第98話 獣か、狩人か
――ロノド公国 南方の荒野――
東域――ノーシアの名を耳にすれば、深緑の山野と底しれぬ沼地を思い浮かべる者が多い。
事実、ノーシアの北方から中央にかけては、深い森と湖沼が土地を覆っている。
しかし、一度南方へと足を踏み入れると、その風景は変貌を遂げる。
岩肌を剥き出しにした高い山々、吹き荒む強く乾いた風。疎らな森林が存在するが、北方のような懐の深さは無い。
湿気も然程感じられず、曇天とは言え冷え込みも和らいでいる。
岩山に挟まれた平原の中央、逃げ場の無い空間に人影があった。
風に削られて人が身を預けるに適した形となった石に腰掛け、狂戦士アーリは執念、憎悪、怒りの籠った眼光を虚空へと向けていた。
「レイン……レイン、レイン、レイン……!!」
狂気に声を震わせて、憎きその名を口ずさむ。
数ヶ月前――アーリは秘密結社ロズブロークの一員として、神代の遺物奪取の任務の為、自由都市グラディウスに潜入した。
その地にて、冷血の魔術士エドワード・レインと遭遇した。
勝負にもならなかった。
意識する間もなく氷漬けにされ、屈辱を受けた。
僥倖が重なり、グラディウスから生還を果たした物の、組織からは任務失敗の責を問われ、死罪を言い渡された。
――死んでたまるか、殺されるのなら殺してやる。
アーリは組織の追手を退けながら各地を放浪し、自身に屈辱を与えたエドワード・レインの行方を探した。
そして掴んだ。エドワードは東域にいる。
アーリは全身の血が逆流するような執念と狂気を激らせ、東域に足を踏み入れた。
その中で、エドワードの息子達を偶然にも捕捉した。
憎悪を込めて、彼らを急襲した。
しかし――彼らがエドワードの話をした時の眼。その眼をアーリは知っていた。
憎しみだ。
故に、狩りの最中に迷いが生じた。
そして更に、邪魔が入った。
正体は不明だ。しかし、相当な手練だった。
アーリはやむなく退散する事にした。
「この俺が……仕留め損なうなんてよぉ……!許せねぇ!」
自分の邪魔をする者、邪魔をした者を生かしておく訳にはいかない。
「俺は、負けてねぇんだよ……!」
アーリは、力に屈して敗北を認める事を"死"と捉えている。屈した先に、"生"が待っていたとしても。
彼にとって"生きる"とは――反抗、戦いにあるのだ。
無抵抗、それは"死"と変わらない虚しい事なのだ。
故に、アーリは執念を絶やさない。
「殺す」
怒りと共に立ち上がる。
風が鳴く。
岩肌を撫で、砂を巻き上げる乾いた音。
その音の中に、僅かな“異物”が混じった。
アーリはまず視線を動かし、ゆっくりと首を追従させた。
「誰だぁ?テメェは」
いつからそこにいたのか。一人の女が立っている。
女の束ねた長い黒髪が風に揺れる。
だらりと手に提げた抜き身の剣。染みついた血の匂いがアーリの鼻をつく。
真っ直ぐアーリを見ている。
しかし、その視線は焦点が合っていないようにも見えた。
怒りも、憎しみも、ない。
まるで作業の延長に立っているかのような、虚ろな目。
「……気取られた」
囁くような細い声だった。
女は静かに剣の切先をアーリへと向けた。
「なんだよ姉ちゃん?俺とヤリてーのか?ん?」
アーリが口の端を吊り上げて身構え、提げていた身幅の太いナイフを抜く。
風が、止んだ。
刹那、視界が白く弾けた。
女の姿が消える。
視界の端で赤が弾ける。
