第87話 災厄来たる②
神崎三郎一行が東域へ到着するよりも数日前、少人数の一隊が東域へと侵入していた。
彼らもまた、正規ルートでの入国が憚られる理由があった。
彼らに課せられた任務――それはアゼルニア王国王太子、エドワード・レインの抹殺である。
そして、この一隊を指揮する男の名はアレクサンダー・スレイド――
地上最強の男と呼ばれる怪物が、東域の地へと足を踏み入れた。
――東域 ドレヴァ公国――
深い森林、濁った湖、湿った空気。
どんよりとした空模様は、不吉な予感をかき立てる。
エルガイア王国王太子付き親衛隊。その中でも王太子から格別の信任を得て、アズラクとジークの二人はアレクサンダー・スレイドの任務に同行していた。
言わば目付け役である。
二人は今回、アレクサンダーがその役目を果たし切るのを見届けなければならない。
十数人ばかりの一隊。その先頭を行くのは、地上最強と呼ばれる男。
獅子の如き金髪。身の丈は2メートルに迫り、厚手の軍服の上からでも分かる異様な肉体。鍛え上げられている、という言葉では足りない、まるで人型の兵器であった。
彼の後ろを歩くアズラクは、無意識に息を飲んだ。
やはり、この男――アレクサンダー・スレイドには他の生物には感じられない異様な圧力がある。
ただ歩いているだけ、しかしそれだけで全てを壊し、飲み込んでしまうような圧力。
そして、アズラクと同じく緊張した面持ちで歩くのはジークである。
普段は口数の多いジークも今日ばかりは口を閉ざし、アレクサンダーの後ろを歩く。
ジークはアレクサンダーよりも背が高い。しかし、ジークの目に映るアレクサンダーは、自身を踏み潰してしまうのではと錯覚する程に大きかった。
曇天の下、悪路を行く一行。
――そしてある時、アズラクは前方に巨大な建造物を発見する。
「砦か。厄介だ。」
アズラクはそう呟き、舌打ちした。
一行は、どうやら重要な街道付近まで辿り着いたらしい。しかし、それに睨みをきかすかのように、大勢の兵士が詰める砦が築かれていた。
足を止めるエルガイア勢。
兵士の一人が、アズラクに指示を求めようとすると、かの男が静かに動き出す――
「エドワード・レインがいるとされるベルザン公国へは、そこに見える街道を通って行くのが最短ルートだ――つまり、あの砦はこの上なく邪魔という事になる」
低く、抑揚の無い声。アレクサンダーは誰に喋りかける訳でもなくそう言うと、砦に向かって、ただ一人歩き始めた。
そして、彼の行動に対して口を出す者は一人もいなかった。
まず、異変に気付いたのは砦の外にいた斥候部隊であった。
血と呪いの匂いが染み付いた荒野。あまりにも無防備にその男は立っていた。
「……一人?」
斥候の一人が呟く。
男の周りには旗も、護衛もいない。鎧兜の類も身につけていない。
――それなのに、近づく事が憚られた。
風が止んでいる。
静寂の中、その男は無表情のまま深い青色の眼でこちらを見据えていた。
その手には、武器と呼ぶにはあまりにも無骨な、金属製と思しき棒が握られていた。刃も装飾も無い、武器としての主張が何一つ無い。
だが、彼の放つ圧力は砦の斥候に本能的な危機感を植え付けていた。
「敵襲だ!」
斥候が叫ぶ。
その刹那――男の姿が彼らの目の前から消えた。
そして次に血と肉片が舞っていた。
その男、アレクサンダー・スレイドは瞬く間に斥候達を排除した。
次いで、彼はけたたましく警鐘が鳴る砦の方へと目を向ける。
アレクサンダーは手に持っていた棒を振り上げると、無造作に地面に叩きつける。
その力は、人智を超越していた。
大地が震え、陥没する。風圧でも衝撃波でもなく、質量そのものが空間を叩き潰す。
その一振りは一帯を揺るがし、堅牢な砦までを粉砕してしまった。
土煙が舞う。
惨憺たる光景が広がる中、アレクサンダーの眼はまだ砦があった場所に向けられていた。
「貴様……何者だ」
誰何の声。煙の中から現れたのは、奇妙な装束に身を包む男だった。
目深に被ったフード、毛皮の外套。手に握られた杖と斧。そして、男の周りには異様なオーラを放ちながら宙に浮く血染めの護符があった。
「見れば分かるだろう、敵だ」
アレクサンダーは男の問いに答える。
次の瞬間、護符を中心とした空中に方陣が描かれ、呪力の込められた光線が撃ち放たれる。
「――呪陣・呪槍」
その光は空を切り裂き、アレクサンダーに直撃した――
爆音が響き、地には大きなクレーターが生じていた。
「跡形も無く消え失せたか」
男の口端に笑みが溢れる。アレクサンダーの姿は消えていた。男の呪術によって、塵となったのか。
――否。
「それは君のことかな?」
男の背後から、低く抑揚のない声が聞こえた。
男が振り向く前に、アレクサンダーは高く掲げた棒を男の脳天目掛けて真っ直ぐに振り下ろした。
空中に、赤い花が咲いた。
アレクサンダーが打ちつけた棒の下に見えるのは、元が人の形をしていたとは到底思えない、肉片だった。
アレクサンダーは無表情のまま棒を肩に担ぐと、この様子を離れて見てきたエルガイア勢に合図をする。
「排除した」
その一言で充分だった。
――やはり、理解が及ばない。
それが、アズラクの率直な感想だった。
東域勢の動きが怠慢であった訳でもない、アレクサンダーに立ち向かった呪術師が弱かった訳でもない。
それでも、かの男は雑草を踏みにじるように、敵を蹂躙した。
アズラクは、背筋に冷たい物を感じていた。
ジークにしてみても同じだった。
怪物と呼ばれる生物、ドラゴンやグリフォンにも必ず「殺せる構造」が存在する。
しかし、アレクサンダーを見れば、その例外が存在することを、否応にも認識させられる。
(狩人の神の血を引く俺だとしても……届きゃしねぇ)
アレクサンダー・スレイドと戦うという行為を選んだ時点で、敗北は決定するのだ。
――逃げろ、見送れ、関わるな。
狩人としての勘が、そう囁いていた。
しかし、同時にこんな事も脳裏によぎった。
(我らが王太子殿下は……エルガイア王国はこれを飼っているのか)
背筋が寒くなった。
未だ、分厚い雲は日差しを遮っている。
鉛色の空の下、瞬く間に完成した地獄絵図。
東域側の生き残りはいない。故に伝令も届かない。
アレクサンダー・スレイド――全てを破壊し得る災厄の到来を、東域はまだ知らない。




