう黙れ」
ヴォルフラムは剣を抜いた。
しかし、吟遊詩人は怯まない。
「なにも責めている訳ではありません」
彼は静かに首を振る。
「むしろ同情してしまいます。あなたは有能だ。しかし、それでも少々足りなかった」
「何が?」
ヴォルフラムは反射的にそう尋ねていた。
吟遊詩人の口端がさらに歪む。
「答えはシンプル。"力"です」
その一言が夜に落ちた。
「あなたは民を守る覚悟も、敵を斬る覚悟もある。だからあなたは正しい決断を下せる」
「俺に何をしろと?」
ヴォルフラムの問いは重かった。
それでも、吟遊詩人は尚も飄々とした様子で、こう答えた。
「私と、秘密の約束をしましょう」




