第八十四話 確執④
ジェイドが目を覚ますと、見知らぬ天井が視界に広がっていた。眠っていたようで、柔らかいベッドの上で身を起こし、辺りを見回す。
豪奢な装飾が施された一室。香が焚かれており、上品な香りが鼻をついた。
「俺は……一体」
しばし頭がぼーっとしていたが、わずかに残る頭痛が先程の記憶を呼び起こした。
「神崎三郎……!」
ベッドから飛び降りると、勢いよく扉を開ける。
陽の光が直接差し込まない廊下は少し薄暗い。
人の気配は無い。
仇敵の気配を探りながら、ジェイドは足早に歩いた。
少しすると、陽の光が差し込む中庭に出た。それを横目に、ジェイドは回廊を進んだ。
広い館だ。無数の部屋と石細工の施された回廊の壁は、どこか懐かしさを呼び起こす。
それと同時に湧いてくるのはその思い出を破壊された怒りである。
眉間に皺を寄せて歩くジェイド。そんな時、人の声が耳に入ってきた。
反射的に身を屈めて壁に身を寄せた。
どうやらその壁の反対側から聞こえる話し声のようだ。
換気のため開けられたのか、それとも閉め忘れているのか、半開きになった窓から洩れ聞こえる声に、ジェイドは自然と耳を傾けていた。
それは男女の会話だった。
「それで、本日は何をご所望で?」
どこか芝居がかった男の声。その向かい側で柔らかく笑う女の声があった。
「おおよそ検討はついているでしょ?」
品のある口調の中に何処か棘を感じさせる。ジェイドはこの声の主を知っていた。
(公爵夫人だ)
今、部屋の中で言葉を交わしているのはメリオルド公爵夫人マルチダと商人オスカーであった。
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「まあ、おおよそ検討はついております。東域の件ですね?」
オスカーの声はいつもよりどこか慎重であった。
「私も私である程度耳が広い方なの。それである筋から聞いたのよ、東域で妙な動きがあったって」
上品で澄んだ声。しかし、どこか冷厳。
ジェイドは聞き耳を立てながら、密かに生唾を飲み込んだ。
そんな風に聞き耳を立てられているとも知らず、二人の会話は続く。
オスカーはマルチダの言葉に対して頷いた後、追従の笑みをぎこちなく浮かべた。
「流石にお耳が早い。つまり今日はその情報が正しいのかどうか、私の知る情報と擦り合わせ、確かめに来たといった所でしょうか」
オスカーの言葉に微笑して、マルチダは小さく頷いた。
それを見て、オスカーは言葉を続ける。
「実は、私の元にも東域に新しい動きがあったという知らせが来ています」
「それはどんな?」
「どこかの国の――異分子とでも言いましょうか。はっきりとした正体は掴めていないのですが……」
オスカーの言う異分子。彼の隊商の交易ルートや協力者の目の届く範囲で、その土地の者ではない何者かが動いた形跡があるのだ。
そして、彼の話を聞いたマルチダはどこか確信めいた表情で小さく頷いてみせた。
「やっぱり……そうだったのね」
マルチダの表情から、彼女は自分よりも詳細な情報を知っているのだとオスカーは感じ取った。
しかし、それ以上は踏み込むことは無かった。余計な一言が命取りになりかねない。
「他に何か私がお役に立てる事はございますか?」
オスカーが尋ねる。
マルチダは顎に手を当てて少し考える素振りを見せた。そして、柔らかい声音で話しだす。
「気晴らしに雑談でも」
「雑談、ですか……承知しました」
オスカーは緊張の面持ちのまま、頷く。
マルチダは微笑みをたたえたまま、話を続ける。
「ここのところ、国内の情勢が目まぐるしく変わっていったのでね、我ながらよく働いたと思うわ」
エルガイア王国の権力闘争の事である。王太子バルカの策略の重要なブレーンであるマルチダの働きは誰もが認める所である。
オスカーはすかさず追従の言葉を述べる。
「バレーベルクの件といい……何から何まで公爵夫人の周到な策あっての成果と存じております」
バレーベルク。部屋の外で耳を傾けていたジェイドはその地名を聞き逃さなかった。バレーベルクは現在彼が逗留している土地であり、領主は他でもないメリセントである。
ジェイドが不穏な空気を感じるなか、マルチダはクスクスと笑いつつ、オスカーに語り掛ける。
