第三十二話 壁に耳あり
ローラが三郎達と別れた頃、マリーはカイルの尾行を終えて、拠点としている鄙びた宿屋の近くまで戻っていた。
「はぁ…あんなに走るとは思ってなかった」
疲れた。もう秋だというのにひどく汗をかいていた。
服をつまんでパタパタと風を通しつつ歩いていると、ようやく宿が見えてきた。
「ここ、お風呂あるのかな…?」
せめて汗くらいは流したい。そんな事を思いつつ、軋む扉を開けて宿の中へと入って行く。
宿の一階は主人の居住スペースとなっているが、人の気配が無く、驚く程静かだ。しかし、マリーは別に気にする様子も無かった。
この建物は入り口の扉を開けるとすぐに階段があり、2階が宿となっている。
マリーが階段を一段一段上がる度ギシギシいう木の鳴き声がする。
(太ったかしら…?)
いや、まさか。神崎追跡の旅はストレスフルに違いないし、むしろ頬がこけてきそうだ。なんならさっき全力疾走したばかりだ。
太ろうはずがない。そんな風に自分に言い聞かせ、底抜けそうな足元に注意して登っていた時だった。
自分とは別の足音。階段を見上げる。
「……!!」
マリーの視線の先にいたのは、先程の狼男だった。
狼男、即ちアーリは何故か上半身裸で、肩には衣服を掛けている。そしてマリーを血走った目で見据えながらズカズカと階段を降りて来る。
マリーは反射的に半身になって、道を譲った。
一方のアーリはそれに気を使う事もなく、マリーを見据えたまま肩を揺らして通り過ぎて行く。
マリーは視線を合わす事は無く、アーリが通り過ぎるとそのまま階段を登った。
アーリも特に何か言うでもなく、宿の外へと出て行った。
「服ぐらい着なさいよ…」
2階に上がったマリーが苦々しく呟く。
さっきの戦いの後、狼男と女の二人はそのままこの宿まで戻っていたらしい。
あれ程騒ぎが大きくなったのだから、グラディウスを出て行ってもおかしくないとマリーは思っていた。
しかし、グラディウスに残っているという事はまだ神崎暗殺を諦めていないのだろうか。
(てか、今あいつが出て行ったのってまた神崎を狙いに行ったのかも…!)
マリーは一瞬、アーリを追う事を考えた。しかし、下手に一人で動いてローラとの連携が乱れるのは不味いだろうと思い直し、一度部屋に戻ってローラを待つ事にした。
2階には3つ部屋がある。
階段を登ってすぐ右手にある一部屋はさっきまで空いていたが、今は客が入っているようで、薄い壁から歓談する声が大いに漏れている。
そしてその右隣の部屋が狼男と女の部屋で更に右がマリー達の宿泊する部屋である。
(…狼男とえろい女が泊まる部屋)
その扉を横目で見ながらどこか慎重に通り過ぎるマリー。
そして、自分達の部屋前に来ると、扉を開けて中に入っていった。
一方、隣の部屋。
エレナは部屋に一つある古ぼけたベッドに座りながら、荒い息遣いで乱れた衣服を着直していた。
服を着るという簡単な行為、しかしエレナの表情はそれをするとは思えない程、苦しげに歪んでいた。
「あのケダモノめ…!」
ケダモノ、即ちアーリ。思い通りに動かず、傍若無人に振る舞うあの男への憎悪。それがエレナの表情に現れていた。
そしてそのアーリは、たった今思いついたかのように、自身の任務である"守護者の剣"の奪取へ向かって行った。
『さっきはドジった。失敗を引き摺るのは良くねぇ。気持ち切り替える為にもう一つの目標をつつくものアリだろ?』
先程エレナの耳元でアーリはそう言い残し、出て行った。
「畜生が!!」
怒りを抑えきれず、エレナが絶叫する。
その後には、しんとした静寂。そして少し間をおいて、隣の部屋の喋り声が壁から漏れて来る。
柄にも無く大声を出してしまった。今の怒号は確実に隣に聞こえていただろう。
「まあでも、そっちもうるさくしてんだから、お互い様よね」
声のする壁に向かって、愚痴をこぼすエレナ。
先刻、戦いからエレナとアーリが宿へ戻った時、隣の部屋に新しく客が入っていた。この隣人が来るまで壁の薄さには気が付かなかった。
複数人いるようで、壁を介して喋り声が否応にも聞こえてきていた。
(それにしても薄い壁ね…小声でも耳を澄ませたら内容が漏れてきそう)
そう思った時、エレナはある事に気がつく。
(そういえば、私たちが宿を取って部屋に入った時、右隣には既に客が入っていたわよね)
エレナ達がこの宿に入り、主人に部屋を案内された時、隣の部屋に別の客がいて、部屋に籠り切りだという事を雑談混じりに聞かされていた。
その時は特に気にしていなかった。
しかし、宿の主人の言う通りだとしたら、神崎三郎暗殺の密談をエレナ達がしていた際、隣には薄い壁を介して人がいたという事になる。
あの時、隣はやたらと静かだった。
エレナが、物言わぬ静かな壁に鋭い視線を向ける。
人間が口を噤む時は三つある。
一つは、眠っている時。もう一つは死んでいる時。
そして――
「他者の話を聴いている時」