アーリはそれが自分の血であると気付くのに一拍遅れた。
「ちぃっ!」
肩口から溢れる血を一瞥し、アーリが舌打ちする。
そして、振り向きざまにナイフを構え直す。
女は既に、剣の切先をアーリの喉元へ定めていた。
間を置かず、再び閃光が走る。
鋭い金属音と、電撃の爆ぜる音が荒野に響いた。
「雷の魔術士か!」
間一髪、アーリは女の攻撃を受け止めていた。
鍔迫り合い。力任せにアーリは女を弾き返した。
女は上手く力を受け流し、しなやかな動きで再び距離を作る。
(魔術を使った雷速……そして一撃離脱)
アーリは眼を血走らせ、女を見据える。
黒い装束に、軽装備。それだけでは何者かは特定できない。
しかし、髪飾りのなどの特徴からして、東域人である事に間違いは無いだろう。
「テメェ、何者だ?なぜ俺を――」
アーリが問い終わらない内に、雷が閃いた。
「――襲うんだ!答えやがれ!!」
目が慣れてきた。
辛うじて雷速の攻撃を防いだアーリが叫ぶ。
女は何も答えない。
そして、この攻撃はこれに留まらない。
女は刃を介して電流を流し込む、それはアーリの持つナイフへと移り、やがてアーリ自身へと到達した。
「……ぐぉっ!!」
アーリは獣のような唸り声を出しつつも、痙攣する脚を無理やり振り抜き、女を蹴り飛ばして距離を取った。
「舐めやがって!」
生身ではかなり分が悪い。
アーリはここに来て、遂に魔術を解放する。
肉が歪み、骨が軋む。狂気の魔術は、アーリを猛獣の姿へと変貌させて行く。
しかし、変わりきらない
その理由は――
(やっぱり間に合わねぇ!)
その骨格が完全な獣となる前に、雷が迫る。
間髪入れぬ雷速の剣技。雷光の散る一撃を、アーリは巨大な鉤爪で受け止めた。
女の攻撃の速度を鑑みれば、変身を遂げるまでに膾になるだけだ。
故に、アーリが選んだのは半人半獣の姿。完全な変身に比べれば、その能力は明らかに劣る。
(が、生身に比べれば幾分かはマシだ)
選択肢は今のところ無い。
「ぶっ殺す!」
それでもアーリは反撃に転じる。
地面が爆ぜた。半獣の脚が踏み込み、岩を砕く。
瞬間、アーリの巨体が掻き消える。
今度は力任せではない。獣の本能が選ぶ最短軌道。
爪が唸る。空気が裂ける。
女は雷速で迎え撃つ。
火花が散り、衝撃が生まれる。
だが今度は押し負けない。
爪が刃を弾き、雷光を叩き落とす。
アーリはそのまま体を捻り、追撃。
地面ごと抉る一撃。
女は跳ぶ。低い。
異様に低い跳躍。
岩を蹴る。木を蹴る。空中で軌道を変える。
(……速い、が)
今度は見える。捉えられる。
爪先が女の装束を裂く。肉には届かない。
だが確実に距離感を掴んだ。
アーリの口元が歪む。
「鬼ごっこは終わりだぜ!」
毛皮に覆われた太い脚で踏み込み、とどめの鉤爪を振るう。
――しかし、外れる。
完璧に読んだはずの軌道が、半歩だけ逸れる。
女は背後へ流れている。
(あぁ?何故だ?)
違和感。
今のは、避けられたのか。
否。“ずれた”。
読みに狂いは無い。間合いも合っていた。
なのに、届かない。
女の動きは不規則だ。それ故のズレなのだろうか。
一瞬の間を置いて、再び女が平原を疾駆する。電撃が地面を焦がし、空気を熱くする。
(今度は撹乱か)
それならば、わざわざ付き合ってやる必要はない。
アーリは重心を低く落とし、五感を集中させる。
(突っ込んできた所に、カウンターをブチ込む!)
