第107話 否定の旅
――ロノド公国 ドラヴェル城 南方の荒野――
ドラヴェル城はロノド公国の南方寄りに位置する。
城の周りでは東域然とした湖や森林の景色が眺められるが、城下町を外れた南方へと少し歩けば、土地の表情は一変する。
城下を出て、緑の景色は途切れた。
荒野は広かった。
だが、逃げられる広さではないと分かる。
エリカは身の丈に余る大きな外套の襟を寄せた。
どこへ向かっても同じ景色が続く。
目印になるものがない。
風が吹く。背の低い枯れ草を揺らしながら、空へと舞い上がる。
エリカは岩に腰を下ろしていた。
先程受けた責苦のダメージは大きい。まだ体が思うように動かない。
今、目の前に立っている男はそれを見越して、自分を拘束していないのだろう。
羽織った外套は重く、わずかに温かい。
風が吹くたび、布だけが揺れる。
逃走を試みた所で、それに意味がないことも分かっている。
それに――彼からは殺気を感じなかった。
あまりにも飄々とした雰囲気。
(不思議な人……)
彼の白金色の髪が風に揺れる。
エリカは、呟くような声で男に話しかけていた。
「あ、あの……ベルナールドさん」
「ユリウス、でいいですよ」
荒野の先を見据えたまま、ユリウス・ベルナールドが返す。
「ゆ、ユリウスさん……なぜ三郎さんを誘き出そうとしているのですか?」
単純に気になっていた。
ユリウスが誘い出し、戦おうとしているのは、あの怪物である。
「三郎さんがどんな人か知っているのですか?」
怪物の姿を脳裏に浮かべるエリカ。その声が僅かに震える。
ユリウスが、肩越しにエリカを見る。
「ノーシア大公国にて魔術を放ち、地図を塗り替えた魔術士、ですよね」
その声色はやけに軽い。
ユリウスがエリカへと振り返る。
「私はノーシア大公に雇われた傭兵です。彼にその魔術士への対応を頼まれているので」
「三郎さんを殺せと命じられているのですか?でも……」
エリカが言葉を続けようとしたが、ユリウスは手を翳して遮る。
「いえ。殺せとまでは言われていません。あくまで捜索です」
ユリウスが微笑む。
「じゃあ何であなたはここで戦おうと?」
エリカが焦りを含んだ表情で尋ねる。
尚も飄々として様子で、ユリウスが答える。
「正直、私事都合ですよ。彼には、ある種の可能性を感じています」
抽象的な答え。
エリカはただユリウスを見つめる。
「彼と私が戦えば、間違いなくどちらかが死にます。彼ほどの実力者と、この私がです。そうすれば……」
風が吹き抜ける。
「剣の醜さを証明できる気がして」
ユリウスの表情にほんの僅かに翳りが差した。
「剣……?」
「そう、剣ですよ。あなた、剣は何のためにあると思いますか?」
首を傾げるエリカに、ユリウスが尋ねた。
逡巡。
しかし、エリカは自ら剣を握ると決めた過去と、明確な意志があった。
「何かを守る為です」
芯から出た言葉だった。
それを聞いたユリウスはエリカから視線を外して、青天を仰いだ。
「違います」
彼の目に、青天を射抜くような鋭利な光が宿る。
「人を殺す為です」
抑揚のない、淡々とした声だった。
エリカの背中に冷たいものが走った。
「それ以上も、以下もない」
何かを嘲笑うかのように風が鳴る。
ユリウスの白金の髪を、冬の風が無造作に揺らした。
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東域の遥か西方――アルセリア王国にて、天才が誕生する。
ユリウス・ベルナールドは、物心ついた時には既に剣を握っていた。
誰に教えられた訳でもない。剣は手に馴染んだ。
ユリウスはアルセリアの王族の子である。
城には名うての剣術指南役がいたが、彼に負けた事など一度もなかった。
アルセリアでは古来より剣は尊ばれてきた。
王族は幼少より剣を学び、振るう。王家に剣豪は大勢いた。
しかしユリウスの前では、彼らは赤子も同然だった。
皆、口を揃えてこう言った。
「あなたの剣は美しい」
嬉しかった。
ユリウスが生まれて初めて享受した喜びだった。
だから剣の価値を信じて、鍛錬を重ねた。
少なくとも、この時までは。
アルセリア王家には、秋になると王族総出で狩猟に出掛けるという伝統行事がある。
ユリウス8歳の秋。
彼は両親に連れられて、これに参加した。
そんな中で事件は起きた。
一団から逸れた王族の子供が、賊徒に襲われたのである。
偶然にも、ユリウスはその現場を目撃した。
躊躇いも、恐怖もなかった。
何かに弾かれたかのように剣を抜き放ち、駆け出していた。
それは刹那の出来事だった。
地面を覆う紅葉が、より赤く染まっていた。
立ち込める血の匂い。死体の腹から溢れる臓物。
恐怖で体を震わせ、泣き喚く子供。
ユリウスの中で、皆の言葉が反芻する。
「あなたの剣は美しい」
剣が、美しい?
疑問は膨らみ、やがて破裂する。
ユリウスは故郷を去る事に決める。
旅に出る事にした。剣の美しさを否定し、それが殺人の道具でしかないと証明する為の旅。
アルセリアを発つ日。意外にもユリウスを見送りにやってきたのは、王家の剣術指南役だった。
彼はその手に一振りの剣を持っていた。
「これを持っていきなさい。君にこそ相応しい」
王家に伝わる伝説の一振りだった。
ユリウスは無意識に手を伸ばしていた。
「君がどう思おうとも、君の剣は美しい。そして、剣の可能性は果てしない」
指南役の言葉。ユリウスはただ彼を見据えていた。
「なぜ、そうだと言い切れる?」
冷たくそう返した。
それでも指南役は熱の籠った声で答えた。
「だって私達は見てきたのだから。君の振るう剣を」
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東域の風は故郷のそれに比べて幾分か冷たい。
舞い上がった砂埃が、青天の輪郭をぼやけさせる。
「今日まで、多くの戦場を渡り歩いて来ました。多くの人間を斬った」
ユリウスのその言葉には確かに血が通っていた。
耳を傾けるエリカが息を呑む音が聞こえる。
「斬って、斬って、斬って……その醜さを世界に見せつけてきた、はずなんです。でも……」
彼らは皆、口を揃えて言う。
「私の剣が美しい、と」
腰に帯びる剣の柄に手を置く。手に伝わる感触は冷たい。
ユリウスは、自嘲的な笑みを浮かべた。
「皮肉なものですよ。剣を否定する為に剣を振れば、世界は剣を賞賛する」
ならば、剣を手放すか。
「……生憎私は剣しか知らない」
ユリウスが剣を否定するには、剣を振るうしかなかった。
それがいつしか、彼を剣聖とまで言わしめる程の名声を作り上げていた。
「だから、決着をつけたいんですよ」
ユリウスはそう言って、エリカに背を向けた。
風が止んでいた。
剣聖の双眸に、俄かに光が宿る。
白く霞む砂塵の奥に、陽炎のように揺らめく闘気が立ち昇っていた。
その正体を、青天の光が照らし出す。
「待たせたな」
剣聖の前に、戦鬼が姿を現す。
「待ってましたよ――神崎三郎さん」




