第一部エピローグ 東へ
その夜、バレーベルクを発つ準備は静かに整えられた。
荷は最低限。最短での東域到着を目指し、明朝にエルガイアの王都ロボスブルクを発つ飛行船に搭乗する事に決めた。
追われる理由はまだ無い。しかし、留まる理由は既に失っていた。
ジェフリーは焚き火の前に座り、炎を見つめていた。
揺れる光の中で、兄の横顔が固く見える。
「ジェイド……」
「もう、俺は振り返らない」
そう言いつつも、ジェイドの視線は揺れ動いていた。
兄の複雑な心境は痛い程に理解できていた。自分自身も、この状況に整理がついている訳ではない。
「ジェイド、何があろうとも僕らは兄弟だ」
混沌とした中でもそれだけは確かであり、改めて伝えておくべきだと、ジェフリーは思った。
「……おう」
わずかに、ジェイドの頬が綻んだ。
そして強い決意の宿る目をして、静かに立ち上がった。
「東域へ行こう。父上に会わないと」
ジェイドの言葉に、ジェフリーは力強く頷いた。
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――アルベルク オスカーの館――
ジェイドとジェフリーがバレーベルクを発ったのと同じ時刻、神崎三郎は一人中庭で夜の風を浴びていた。
「東域、か」
翌日を出発に控えた三郎は、アレクサンダーとの戦いをただひたすらに楽しみにしていた。故に、簡単に眠りにつけなかった。
星が煌めく夜。三郎はおもむろに、首に下げている鍵を手に取った。
故郷を出る際に、父から受け取った首飾りである。不思議な形をしたそれは、月のない夜に緑色の小さな光を宿す。
その光をぼーっと見つめていると、なぜか懐かしい気持ちになる。
「誰だ」
三郎は首飾りを見つめたまま、そう言った。
背後で、その動揺を表すかのように何者かの足音が響いていた。
「あの、その……」
女の声。振り返ると、そこにいたのはこの館のメイド、レイラであった。
「もう遅い時間なので、戸締りを確認して回っていた所なんです」
視線を逸らしながら、レイラが呟くように言った。
三郎は気の抜けた顔で「ふぅん」と頷くと、レイラに歩み寄る。
「ご苦労さん」
ゴツゴツとした手のひらをレイラの肩にポンと置いてそう言ったあと、三郎は自身の寝所へと戻ろうとした。
レイラは少し気まずそうだった。
「明日、東域に向かうそうですね」
すれ違いざまに、レイラが言う。
「左様。それなりに長い旅になりそうだ」
歩くのをやめずに、三郎が答える。
レイラは後ろを振り向き、三郎の大きな背中に言葉を投げる。
「道中お気を付けて」
三郎は振り返らず、ヒラヒラと手を振ってそれに応えた。
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――東域 ベルザン公国――
冷たい夜の闇に紛れ、とある国の軍隊が静かに行軍していた。
闇の中にはためくのは、白地に翡翠色の獅子の紋章。
隊列を率いるのは、アゼルニア王国王太子、エドワード・レインである。
背後より、兵士達が装備した鎧や武器の鳴る音が聞こえる。この音が、戦場に流れる空気をより一層重くさせる。
だが、冷血の王太子の胸の内はそれ以上に重かった。
(……アリス)
脳裏によぎるのは、妾との間にもうけた愛娘、アリスの姿。
はっきり言って、妾に対しての愛情は薄い。一時的な劣情が生んだ取るに足らない関係である。
しかし、それで生まれた娘への想いは別であった。
――彼女は自分と同じ、神の魔術をその身に宿して生まれた。
王家の後継者であるエドワードにとって、これ以上に愛を注げる理由は無かった。
そして、その娘の姿を脳裏に浮かべつつも、名を呼ぶ事は無い。呼べば迷いが生じる。
エドワードは父である。しかし、それ以前にアゼルニア王国の王太子としてこの世に生まれ落ちた。
これから向かうのは、夷敵の住まう東の土地である。
アゼルニアの国威を示す為に、東域を屈服させる必要がエドワードにはあった。
エドワードは暗い空を仰ぐ。
「全ては……アゼルニアの栄光の為に」
エドワード・レインによる、東域へと無慈悲な攻撃が始まろうとしていた。
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――エルガイア王国 アルベルク郊外――
朝。三郎は冷たい風を全身に受けながら、深く深呼吸をした。日はまだ低いが、目を覚ますには充分だ。
ここは飛行船の甲板。魔鉱石とアポロヌスの叡智を結集した空の船は今まさに出航の時を迎えようとしていた。
「飛行船を地上から見上げたことはあったが、上側はこんな感じだったのだな」
三郎がそう語りかけたのはジャックである。
煙草を咥えながら、ジャックは空を見上げていた。
「あん時見えてたのは船底だったからな、全体的な姿形は海を渡る船とそう変わらんのさ」
ジャックが答える。
「少々驚いておる。オスカー殿がこんな立派な船を持っていた事もそうだが、何より飛行船に乗る日が来るとは夢にも思わなんだ」
三郎はやや興奮した様子だった。子供のように目をきらめかせ、甲板をウロウロと歩き回っていた。
そんな三郎と打って変わって、やや沈んだ様子で何かの帳面を覗いていたのはベルバードである。
「少々胃が痛い気がしますが、東域の文化や歴史をこの目で直接見れるのは楽しみでもあります」
ベルバードが呟く。彼は三郎の任務を見届ける為に、オスカーが同行させた、いわば目付役である。そんな彼を励ますように、その背中をバンと叩く者がいた。
「楽しみならそんな辛気臭い顔しないでよ。こっちまでテンション下がるわ」
アマゾネスのメヌである。彼女は半ば強引にオスカーの許可を得て、この飛行船に乗り込んで来た。理由は勿論ジャックである。
「ねね!ジャック!これってもしかしてハネムーンってやつ?」
ジャックに急接近すると、強引に腕を絡めるメヌ。
ジャックは引き攣った笑みを浮かべて、「あはは」と誤魔化した。
そんな賑やかな様子の中、一人物憂う雰囲気で、遠くを見つめる者がいる。
「エリカ、何を見ておるんだ」
三郎がそう言って声を掛けたのは、旅の案内役エリカである。
「……東を」
エリカは上りゆく朝日に目を細めて呟いた。
「故郷へは寄るのか?」
三郎が尋ねると、エリカは視線を落として答える。
「今の私に決定権はないので……」
「まあ、俺の用事が済んだら寄っても構わんよ」
三郎があっけらかんとして言う。
しかし、尚も暗い表情のまま、エリカは三郎に目を向けて言う。
「もしそれが叶うのなら……決着をつけたい」
その眼の奥には、強い感情が見てとれた。
「左様か」
三郎はそれ以上踏み込まなかった。
そして、飛行船がゆっくりと浮上を始める。アルベルクの街が小さくなって行く。
乗り込んだ面々の視線は既に東へと向けられていた。
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それぞれの思いが、東へ向かう。
知らぬまま。信じたまま。疑いながら。
怪物は、既に東域にいる。
王太子は勝利を疑わない。
商人は沈黙を選ぶ。
少女は愛を信じ、兄弟は真実を抱えて進む。
そして――災厄の如き男は空を渡る。
歴史はまだ名を持たない悲劇を抱えたまま、次の章に進もうとしていた。
――第一部 巡り帰りしもの 終幕――