女の息の根を止めるに必要なのは、渾身の強打。
爛々と輝く鋭利な眼光を巡らし、その機会を待った。
―――――――――――――――――
戦場から離れた岩陰。
風下。砂塵に紛れる黒衣の影。
細身の男が、静かに戦場を見つめている。
男は瞬きをしない。
視線は戦場を俯瞰する。
指先が、空中に見えない線をなぞる。
岩肌に刻まれた薄い紋様が、淡く瞬いた。
砂に埋もれた札が、静かに位置を変える。
円は、わずかに縮む。
「……良い」
男の表情は、張り付いた仮面のように変わらない。
―――――――――――――――――
砂煙の向こうで、雷が瞬く。
(来いよ!)
アーリが目を大きく見開く。
今度は直線。余計な弧はない。殺しに来た軌道。
踏み込みは一瞬遅らせる。呼吸を殺す。
雷光が喉元へ伸びる、その刹那――
「そこだァ!」
地面を砕く勢いで踏み込む。
鉤爪が閃く。
完璧だ。
間合いも、角度も、力の乗りも。
女の胸を貫くはずの一撃。
――だが。
足裏が、僅かに沈んだ。
ほんの紙一枚分。
踏み込みが“遅れた”。
爪が空を裂く。
雷刃が脇腹を掠める。
肉が裂け、血が散る。
「……っ!」
痛みよりも先に生じたのは違和感。
(遅れた?)
否。
遅れていない。
今の踏み込みは最速だった。力も溜めも十分。
なのに、届かない。
女は既に背後へ流れている。
だがその動きも、完璧な回避には見えない。
わずかに余計な弧。わずかに余分な一歩。
まるで、何かを踏む位置を選んでいるような。
雷光が再び走る。
アーリは受けながら、足裏の感触に意識を向ける。
砂、岩、乾いた地面。
変わりはない。
しかし――
踏み込む度に、身体の“芯”がほんの僅かにずれる。
力の軸が、微妙に狂う。
(……なんだ、これは)
速さではない。技量でもない。
自分の身体が、戦場と噛み合っていない。
その間にも雷刃が唸る。
かろうじて致命傷は避け続ける。
違和感は消えない。
女の動き――
地面を蹴る。岩に触れる。木の幹を掠める。
――触れている。
戦う為だけの動きではない。
(俺の動き、位置に合わせて何かをしてやがる)
確信には至らない。
だが、直感が警鐘を鳴らす。
速さだけじゃない。
何かが、仕掛けられている。
アーリは攻めを止めた。
見る。女だけを、見る。
その最中でも、雷光は走り続ける。
アーリは、一切追ってこない。半獣の巨体が、低く構えたまま動かない。ただ、その視線を巡らすのみ。
女の刃が空を裂く。
反撃は無い。
(諦めた……?いや、違う……)
女の目に映る獣の眼光は、依然として鋭く、むしろ先程よりも殺意が澄んでいる。
違和感。
それでも、女は剣を振い続ける。
獣肉が、電撃で焼き焦げる。血飛沫が舞う。
それでも、アーリは動かない。
視線のみが、女の動きを追い続ける。
踏む位置。跳ぶ位置。触れる瞬間。
(見ている……?)
胸の奥に、微かなざわめき。
円は崩れていない。
支援も途切れていない。
違和感。
しかし、攻めを崩す理由にはならない。
(このまま速度で圧倒する……!)
雷光が閃いた。
アーリは受ける。避ける。最小限だけ動く。
攻めない。斬られる。
肉が裂ける。鮮血が舞う。
その直後、骨が軋み、肉が盛り上がる。
傷が、塞がる。
半人半獣の姿が僅かに揺らぐ。そして戻す。
アーリはバーサークの特性である、"変身後の負傷の回復"を利用し、不完全な変身を繰り返す事で、攻撃を受けた側から変身、回復を行っていた。
だが回復が真の目的ではない。
女の動きを見極める事に重点を置く。
女の足運びだけを見る。
雷光の残滓。
踏み込みの位置。
着地の順。
岩、地面、木、岩、地面。
規則性はない。
はずだった。
アーリは気付く。
偶然ではなく、不規則な動きの中に規則性がある。
自分が動く度に、女の軌道が変わる。
踏み込もうとした地点を、必ず横切る。
背後を取ろうとすれば、その外周を回る。
真正面から来ると見せかけて、必ず“円弧”を描く。
(円……中心は俺か……!)
