第二話 極東より②
もう丑の刻を回っているというのに、やけに視界が良い。月明かりがあるにしても不自然だ。
その原因は海にあった。海が輝いているのだ。
(でいだらぼっちの妖力に当てられて海が反応している)
三郎はそう推察した。視界に入る限りの水面は黄金のように絢爛な光を放っている。この光はでいだらぼっちが姿を見せてからより一層強くなっていた。
海の化身、でいだらぼっち。その計り知れない強大な妖力を三郎は感じ取っている。
腰に下げた得物に手を掛ける。息を大きく吸い込む、そしてゆっくりと吐き出す。鯉口を切って、静かにその諸刃の太刀を抜いた。
―刹那、でいだらぼっちの表情が変わる、憎悪、憤怒。
その妖怪の目には禍々しく凶悪な瘴気を放つ白刃が写っていた。
「感情あるんだ。にしてもこれの異常性が分かるんだな」
三郎が口端を上げる。
「アアアアアアアアアアアア」
でいだらぼっちが咆哮する。同時にその妖力が解放される。先程まで静かだった水面に波が立ち始め、空は曇り、月が姿を隠す。風が強くなり、雨が降り始めた。
「まさに厄災だ。たまらねーな」
それでも尚、三郎は笑みを浮かべていた。
分厚く広がった雲から豪雨が降り注ぐ、強風が波を煽り、黄金の海は更に荒ぶって行く。そして遂には三郎を飲み込んでしまった。
でいだらぼっちはそのまま大地を沈めんとする海の勢いと共に歩を進める。
彼は海であり、海は彼だ。
海はただ広く深く存在するだけである。人間が抗おうが関係ないし、及ぶはずもない。
そう、人間ならば
―ゴオオオン!!!
突如として轟音が鳴り響く、荒れ狂う海や風の音すら掻き消すような轟音。同時にでいだらぼっちの進む先の海が割れる。その中心に立つのは人智を超え、禁忌と称された者。
「――雷神――」
妖術の詠唱、三郎の妖力が急激に上昇する。
空にかかった雲に稲光が走る。そして降り頻る豪雨と同じようにして雷が周辺に落ち始めた。
雷は空からだけではない、三郎自身からも生じていた。
海の輝きすら飲むような雷光が三郎を包み始める。
でいだらぼっちの歩みが止まった。
決戦の地を中心に嵐が吹き荒れていた。それ程離れていない赤松の小城はその影響を受けないはずが無かった。
「女子供は避難させたか!」
嵐の音に掻き消されまいと、声を張り上げ赤松は問うた。
「たった今奥方様をはじめ、避難を終えましてござる!」
郎党の侍が豪雨を顔に受け溺れそうになりながらも必死に伝える。
この山城の裏には更に高く険しい山がそびえており、有事の際女子供はその山中の岩戸に避難する事になっている。
「よし次はおぬしらだ!とっとと城から逃げろ!」
「では殿も共に参りましょうぞ!」
「…いや、俺は残る!」
赤松の言葉に侍は耳を疑った。何故こんな危険な状況でそんな事が言えるのか。
「殿!死にますぞ!」
そんな事は百も承知だった。しかし岩戸に避難してしまえば、今繰り広げられている戦いを見逃す事になる。
「自分でもよお分からんが、見届けねばならん気がするんだ!この戦いを!」
「正気ですかっ!?」
主従が押し問答をしている間にも嵐は強まって行く。雷の音も聞こえ始めた。
「妻と息子の護衛は任せたぞ!」
「ああっ!殿っ!」
赤松は痺れを切らし、侍を押しのけると先程までいた櫓に
必死の思いでよじ登った。そして再び、海の方に目を向ける。
「…何だあれは」
海が割れていた。その中心には強い光を放つ何かがある。
やがてその光は強く大きくなって行き、呼応する様に雷が鳴り、海へと降り注いだ。雷を受けたでいだらぼっちはもがき苦しむかのように、その巨体を大きく揺らしている。
そして太陽の如く強く大きくなった光が動き出し、でいだらぼっち目掛けて撃ち放たれた。
天地すら割れるような轟音を鳴らして、光がでいだらぼっちに直撃する。そして次に聞こえたのは伝説の妖怪の断末魔だった。
「アアアアアアアアア」
光に飲み込まれるようにしてでいだらぼっちは消え去った。そして嵐は止み、眠りに着いたかのように海は静けさを取り戻した。
戦いは終わった。神崎三郎は勝利を納め、浜辺へと上がった。背丈が六尺二寸もある筋骨隆々とした体を、月明かりが照らす。
「いや〜、ずぶ濡れじゃ」
そんな事を言いながら、大木のように太い腕で直垂の裾口を絞る。そして嵐に吹かれて乱れた髷をテキトーに結い直した。
「伝説の大妖怪でいだらぼっち、よき相手だった!」
猛禽類のような猛々しい顔に笑顔を浮かべる三郎。
15の時、戦いを求めて故郷を旅立った。翌る日も強敵とあい見え勝ち続けた。そんな日々が続いてもう10年が経っていた。
ふと首に下げている飾りを手に取った。故郷を立つ際に父から譲られた首飾り。金属とも鉱物ともいえる不思議な材質に奇妙な形、父は「鍵」と呼んでいた。
(父上や兄者達は元気だろうか)
しばし鍵を眺めながら故郷や家族の事を思い出していた。
三郎の出身、神崎家は日ノ本の北方に小さな領地を持つ武家である。しかし、血脈を遡れば天から降りし神の一人である「力と雷の神」に辿り着く特別な家系で、一族の者は驚異的な戦闘能力をもって日ノ本で強い影響力を持っている。
そんな一族の中でも三郎は抜きん出ていた。
「たまには里帰りもありかもな!」
都で今回の討伐の褒美を受け取ったら、それを土産に一度故郷に顔を出す事に決めた。
決意を固めるように、ぎゅっと鍵を握りしめた。
―その時だった
突如として鍵が緑色の光を放ち出した。光はみるみるうちに大きくなって三郎を包み込み、更には宙に浮かした。
「はっ!?え、なんじゃこれは!」
そして三郎が何かしらアクションを起こす間も無く、光は彼を包んだまま超スピードで海岸から飛び立って行った。
この奇妙な一部始終を三郎を迎えに海辺まで来ていた赤松は目撃し、戦いの結果と共に都の宮廷に伝えた。
それを聞いた帝はこう言ったという
「日ノ本より厄災は消え去った」