「でもあんな風に上手く転ぶとは思わなかったわ。メリセントは故郷を失くし、唯一の肉親である祖父も失った。そうすれば頼みの綱は王太子殿下だけ……殿下の思うがままに操る傀儡の出来上がりって事よ」
「しかし……殿下は本当に天の加護に恵まれたお方だ。都合よくメリセントの祖父が事故的に死んでしまうとは」
感心した様子でそう言ったオスカー。
そんな彼に対し、マルチダはあっさりとした口調で答える。
「ああ、あれは私が殺したの」
その一言を聞いた瞬間、オスカーの顔が引き攣った。その言葉で、王太子バルカの恐ろしい計略を悟ったのだ。
そして、壁を隔ててマルチダの言葉を耳にしたジェイド。彼の胸の中で何かが音を立てて崩れていった。
そんな中でも、マルチダの冷たい一言一言が、容赦無くジェイドの耳をつく。
「メリセントを完全に殿下の虜にする為には、彼女の拠り所を跡形も無く消さなくちゃならないの」
故郷が灰燼に帰し、無償の愛を注いで育ててくれた祖父を失ったメリセント。そんな時「君が必要だ」と、王太子バルカは手を差し伸べた。
「物理的にも、心理的にも帰る場所を無くしたメリセントが頼れる相手はもう殿下しかいないのよ」
マルチダはそう言って低く笑った。
その笑い声は残酷なまでにジェイドの胸を抉った。彼の中に込み上がるのは怒りか、嫌悪か、あるいは――果てしない無力感。
「あ、それと」
マルチダは何か思い出したかのようにそう言うと、更に話を続けた。
「私の義弟が東域に向かったのは知っている?」
「アレクサンダー卿ですな……ええ、存じております」
オスカーは僅かに声を上擦らせて答えた。
「彼がいないからって変な気を起こさないようにね」
マルチダはそう言って見下すような視線をオスカーに送った。オスカーはバツの悪そうな顔をして、その視線を払うかのように質問を返す。
「なぜアレクサンダー卿は東域へ?」
「あら知らないの?貴方の事だからもう知っているのだと思っていたわ」
マルチダは意外そうな顔をした後、オスカーの問いに答える。
「アゼルニア王国王太子、エドワード・レインの暗殺よ」
その一言はこの場に更なる緊張を呼び起こした。
ジェイドはその言葉を耳にして、瞬間呼吸が止まった。
(父上を……暗殺……!)
エドワードは他でもないジェイドの実の父親である。
神の魔術を操り、絶対的な実力を誇っている。
そんな男の暗殺など、容易な事ではない。しかし、マルチダの言葉には絶対的な確信が宿っていた。
「勝敗に疑念はありません。間違いなくアレクサンダーがエドワードを殺します」
マルチダは断言する。
「彼は最早、神そのものですから」
オスカーは無言だった。アレクサンダーの姿を脳裏に浮かべたのであろう。その圧倒的な力と、底知れない狂気を彼は知っている。
――そして同時に、神崎三郎という得体の知れない存在もも。
だからこそ、その沈黙は重かった。
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壁際にもたれ掛かるジェイドは、これ以上この会話を聞いてはならないと悟った。もっと言えば聞きたくなどなかった。
気怠く、鉛のように重くなった体で立ち上がり、足音を殺しながら、静かに部屋から離れる。
(とにかく今はここから出て、バレーベルクへ……メリセントに会わないと)
沈痛な面持ちで回廊を歩くジェイド、すると角を曲がった先で、よく知った人物と遭遇した。
「あれ、ジェイド!もう動いて平気なの?随分と顔色が悪いけど」
ジェフリーだった。どうやら先程ジェイドが寝ていた部屋まで様子を見に行く所だったらしい。
ジェイドは無言のまま、弟の手を掴み歩き出した。
その指先は微かに震えていた。
言葉は無い、しかしジェフリーは何かを感じ取っていた。
二人はそのまま、脇目も振らずオスカーの館を後にした。
そしてアルベルクから去る途中、無言のまま進むジェイドに対して、ジェフリー静かに声を掛ける。
「何があっても、僕は君を信じるよ。だって僕たちは……兄弟だから」
その言葉に、ジェイドは声を微かに震わせながら小さく答えた。
「ありがとう、ジェフリー……」