心臓が一度だけ強く鳴る。
もう一度踏み込む。あえて大きく。
遅れる。やはり、遅れる。
足裏ではない。
筋肉でもない。
“空間”が、僅かに軋む。
女が戦場の物質に触れた瞬間、
踏み込みの軸が狂う。
何かを置いている。
アーリを中心に繋いでいる。
――そして、雷が閃く。
アーリは避けずに真正面から受ける。血が吹き出す。だが視線は一切逸らさない。
刹那、女の指先が地面を掠めた。
耳が震える。鼻がひくつく。
――分からない。
「上等だぜぇ……」
ならば見つけるしかない。
半獣の姿が、さらに歪む。
骨格が軋む。皮膚の下で、別の何かが蠢く。
不完全では足りない。
今の五感を引き裂き、昇華させる。
「――バーサーク、混合獣……!」
獣の輪郭が、さらに崩れる。
牙は伸びきらず、角のように歪み、片腕は過剰に肥大し、もう片方はしなやかに細い。
眼球が熱を持つ。
鼓膜が震え、空気が“層”を持つ。
匂いではない。音でもない。
“配置”が、浮かび上がる。
雷が迫る。
だが今度は違う。
閃光の軌跡が、線ではなく“弧”に見える。
地面。
岩。
木。
そして――薄い、歪み。
砂の下。岩の裏。木の根元。
小さな、異物。
アーリを中心に、それらが糸のように繋がっている。
円。
(……これか)
女が岩に触れる。その瞬間、糸が震える。
自分の踏み込みが、わずかに削がれる。
力の流れが、削られる。
遅れたのではない。奪われていた。
「そうかそうか、そういう事かよ!」
再び雷刃が迫る。
アーリは踏み込まない。
横へ逸れる。
女の軌道が、崩れる。
一瞬。
糸が弛む。
その刹那。
キメラの脚が岩を砕く。
内側から、護符が露わになる。
巨大な鉤爪が叩き潰す。
糸が一本、切れる。空気が鳴く。
「……!」
女の瞳が、僅かに揺れる。
二歩目。
木の根元。
蹴り砕く。
三つ目。
砂を抉る。
札が弾け飛ぶ。見えない円が歪む。
雷の軌道が、乱れる。
最後の一点。
背後。
振り向きざまに、鉤爪を叩き込む。
地面が爆ぜた。
呪いが断ち切れる。
その瞬間、戦場の空気が軽くなる。
アーリが踏み込む。
今度は、遅れない。
地面は確かだ。力は削がれない。
「ふはははは!!分かっちまったぜぇ!!!」
混合獣が、不気味な笑い声を上げる。
「呪術ってやつだろ?姉ちゃんの魔術と……もう一人誰かいるんだろう?あぁ?」
自分が戦っているのは雷の魔術士である女だけではない。
彼女の攻撃を補佐し、アーリの感覚を歪ませる何者かが戦場に潜んでいる。
アーリの言葉に、女の瞳が僅かに揺れる。
「さしずめ、いまは"円"の修復中ってところか?」
砕き散らされた周辺を見渡して、アーリが言う。
「だったらどうだと言うんだ」
女が腰を落とし、鋭利な切先をアーリに向ける。
魔力が、増幅する。
「真っ向勝負といこうぜ」
アーリが牙を剥き出しにして、口を歪める。
獣は嗤い、雷が低く鳴る。
――そして、その均衡が崩れる時を、まだ誰も知らない。




